第1話 こんにちは、世界 Hello,World (2)
…
ぼーん、ぼーん、…。
振り子時計が7つの音を鳴らした。振り子時計のほうを見ると、文字盤の針は7時を示していた。ぼくははっと気づく。首が動く? 手を動かす。動く。立ち上がってみる。勢いをつけすぎて少しよろけたが、ふつうに立てている! ぼくは体の自由を取り戻していた…えあの言うとおりに。
このとき初めて、ぼくは先ほどまでふかふかの大きいソファの上に、座るような姿勢で「固まって」いたことに気づいた。周囲を見回してみる。とても大きい、正方形の部屋だ。壁は石造り、高い天井。空間の大きさは…縦横だいたい10メートル、高さは5メートルぐらいはありそうだ。教室より大きいんじゃないか?
壁際に歩いていって、窓の外を見る。この家は丘の上にあるらしく、遠くまで森や草原が広がる景色を望むことができた。そのさらに向こうには小高い山が山脈のように連なっているのがわかる。ぼくは思わずため息をついて、腕を組んでしまった。いったいここはどこなんだろう? ぼくの家から見えるのは、乱立するマンションと家の屋根、それに張り巡らされた電線ぐらいのはずだ。こんな若干の癒やしがある風景じゃない。
ぼくは窓ガラスに微かにうつる自分の姿を見て、自分が制服姿のままであることに気づいた。寝る前と同じ格好だ。妙に現実感がある。そして、足元を見ると、なぜか通学用の靴をはいている? いよいよなんだかわからない。
ぼくはあらためて部屋を見回した。
あまり飾りのない部屋だ。家具と言えるのは、中央に置かれているソファと大きな机、それにそこにしかれたふかふかのカーペットぐらい。部屋には二つ、扉があって、一つは えあがこの部屋の出入りに使った小さな扉、もう一つはそれとは反対の側にある大きな扉だ。えあが「外へ出る扉」といっていたのがこれらしい。
ぼくはソファのところに戻って、座り込んだ。これは夢なんだろうか、現実なんだろうか? 現実だとすると、ぼくはどうやって自分の部屋からこの部屋に運ばれたんだろう? なぜそんなことを? まさか、ぼくが未覚醒の「能力者」で何らかの「組織」がぼくを拉致した…?
ふうとため息をつく。考えて答えが出るならじっくり考えてもいいけど、どうも出そうにない。えあはこの家を出て、街に行け、と言っていた。とりあえず、それに従ってみるか。
ぼくはソファからゆっくり立ち上がると、外に出られるという大きな扉の前に歩いていった。かなり大きな扉だ。手で少し押すと動いた。鍵はかかっていないらしい。ぼくは思い切り力を入れて、扉を開けた。
途端にまぶしい光が差し込んできて、ぼくは思わず手を顔にかざした。まぶしい。しばらく目を慣らしたぼくは外の景色を見渡す。一本の道の向こうには、街が広がっていた。少し大きな広場を中心にして、はちみつ色の建物が半円状に立ち並んでいて、その中にひときわ高くそびえる時計台が見える。ふっと朝の爽やかな風が吹き込んで、ぼくの頬を撫でた。
ぼくは外に出ると、力いっぱい押して扉を閉めた。少し後ずさりして、いままでいた家の外観を見る。石造りの大きな邸宅だ。周りは木々に囲まれ、玄関の扉の左右には、たくさんの花々が咲く庭も広がっている。えあはこんな大きな家に、一人で住んでいるのだろうか?
ぼくは振り返ってあらためて街を見た。違和感がある…というか…ここは日本なんだろうか? あんな色のマンションばかりが立ち並ぶ街なんてあるのかな。どちらかというと、テレビで見たヨーロッパの街のような印象だ。
ぼくは道を歩き出す。乾いた土を踏む音がする。リアルだ。目の前に見える街も、現実のように思える。ぼくはもうこれが夢か現実か、考えても仕方ないんじゃないかと諦め始めていた。
えあの言うとおり、道はやがて下り坂になって、しばらく歩くと川にかかる橋にたどりついた。その向こうが噴水広場だ。橋を渡る。大きな川ではないけど、谷のように流れていて、橋の高さは川面から10メートルはありそうだ。橋がないとこの川を渡るのは難しいだろうな。
噴水広場に来てみると、この広場が想像以上に大きいことがわかった。直径100メートルほどの円形になっていて、中央には噴水が設置されている。周囲にははちみつ色をした、3階建ぐらいの建物が広場を取り囲むように立ち並んでいる。その間を幅10mぐらいの通りが7つ、広場を起点にして走っているようだ。あらためて建物をじっくり見ると、どれも古びていて、その雰囲気はぼくの住んでいた街――というより、日本――と全然ちがっている。やはりどことなくヨーロッパのような印象だ。
見上げると、建物の窓から人が出てきて洗濯物を干している。広場にも何人かの人が歩いている。ぼくは広場の中心のほうに向かって歩きだした。左手に高い時計台が見える。すごい存在感だ。針は…午前7時30分をさしていた。もう起きて学校に行く用意をしなきゃいけない時間だな。母さんがぼくを起こしに来てくれるとありがたいんだけど…。
えあの言っていた『カフェ・プロコープ』らしき店はすぐ見つかった。立ち並ぶ建物の真ん中にテラス席を備えた店が見える。きっとそこだろう。ぼくは店の前まで歩いていく。入口の壁に”Café Procope”と”GENDARMERIE”と刻印された銘板が示されていた。ここでまちがいなさそうだ…。
いやいや、ちょっと待て!
”GENDARMERIE”って何? こんな英単語、知らないけど。ここ、ほんとにどこなんだ? さっきの えあって子はふつうにぼくと話していたし、外国人には見えなかった。もし外国なら、英語でぎりぎりコミュニケーションできたらいいけど、お金が通用しな…
お金? そういえば、ぼく、何か持っているの?
ぼくは両手をズボンのポケットに突っ込んだ。右手の先に何か小さいものが当たった感触がある。ぼくはそれをつかんでそっと取り出した。
それは、ブリキでできた手押し車だった。
しばらくぼくは手のひらにあるそれをじっと見つめる。なんだ、これ? ぼくはこんなものを持っていた覚えがない。どうしてこんなものが制服のズボンに入っているんだ…?
ぼくは気を取り直して他のポケットも探してみたが、くず一つ見つからなかった。つまり、ぼくの所持品はこの、なんて言えばいいかわからない、ブリキのおもちゃ一つということらしい。
自分の状況を把握したぼくは立ちつくしてしまった。見知らぬ土地に一人、所持品はおもちゃ一つ。ここの2階の自警団に行って事情を話したらお金ぐらい貸してくれるかな? 日本語がわかる人がいてくれるといいけど。あ。大使館とかに連絡をとってもらえば何とかなるんじゃ…。大使館って英語でなんて言ったっけ…。
「どうしたの?」
ぼくは後ろから声をかけられた。振り返ると、そこには一人の若い女性がぼくを怪訝な顔で覗き込んでいる。ぼくは突然のことに、言葉を返せず、その女性をじっと見つめてしまった。白いニットと濃紺のパンツですっきりまとめていて、その人からは同級生の女子とはちがう、大人の素敵な雰囲気を感じた。
ぼくはその雰囲気に気圧された…というと、正確じゃないな。恥ずかしながら異性との会話の経験が少ないぼくは、彼女の問いかけに もごもごとしてしまっていた。
「あ。キミ、新しい住人さんだよね? ここの自警団を訪ねてきたんでしょ?」
その女性は一瞬の間を置いて、怪訝な表情から笑顔に変わった。セミロングのやわらかい栗色の髪を右手でおさえる。彼女の小指のピンキーリングが陽の光を反射してきらりと光った。
「え、ええと…。ぼく、今朝目が覚めると、あの丘の上にある家にいて…」
「あー。じゃあ、やっぱり今朝こっちに来たんだね。えあちゃんから、ここの2階の自警団を訪ねるように言われたんでしょ? れおさん、いるかな…」
ぼくはうなづく。と、同時にほっとしてじわっときてしまった。このわけのわからない土地で、話が通じる人がいてくれた! こんなにうれしいと感じたこと、あったかな。その女性はぼくが目をぬぐうのを見て、驚いたようだった。
「ど、どうしたの?」
「い、いや。ごめんなさい。その、ほっとして…」
「あー。ま、そうだよね。いきなり変なところに来たわけだもんね…。あ、ちょっと待ってて」
そのとき、店から少し年配の男性が出てきた。その女性はそれに気づくと、ぼくのそばを離れてその男性に話しかける。男性はぼくのほうをちらりと見て、女性に首を振った。女性は男性に頭を下げると、ぼくのところに戻ってきた。ふっと甘い香りがした。
「れおさん、外出中みたい。よかったら、お店で待ってようか」
「…れおさん?」
「わたしの友だち。自警団の団長をしているんだ」
そう言って、その女性はお店に入っていく。ぼくはその後ろ姿をぼーっと見つめながら、ぽつんと店の外で立っていた。その女性はそれに気づいて怪訝な顔で戻ってくる。
「どうしたの?」
「いや…その、お金ないんです」
「あー、そっか。いいよ。カフェオレとクロワッサンでいい?」
「え?」
「ごちそうしてあげるから。ほら早く」
にこりと笑って、その女性はぼくを手招きする。ぼくは言われるまま、店に入った。