第1話 こんにちは、世界 Hello,World (1)
ぼくはうっすらと目を開いた。
まだもうちょっとは寝られるかな…。眠りから覚めるときの、いつもの気だるさを感じながら、ぼくはぼんやりとそんなことを考えていた。7時30分…いや、40分までなら二度寝できるはずだ。いま何時だろう?
ぼくは自室の壁にかけられた時計を見ようとして、異変に気づいた。…あれ、首が動かない? 体をひねろうとする。それもダメだ。手や足に力をいれても動かない。体のどこも動かない…?
少しあせったぼくは、必死に左のほうに視線を向けようとした。だが、何かおかしい。ぼくの視界に入る景色もおかしいんだ。目に飛び込んできたのは、母さんが飽きが来ないからといってぼくの部屋のために選んだベージュの壁紙ではなく、少し明るく照らされた冷たい灰色の石の壁だった。しかも、それは何メートルか向こうにあるように見える。
どういうことだろう? 壁紙はともかく、ぼくの部屋はベットと机、それに本棚がはいるぐらいの狭い部屋で、そんなに奥行きがあるはずがない。きょろきょろと目を動かす。まず、ぼくの正面には、重厚なこげ茶色のとても大きい机――幅2メートルはありそうな――が、ぼくを押しつぶしそうな雰囲気で置かれている。こんな机もぼくの部屋にあるはずはない。そもそもこんな大きい机、どうやってぼくの狭い部屋に入れるというんだ。
机の後ろには――これも数メートルは離れているようだ――石造りの壁があり、そこには暖炉の煙突があるようだった。その煙突をずっと目で追っていくと、高い天井にたどりついた。その天井には、ちょうどぼくの上ぐらいに吊るされたシャンデリアがある。シャンデリアといっても豪華なものじゃない。ほとんど装飾がなく、古びた質素なものだ。でも、そこに明かりはついていなかった。あれ…じゃあ、この部屋はどうして明るいんだろう…?
ふたたび左手の壁を見ると、そこには大きな窓があった。薄いカーテン越しに朝日が差し込んでいる。ああ、そうだ。朝だもんな…。
だけど、ぼくが納得できたのは、いまが朝だということ、それだけだった。
目が覚めたら…変な部屋にいる? なんで?? ぼくはふうと息をついて、あることに気づいた。いやいや、ちがうちがう。まだ夢を見ているんだよ。目が覚めたと思ったら、次の夢を見ていた…ってことだよね、きっと。
そう考えると、首や体が動かないのも腑に落ちる。金縛りだ。ああ、そうか。なんだ。夢か…。じゃあ、もうちょっと寝れるんだ。いま何時かわからないけど…。
そう考えたぼくは、目を閉じてふたたび眠ろうとした。
ばたん。
突然、静寂をやぶって音がした。
目をそろっと開けて様子をうかがう。正面左手奥に扉があって、そこを開けて誰かがこの部屋に入ってきたらしい。それは…薄い緑のワンピースを着た少女のようだった。その子はとことこと早足で歩いてきて、ぼくの正面にある机の向こうにちょこんと座る。
もしかして、この子、幽霊かな? 金縛りのときは幽霊を見る体験をするっていうけど。
今日、学校で友だちに話すネタにはちょうどいい。どんな子だろう? まじまじとぼくはその子を見た。肩ぐらいに切りそろえたきれいな黒髪。おでこの上でピンク色の花の髪留めピンでまとめている。目をふせて机の上の何かを見ているようだ。低く差し込む朝日が彼女の淡い桃色の頬を明るく照らしている。ぼくより幼く見える。3歳ぐらい下かな?
うん。わりとかわいい子じゃないか。ぼくの夢にしては上出来だ。
ぼくがそんなことを考えていると、その子がぼくの視線に気づいたらしく顔を上げた。
「もう意識あるんだね。おはよう。気分はどう?」
その子はすごくはっきりとした声でぼくに話しかけた。幽霊と会話できるのか? 面白いな。ぼくは彼女の問いかけに答えようとしたけど、うまく話すことができない。
「おあ゛…。あ゛…?」
「…あ、声、出にくいよね。ゆっくりでいいよ。誰しも最初はそうだから」
その子はいつものことといわんばかりに、ぼくにそう言った。
「あたしは、えあ。君の名前を教えてくれる?」
「こ…た。こーた…」
ぼくはこれが夢だってことを一瞬忘れて、必死に声を出していた。
「こーた、だね? まちがってない?」
ぼくはうなづこうとしたけれど、動かない。どうしよう。少しの間、沈黙が流れる。その子はうなづいて、ペンを取ると手元の何かにかきこんでいるようだった。ぼくが言い直さないから肯定したと受け取ったらしい。
「君の名前をリストに登録したよ。これで君も街の住人の一人。よろしくね」
その子――えあっていったっけ――は、ぼくにぺこりと頭をさげた。
これ…夢なんだよね? 妙に現実感があるけど、本当に現実なのかどうかわからない。現実だとしたら、どうしてぼくは自分の部屋じゃなくて、こんな部屋にいて、目の前の えあって子と話しているんだろう?
「君、541番目だね。…541って100番目の素数だったっけ」
「…え…」
えあはつぶやくようにそう言った。だが、それがどういう意味なのか、ぼくにはわからない。どうして素数が話題になるのか。そもそも541が素数なのか。それが100番目?
えあは頬杖をつきながら、ぼくに尋ねた。
「君、あたしよりちょっと年上? 高校生? 数学好き?」
なんだろう、この質問。ぼくは えあの言うことの意味もわからないし、考えるのも億劫だし、それに声も出にくいし、返事をしなかった。ぼくの態度から察したのか、彼女ははっとした表情で頬杖をつくのをやめるとこう言った。
「あ。しゃべるの大変だよね…。目覚めてから1時間くらいは体の自由がきかないから。とりあえず説明するから、聞くだけ聞いていて」
ぼくは少し考えた。えあは、ぼくが体の自由がきかないことを知っているし、それを特別なことととらえていない。いつものことのようにふるまっている。ぼくにとっては十分ふつうじゃないことが起きているのに。夢? 金縛り? 幽霊? いったいなんだって言うんだ?
えあはぼくの左手側の壁を指さした。目で追うと、さっき見た窓の横、視界の端に大きな振り子時計が見える。えあは言った。
「いまは午前6時10分かな。7時になれば、体も動くようになって、歩けるようになると思う」
そして、えあはすっと腕を横に動かす。どうやらぼくの背後にある何かを指さしているようだ。残念ながらぼくには何があるか見ることができない。
「見えないと思うけど、君の後ろに外に出る扉がある。その扉を出ると、丘を下る道がのびていて、それをまっすぐ歩いていくと街につく。15分もかからずに行けるよ」
ぼくは えあの説明を聞きながら、見える範囲で周りを見渡した。石造りの壁、高い天井、窓から低く差し込んでいる朝日。やはり、どこをどう見ても、ぼくの部屋じゃない。
「坂を下ると橋があってそれを渡ると街なんだ。渡るとすぐ噴水広場があって。その広場に面したカフェがある…えと、名前は『カフェ・プロコープ』。その店の2階にね、自警団の本部があるから。まず、そこを訪ねて、詳しくこの街のことを教えてもらって。わかった?」
えあはゆっくりと説明してくれた。もちろん意味はわかる。後ろの扉を出て、道をまっすぐ坂をおりていけば、橋がある。渡ると、噴水広場に出て、その広場に面したカフェ…『カフェ・プロコープ』だっけ? そこの2階の自警団本部を訪ねる…。意味がわかることと、腑に落ちることはまったくちがうんだ。なんだろう、この夢は??
ぼくの意識はだいぶはっきりしているのだけれど、夢の奇妙さと現実感の間でだいぶ混乱していた。夢にしては現実感が強く、現実だとしたら奇妙すぎる。いったいどっちが本当なんだろう。
ふいに えあが顔をそらして、両手で口をおさえた。あくびをしているらしい。ちょっと恥ずかしそうにこちらを見て、ぼくに言った。
「…君のように、新しい住人の人は毎朝やってくるから、あたしも毎朝5時に起きて用意しないといけなくて。あくびくらい出るでしょ? もういいよね? じゃあね」
そう言うと、彼女はぼくの反応を待つことなく、すっと立ち上がって、入ってきたのと同じ扉のところまで歩いていって、出ていってしまった。
ばたん。がちゃ。
静かになった。
左手のほうから振り子時計の規則正しい、小さな音が聞こえてくる。低く差し込む朝の光で部屋はだんだんと明るくなってきた。
ぼくは目を閉じる。こうしていれば、この夢はいずれ終わるだろう…。