放課後、僕は彼女に殺される。
教室で一人、『夢』を見ていた。
現実で起きたことが、悪夢となって自分の中に棲みついている。
何度も見るその『夢』は、ある結末を迎えるまで、決して覚めることはない。はずだった。
「はっ……はっ……!」
少女は、明かりのない夜道を走る。何者かから逃げるように、何回も後ろを確認しながら。
とうの昔に体力は限界を超えており、息も続かない。
追ってくる誰かとの距離は、縮まる一方だった。
「たすけ……! だれか……!」
必死に助けを求めたが、それほど大きな声も出せず、地面の凹凸に足を取られ、こけてしまった。
そして、逃げていた相手との距離は、数秒でゼロになった。
――怖い怖い怖い怖い怖い。
それ以外の何も頭に思い浮かばなかった。
足はガクガクで、息も荒い。地面を這ってでも、得体の知れない人から逃げようとした。
しかし、それらの行動も空しく、体を仰向けにされて、上から圧し掛かられる。
「いやっ……! はなして……!」
顎鬚の生えた人相の悪い男が、彼女の両腕を片手で掴み取る。
もう片方の手は、自らのポケットに突っ込むと、一本のナイフを握って、彼女に向けた。
「おとなしくしねえと。殺すぞ」
馬乗りになった男は、少女の制服を切って、白い肌を月夜の下に晒す。
抵抗したところで、男の力に少女が敵うはずもなく、それに気づいてしまった彼女は、全身の力を抜いた。
――私、犯されるんだ。
男は少女の体を舐め回していたが、彼女は全てを諦めていたために、無反応だった。
そのことを面白く思わなかったのか、男は笑みを浮かべて、持っていたナイフを地面に置く。
「もっと苦しそうにしてくれよ! なぁ!? そうじゃねえとこっちもやりがいがねえんだよ!」
少女の手を放して、自由になった男の両手は、少女の首元へと向かった。
彼女の首をがっしりと掴むと、男は笑みを浮かべながら思いっきり力を込めて、殺すつもりで首を絞めた。
「かっ……はっ……!」
顔を真っ赤にしながら苦しそうな表情を浮かべる少女。その姿を見た男は、満足げに手を放すと、自らのズボンを脱ぎ始める。
逃げることもできず、どうしようもなく、ただ、絶望するしかない。
希望なんてどこにもないと思っていた彼女だったが、地面ではない、冷たい何かに手が触れた。
ひんやりとした、金属製で、平べったいもの。
――これは。
男が地面に置いた、ナイフの刃の部分。それを触っていた。
彼女が凶器を手に取ろうとしていることに、男は気づいていない。自分の欲望を満たすことに夢中のようだった。
こんなにも近くに希望が転がっているとは、思いもしなかった。
――私の手って、結構長かったんだ。
これから行うことへの逃避からか、どうでもいいことが頭の中に浮かんでくる。
それでもやるしか道はなく、男の首元にナイフを突き刺した。
鮮やかな『赤』が視界を包み込んで、体に降りかかるそれらは生暖かった。
男から噴き出した液体の色を認識できたのかと問われれば、答えはノーで、その時は真っ暗で色の判別ができる状況ではなかった。
それでも目に焼き付いて離れなくなった、その『赤』は、彼女の頭の中にだけ、確かに存在していた。
彼女の罪を認識させるように。
そして、『夢』の結末へと向かうはずだったのに、誰かにそれを邪魔された。
同じクラスの男子。名前は――――。
――僕は彼女のことが好きだった。
高校二年の夏。
夏休みにもかかわらず、自称進学校のこの高校では、課外授業が毎日のように行われていた。
遅い時間までやるわけではなく、昼ご飯を食べてから一時間ほどで授業が終わる。
そこから帰る人もいれば、部活に行く人もいる。が、教室に残って勉強する人などいない。
いつもだったら無人の教室には、珍しく、昨日と同じメンツが揃っている。
一人は、椿本 岳。
これと言って挙げられる特徴が存在しない、眼鏡を掛けた少年。
もう一人は、笠嶋 真琴。
長い髪に白い肌、高貴な雰囲気で男子を寄り付かせない。同じクラスの男子とすら話しているところ見たことがないくらい、徹底的に女子以外の存在を避けていた。
椿本は、二年生で同じクラスになった時から彼女に見惚れてしまっていた。
彼と彼女が教室に二人っきりでいる状況は、これが初めてではなく、昨日もそこで話をした。
ずっと男子を避けていた好きな人と初めて会話することができた。そして、今もその人と対面している、という夢のような状況下にいるはずなのに、彼は自らの顔を強張らせていた。
彼自身が緊張しているというのは勿論のこと、もう一つ、彼をそうさせる理由があった。
「昨日はよく眠れた? まあ、その顔を見れば、分かるけど」
彼女の言う椿本の顔、目元には大きなクマができており、そこから、自らの質問の答えを導き出した。
彼女は、笑みを浮かべながら、彼をじっと見つめ、言葉を続ける。
「いっぱい考えてくれたみたいで嬉しい。でも、結論は分かり切ってるのに、何を考える必要があったの?」
答えにくい質問に椿本は少し考えた後、口を開いた。
「苦痛に見合った幸福なのか……どうか……? 他に、良い方法はないのか、とか……そんなこと考えてたら、朝になってた」
「それで、他の方法、見つかった?」
彼女の問いに、彼はかぶりを振る。
「そう。あんなに大胆に私に迫ってきたのに、昨日までの椿本くんはどこいっちゃんたんだろうね?」
昨日とは違う彼の態度を、クスクスと笑いながら煽ってみせる笠嶋。
そんな彼女の表情が可愛すぎて、椿本は思わず目を逸らしてしまった。
すると、彼女は彼の視界に無理やりにでも入ろうと、二人の距離を詰めだす。
「ねえねえ。こんなことで照れてるようじゃ、私と手も繋げないよ? これから、手を繋ぐ以上のことを私とできるかもしれないのに、ねえ?」
「まだ、昨日のこと、受け入れるって、言ったわけじゃない……」
彼女の手が、静かに彼の頬へと触れた。
額から垂れてきていた汗を、その指が上手にすくいとって、彼女は、舐めたそうに舌を出してみせる。
「だったら教えて? 昨日一晩中考えた結果、その答えは?」
椿本は、笠嶋が昨日提示してきた『契約』について、結論をどうするか、昨日から考えてきた。
今朝になっても答えは出せず、こうして彼女を前にするまで、考えがまとめられずにいた。
それが、彼女と一緒の空気を吸っているこの時間を経て、固まった。
――この気持ちは、昨日から一ミリも変わっていない。
「笠嶋さん」
「はい」
「改めて……――僕と、付き合ってください!」
椿本の出した答えに笠嶋は笑った。
嬉しさからこみ上げてきた笑顔ではあるが、自分も彼のことが好きだから、という単純な理由ではない。
これはあくまでも、彼との『契約』に過ぎない。
「ありがとう、椿本くん。私を受け入れてくれて。私を、死ぬほど愛してくれて」
体をビクッと反応させながら、唾を呑み込む椿本を、彼女は優しく抱きしめる。そして、彼の耳元で、吐息を吹きかけるように尋ねかける。
「怖い?」
最接近した彼女の顔を未だに直視できない彼は、小さく首を横に振った。
「うそつき」
体全体の震えが止まらないこんな状態では、彼女の方もお見通しのようだった。
好きな人と付き合える上に、抱きついてくれている、こんなにも幸せな状況のはずなのに、冷汗が滝のように流れてくる。
彼女を不快にはさせていないかと少し心配していると、不気味な音が聞こえた。
ぐちゃ。
その音は体の中から聞こえた気がする。思い返すと、昨日もこれと全く同じ音を聞いた。
腹部に激痛が走るとともに、周りの机を巻き込みながら、仰向けに倒れこむ。
ガラガラと机と椅子が、不快な音を立てた。
「あ……」
倒れゆく最中に見えた彼女の手には、血の付いたナイフが握られていた。
刺したのは笠嶋、刺されたのは椿本だ。
――だから、これから……
白いカッターシャツに血が滲み、床に広がっていく光景を見下ろしながら、彼女は笑う。
段々と血の気が引いていくその顔を、見たのは、昨日と合わせると、これで二度目だ。
そして、これから何度もこうなることを、承知の上で、彼は彼女を受け入れた。
分かっていたのに、この様で、慣れていくとは思えず、それはこれからも変わらない。
椿本が笠嶋と付き合う為には、自分の死が付きまとう。
何故なら、告白を受け入れる条件が、彼女に殺されることだから。
――放課後、僕は彼女に殺される。
彼女のナイフで刺された腹部が致命傷となって、椿本は絶命した。
「うそつき……あと――――おかえり」
彼女は上機嫌に、彼の耳元で、そう呟いた。