回游
部屋の大きさにも人間の大きさにも見合わない大きな二人がけのソファを買ったのは陽介がそのようにねだったからである。佳奈は別にどちらでもよかったので、陽介の好きなようにさせてやった。代金も陽介が少しばかり多く出したので特に不満はない。付き合いだしてから五年目、同棲し始めて一年半ほどが過ぎた頃のことである。その無駄に広いスペースに寝転がった陽介はよく、佳奈の太腿に頭を乗せて映画やドラマを見た。大したことはない、下らないとさえ言っていい習慣だ。
だが、そういう時間をふたりは愛している。
なんか見る、というシンプルな問いかけでそれは始まる。余程のことのない限り、問われた方は提案を採用することになる。
大抵の場合問いかけは陽介の方から発され、ディスクを選ぶのも陽介であることが多かった。細身の長身を屈めた陽介がラックを漁っている間に、佳奈は湯を沸かし緑茶を入れる。湯呑がふたつ出来上がると、一方は持ったまま、もう一方はローテーブルに置く。陽介の猫舌のためである。肘掛に置いても結局退けることになることを佳奈は経験から知っていた。そうしておいてからソファの左端に腰掛けると、自分の湯呑を肘掛に、大好きな薄焼きせんべいの小袋を左腿に置き、右腿に陽介の頭を乗せる余白を残す。これで佳奈の準備は整った。
一方、お気に入りのディスクをセットした陽介はのそりと立ち上がると、佳奈の右に腰掛ける。
「お茶ありがとう」
「うん」
それ以上のやりとりが続かないのは、陽介が早くも映画を見る態勢に入りつつあるからだ。最初は真っ直ぐに腰掛けているのだが、オープニングムービーがかかり、本編が始まった辺りで、佳奈がぽんぽんと右腿を叩く。そうして佳奈の『お許し』が出ると、初めて頭を乗せることになるのだった。
今日の作品はオープニングの前にプロローグがある。そのプロローグが終わったところで、佳奈は例のごとく、ぽんぽん、と軽く太腿を二度叩いた。ん、と小さく応じて、陽介は佳奈の腿に頭を乗せた。先に座面へ肘をついてから乗せるために、佳奈にかかる衝撃はほとんどない。ゆっくりと預けられる重さはベッドに身を横たえる時のように優しく心地いい。そこに広がる緩くパーマのかかった髪も佳奈は好いている。
陽介の長所のひとつは自分が許可したこと以外を絶対にしてこないという点にあると、佳奈は思っていた。無論、短所のひとつは強引さの欠如である。ある時、佳奈がずっと腿を叩かないでいたら、陽介は時折佳奈の様子を伺いつつも、エンドロール後にメインメニューが表示されるまで遂にもたれ掛かってくることがなかった。
陽介にはそういうところがある。
決まりきったルーティン以外のところではすぐに身動きがとれなくなる陽介のことを、佳奈は時折地震体験機もかくやの勢いで揺さぶってやりたくなることがあった。もっと私を引っ張って、どこへでもあなたの行きたいところへ連れて行きなさいよ、と。どこへでもついて行ってあげられるのに、とも。とはいえ、陽介がそんな要求に応えられるほどの積極性を有していないことも佳奈は知っていて、だからこそそれを実行に移すことはしないのだが。それでも時折はまだ、忠犬すぎる忠犬の姿に物足りなさを感じることもある。
頭を預けた陽介はやはり微動だにしない。別にそのくらいはいいのに、と思いながら、佳奈はせんべいの袋を開けた。広がるチープな油分の匂いが食欲をそそる。毎日大量に食していた間食を減らしたおかげで付き合い始めた頃に比べれば随分スリムにはなったはずだが、この薄焼きせんべいだけはどうにもやめられなかった。揚げ餅派だった陽介も最近は好んで食べている。なんでもないその変化は、態度や見た目に反して随分頑固らしい陽介にそれなりの変化をもたらすだけの時間を共に過ごした証のようで、佳奈にはどこか誇らしかった。
「いただきまーす」
小ぶりとはいえ二口が妥当であろうそれを、佳奈は一口で含んで、噛み砕く。ぱりり、と小気味よい音を立ててせんべいが割れる。
せんべいはしょっぱいので緑茶が進む。緑茶を飲むと、またせんべいが欲しくなる。するとまた緑茶を飲み、そしてせんべいを食べる。実に永久機関的なループである。陽介のお気に入りだけあって再生回数も比ではないこの映画の内容は、ほとんど暗記してしまっているに等しい。流水に体を浸すように画面を眺めながらせんべいと緑茶を往復するうちに、果たして己がせんべいを食べているのか、はたまたせんべいによって食べさせられているのかが段々分からなくなってくる。そうした曖昧さもまた、佳奈の好きなものだった。
そうしてのんびりとせんべいを食べている間にも、映画は淡々と流れ続け、進んでいく。
主人公は『十年後に会おう』という過去の想い人との約束を胸に、ちょうど十年経った昼下がりに長いメールを送る。しかし、そのメールは送信できずに返ってきてしまう。その文面を前に、主人公は本人を探すための小旅行に出ることを決意する。が、どれだけ足跡を追っても一向に想い人の気配はなく、と。そんな話だ。
「食べる?」
バスの車窓から街並みを眺める主人公の、光に透けた柔らかな茶色の瞳が美しい。これどこでロケしたんだろう、と関係のないことを考えながら、せんべいが半分ほどになったところで佳奈が問うた。
「ん……このシーン終わったら」
画面から目を離すことのないまま、陽介は呟くように応じた。
バスの終着点、乗り換えのために主人公は少し歩く。その短い時間に、探していた想い人と主人公とが、ほんの少し立ち止まるか振り返るかすれば巡り会えるような状況ですれ違ってしまうシーン。陽介がいつもじっと見入っているところだ。
佳奈は、このシーンを見ると何やらむず痒くなる。そしていつもバームクーヘンの事を考える。何が引き金になっているのかは定かでないが、とにかく見るとバームクーヘンについて考え始めてしまう。
あの茶色の年輪をぐるりと指でなぞっていけば、いつか中心にたどり着くのではないかと佳奈は疑っている。だが試したことはないし、果たしてそんな疑いがこのシーンに関係しているのかどうかも分からない。このシーンになるといつもそれについて陽介に話したくなるのだが、真剣に見ている陽介の集中を遮ってまでバームクーヘンの話題を振ることもできなかった。
佳奈がバームクーヘンとこのシーンの共通点について考えているうちに、二人はやっとのことですれ違い、画面にはまたひとりぼっちの主人公が取り残された。陽介は右手を持ち上げて耳の下を少し掻いた。
「……食べる?」
「うん」
佳奈はせんべいを一枚つまみ上げると、陽介の口元に差し出した。その手首を捕まえて、陽介は画面の方を向いて寝転んだまませんべいを口に運ぶ。
そんな体勢でせんべいを食べたら一体どこに入ってしまうか分からない、と佳奈は思うのだが、陽介は毎度器用に横向きのまませんべいを咀嚼し、嚥下する。重力の流れと喉の位置さえ気をつければ大丈夫、と陽介は佳奈にそう説明したことがあったが、未だに佳奈にはピンと来ていない。横を向いてせんべいを食べる機会も今のところ巡ってきてはいないし、今後も巡ってくることはないだろう、と思う。きっとその感覚について佳奈が理解する日は来ないのだ。
せんべいをつまんでいたところから少しずつ緩み、形を変えつつあった佳奈の手を、陽介はまだ捉えたままでいた。佳奈の方でも振り払うことはない。それもまたひとつの『お許し』である。そうすると、口をもごもごやって残ったせんべいを処理したらしい陽介は暫くして、徐に佳奈の親指の腹に唇で触れた。
そのまま、ちろ、と舌先で塩を舐め取る。
温かく柔らかなものの触れた感触は、それが離れて冷えて、初めて纏っていた湿り気を感じさせる。
「お茶も飲みなよ」
「うん」
うん、とは言ったものの陽介が起き上がる気配はない。小さくひと舐めしては舌をしまい、塩味を楽しみ、また舌を出しては塩を拾う。先に親指へ舌を這わせるのは、特に理由はなさそうなものの、陽介の中ではひとつのルーティンとして確立されているらしかった。親指についていた塩を余すところなく味わうと、今度は人差し指の方へ移る。脱力していた佳奈の中指と薬指が、ちょうど陽介の顎を上下に挟んで落ち着いた。
陽介がこうして塩を舐めたがる理由は、佳奈にはよく分からない。そういった性癖なのだろうかとも思うが、陽介がベッドの上で佳奈の手指に対する執着を見せたことはなかった。
かつて佳奈がその理由を問うた時には、もうちょっと塩分が欲しくて、とだけ陽介は言った。じゃあ袋あげようか、と文字通りに受け取った佳奈はそう提案した。であれば試しにと陽介も袋を受け取り、自分の指で掬い取った塩を舐めてみてはいたものの、どうもしっくりこなかったのかほんの数度でやめてしまった。その直後、ちょっと指貸して、という要請に佳奈が応じると、陽介はやはり差し出された佳奈の指先で袋の内側を拭い、その塩を舐め取って何やら意味深げに頷いたのだった。
それ以来、佳奈の指先に付着する薄焼きせんべいの塩分はほぼ全て陽介の口の中に消える。
その舌を拒むのであれば、己の手首を掴む陽介の手を振りほどけばいい。佳奈がそのようにしてみたことはないが、意外な程緩くしか握られていないそれは振り払おうと思えば簡単にほどける、という推測は、半ば確信に近い形で佳奈の中にある。
画面の中の主人公は想い人の養父の家を見つけ出し、その近くにかつて絵葉書で見た一本の柳を認める。その柳の木の下に腰を下ろし、背中を幹に預けて夕日を眺めるのだ。世界が焼けるような鮮烈な日没を目に焼き付けているうちに、主人公は最後に彼女から届いた手紙に記されていた言葉の意味に気付く。
「――おいしい?」
ドラマチックなシーンだが、せんべいの匂いを感じながら見ていては雰囲気も何もあったものではない。
佳奈が問うと、陽介は佳奈の手を口元から持ち上げてふっと笑った。
「うん。おかわり」
「はいはい」
苦笑しつつも佳奈はせんべいをつまみ上げ、また陽介の方に差し出した。陽介は佳奈の手首を取り、同じように一口で平らげ、咀嚼し、嚥下し、そして終わりに、指先についた塩を舐め取る。親指に始まったそれは十分な時間をかけて人差し指に移る。そうしてすっかり舐め尽くしてもなお残るものを探すように、陽介は佳奈の人差し指の先、その腹を緩慢に食んでいた。唇だけでなく前歯でも甘噛みをする。本気で噛んできているわけではないから痛みはない。ただ、普段は発生しないような感覚が少々くすぐったいという程度である。
緑茶を口に含んで、佳奈は一瞬陽介の横顔に落としていた視線を画面に戻した。イワシの群れを見ていると自分の体もそういう何かの集合体であるような気がする、と回想の中の想い人が主人公に打ち明ける。その後の台詞は佳奈の好きなものだ。
《群れなんだと思うの、私という個体は。
何かが起こって、私の中の何匹かが死んでしまうと、暫くは欠けたままなのだけど、そこにまた新しい稚魚が入ってきて群れが保たれる。そうやって入れ替わっていくうちに私は変化していくし、それを成長と言うんだと思う。それは、分かってるんだけど。だったら、成長は喪失の歴史ってことになる……。
私、不安なの。その不安に囚われているから余計に、多くのものが零れ落ちていって……時々、自分が何なのか、よく分からなくなる……。》
その内容に、共感は一ミリもない。ただ、飴細工の糸で拵えた鳥の巣のように、繊細で脆い、そういう彼女のあり方を象徴するような言葉だな、と佳奈は思う。そんな言葉を選ぶ彼女を愛した主人公の、若さや青さのようなものも、その台詞を透かすようにして伝わってくる。映画の中に散りばめられている様々な要素が、イワシの群れのように揺れながら存在する彼女の姿、曖昧な輪郭、その一点においてきゅっと束ねられているような感じがする。
陽介も、佳奈のこの意見には賛同してくれた。彼女の言葉については、共感するわけではないが論理は分かると。その言い方は、それはそれでどうも佳奈にはピンと来ない。論理は分かるというのはどういうことだろうか、と思う。
しかし、ピンと来ないということを佳奈は特段気にしているわけでもなかった。陽介という人間の中に自分には理解できない領域が存在しているという事実については、ただほんのりと好奇心のような、ワクワクするような感覚を覚える。陽介の中にはまだ分け入ることのできる深みがあるのだと思うと、そこで見出されるかもしれないものの可能性に、ふんわりと心が躍る。
「もう一枚いる?」
「ん」
応じた陽介はあっさりと指を離し、佳奈はまたせんべいを挟んで陽介に渡した。せんべいの割れる音は耳に心地いい。塩を舐め取られる感覚も、どちらかといえばそれは心地いい。ぼんやりとそれを眺めているうちに、佳奈はやはり、気になってくる。
「――ねえ」
「ん?」
「塩、おいしい?」
「……そうねえ」
のんびりと呟いた陽介はもう一度指先を舐ると、そうねえ、ともう一度呟いた。
「そうでもないの?」
「いや? んー、なんて言うか……」
言葉を探しているらしい陽介にもう一枚せんべいを取ってやって、ぱりぱりとその砕ける音を聞きながら待った。音が途切れた少し後に、また親指の輪郭を舌でなぞられる。小さく息を漏らしたのは何かを確認できたからなのか、陽介は横目にちらりと佳奈を見上げた。
「……あのさ」
「うん」
「佳奈ちゃんの指、おいしいんだ」
実に何気なく陽介は言った。
「……ほう?」
思わず漏らしてから、自分でも間抜けな返事だなと佳奈は思う。
「引いた?」
「ううん」
「本当?」
「……いや、ホントはちょっと引いた」
「あはは、やっぱり」
陽介のほんわりとした笑みにつられて佳奈も少し笑った。陽介はまたちろりと指を舐め、うんうんと小さく頷いた。自分の唇についた塩も簡単に舐め取って、やはり、曖昧に頷く。
「ねえ」
「うん」
「おにぎりってさあ、握る人の手によって味が変わるって、言うじゃない」
「うん」
佳奈も似たようなことを聞いた記憶はある。しかし、思えばそれは父の『父ちゃんが握ったのより母ちゃんの握ったのの方がうまいんだぞ』という言葉であり、佳奈の母は必ずラップを片手におにぎりを作る人であるから趣旨は違う。が、陽介の言いたいことは佳奈にも何となく察された。
「手の温度とか、湿り気とか握力とか、なんか、そういうので味が変わるって」
「分かるよ」
「うん。それと同じかなあ……」
親指が済むと人差し指へ。考え事をしながらも陽介のルーティンは崩れない。
「……いや、違うな。うん。そもそも、佳奈ちゃんの指先はおいしい」
「えーと、言っていい?」
「どうぞ?」
「だいぶ引いた」
「ははは」
朗らかに笑った陽介は、ごめん、と言って佳奈の手首を離した。もう舐めない、ということらしい。しかし、その対応は佳奈の望んだものではなかった。ああほらこの人また、と佳奈は内心微かに逆撫でされるものを感じながら、えい、と一声、自分から人差し指の先を陽介の唇の間に押し込んだ。
「んん」
「……あのさ」
「ん?」
「そうやって指の先舐められるの、嫌いじゃないよ」
ぱち、と陽介が目を見開いた。してやったりとばかり、今度は佳奈が笑む。
「引いた?」
「……ひょっほ」
「ちょっと?」
「ん」
くすくすと肩を揺らす佳奈を見上げていた陽介が、改めて佳奈の指先を食んだ。指紋の溝のひとつひとつまで探ろうとするかのように舌先を這わせた陽介は、次第にその動きを粘着質にしていく。魚群のきらめきのようなざわつきが佳奈の底をくすぐる。
「ねえ、やる気?」
「……このシーン、見終わったら」
そう言われて視線を画面に戻す。想い人との思い出を反芻した主人公は帰り道、大きな交差点で信号待ちをしている。その対岸にふと、想い人によく似た女性がベビーカーを押して現れる。その斜め後ろには買い物袋を提げた男が付き添っている。主人公は赤信号を渡ることができず、子供連れの夫婦は談笑しながら青信号を渡って、主人公の視界から消える。
「佳奈ちゃんさあ」
「うん」
「俺が佳奈ちゃんの人差し指舐めてる時、中指で俺の顎もにもにして、遊ぶでしょ」
「え?」
だから、と陽介が一言一句変えずに繰り返したのを聞いて、佳奈は深々と眉間に皺を寄せた。
「……嘘、そんなことしてた?」
「うん。つんつんとか、とんとんの時もあるけど」
「嘘」
反射的にはそう返しつつも、言われてみれば、と佳奈は思う。中指の記憶を手繰ると、確かにその感覚があった。曲げた指の先でつんつん、もしくは指の腹でとんとん。或いは、その曲げた指全体で顎を掴むようにして、もにもに。
「――ごめん、してたわ」
「嫌いじゃないよ」
画面を見たままの陽介がゆっくりと瞬きをした。
「……そう?」
「うん。ほら」
もにー、と呟いた陽介の唇に人差し指を差し込み、曲げた中指で「もにもに」をする。それそれ、と指先を咥えたままの陽介が言う。言って、なんだか締まりのない、しかし柔らかな雰囲気を湛えて頬を緩ませる。人差し指の先でそっと佳奈の指をどけて、そのまま何気なく自分の下唇に触れる。
「ずっと言おうと思ってたんだけどさあ。……うん。言えてよかったよ」
「そんなにずっと思ってたの?」
「うーん。塩舐め始めて、五回目くらいから」
「結構前じゃん」
苦笑気味に言いながら、そういえば私にも言いたかったことがある、と佳奈は思う。この映画を見ている今だから言える、とも。信号が青に変わり、主人公が横断歩道を渡っていく。その視線はずっと、あの子供連れの二人が去っていった方を見つめている。
「あのさ」
「ん?」
「陽介くんが好きなシーンあるじゃん。あの、バス降りて、ギリギリですれ違っちゃうところ」
「うん」
「あそこ見る度にさ、バームクーヘンのこと考えるの」
「……バームクーヘン?」
「そう」
「んふふ」
身じろいだ陽介が、仰向けになって佳奈を見上げる。
「なんでよ」
「なんでかは分かんないけど」
「ふうん。……いやあ。分かんないなあ。それは分かんない」
でも論理は分かる、と陽介はどこか嬉しそうに言って、ぷるぷると震えながらも腹筋だけで上体を起こした。
主人公はたった一人で本屋に入る。想い人に貸したきり返ってきていない植物図鑑の、増補版の新品をそこで買い求める。
静かに、しかし躊躇いなく。
佳奈はせんべいを口にいれ、噛み砕き、湯呑の底に残ったこの世で最も濃い緑茶を飲み干す。最後の一枚を引っ張り出した指先はほんの少しふやけ始めている。陽介は手付かずのまま十分に冷めた緑茶を一気に半分ほども飲んで、初めと同じように真っ直ぐソファに腰掛けた。
暗転。タイトルロゴの後に、エンドロールが続く。
「……終わったけど、どうする?」
陽介が静かにお伺いを立てたのを、佳奈はそうねえ、と笑った。
「バームクーヘン買いに行く?」
「……ええ?」
「ううん。言ってみただけ」
「ああ、なんだ。びっくりした」
大げさに胸を押さえてみせた陽介に、佳奈がやはり大袈裟なしかめっ面で応じる。
「そろそろ私の冗談の見分けくらいつくようになったら?」
「うーん。だったらさあ、俺が冗談の見分けがつかないってことも、配慮してほしいよ」
くすくすと二人笑って、陽介の視線が無言のうちに佳奈を誘う。空になったせんべいの袋を佳奈は丁寧に畳み、きゅっと固く結んだ。
そうしてふと上げた佳奈の視線が、陽介に対するシグナルとなる。
「――うん」
嬉しさの中にほんの少しのはにかみを滲ませて、陽介は頷き、のっそりと立ち上がった。デッキについているボタンで再生を止め、ディスクを取り出してケースにしまう。そのケースを持った陽介がラックのガラス扉を開けるのを、佳奈は結んだせんべいの袋を捨てに行くでもないまま眺めていた。
ガラス扉に添えられた陽介の指先は少し深爪気味だ。
それは一体どんな味がするのだろうと、口に残る塩分を探りながら佳奈は思う。その指が触れる感覚を思い起こす。今日も陽介は優しいのだろうと小さく息を吐き、その最後、じわりと広がったぬくもりに淡い溜め息を漏らして。
「――ん」
そうして笑みを浮かべた途端、扉を閉めた陽介と目があった。佳奈の微笑みは、うっすらと残るサラダ油の匂いに乗って陽介に伝染していった。
そういう時間を愛する二人である。
fin.