崖っぷちのくらくらさん
倉内さんは今日も寝ている。
窓からの風に栗色の髪を揺らしながら。倉内さんは今日も寝ている。
彼女が机に体を預けて寝ているこの時だけは、教室の片隅は静謐に包まれる。
僕はこの静謐が好きだった。
「倉内さん」
呼びかける。静謐は切って捨てた。
倉内倉子。
それが彼女の名前だ。
「起きて、倉内さん。もう授業終わったよ」
「あさって起きる……」
「今日起きて」
呼びかけに応じず、倉内さんは変わらず寝息を立てる。
放っておけば本当に明後日まで寝ていそうだった。
「起きてよ、お腹すいたでしょ」
「……ほんとに?」
「聞き返さないでよ」
生理的欲求には敵わなかったか、「おなかすいたかも……」とぼやきながら倉内さんは体を起こした。
眠そうに目をこすり、ふらふらと立ち上がる。倉内さんのお目覚めだ。
寝起きの、曖昧で、無防備な姿。
少しだけ悪戯心が沸いた。
「……高杉くん?」
倉内さんは気の抜けた声で僕の名を呼ぶ。
構わず僕は手を伸ばす。ふわふわと揺れる彼女の髪に指先が触れた。
柔らかな感触を楽しむ僕に、硬質の声がかけられる。
「高杉くん」
倉内さんはそこに佇んでいた。
静を纏った立ち姿。髪に触れる指には目もくれず、琥珀の瞳が僕を射貫く。
普段の眠たげなイメージとは異なる、ソリッドな気迫。
それは紛れもなく、目の前の彼女から放たれていた。
「女の子の髪に気軽に触ってはいけません」
「……ごめん、つい」
「確信犯でしょ」
「まあね」
いけると思ったんです、ごめんなさい。そう言って頭を下げる。
すると彼女は、気迫を消してふわりと笑った。
「正直すぎ。ちょっとは取り繕ってよ」
「正直だけが信条で」
「それが美徳なの?」
「ううん。嘘をつくのも面倒くさいんだ」
そうなんだ。そう言って、彼女はふわふわと微笑んだ。
あくまでも、クラスメイトとしての日常会話。
それきり僕に興味を失ったのか、倉内さんは帰り支度を始めた。
彼女との会話は、いつも気まぐれに始まって唐突に終わる。
行動基準は気分次第。捕まえようとしてもするりと抜ける。
まるで猫のような人だった。
「ねえ、高杉くん」
だから、会話はここまでだと思っていたけれど。
今日の倉内さんはいつもより機嫌が良かった。
「高杉くんって変な人だね」
「倉内さんに言われるとは思わなかった」
「私だから言うんだよ」
どういう意味か、と問い返すまでもないだろう。
彼女、自分が変人であることを十分に自覚していた。
「嘘はつけないんだね」
「面倒くさいだけ。その気になれば嘘くらいつけるさ」
「じゃあさ、私のこと好き?」
何気ないように彼女は聞く。
何気なく僕は答えた。
「別に」
「だと思った」
「あ、ええと……。好き、です?」
「無理しなくていいよ。そういう意味じゃないから」
嘘をつくのは面倒だけれど、傷つけるのは本意では無い。
そう思ってのフォローはすげなく断られてしまった。残念。
「私は高杉くんのこと好きだよ」
「そうなんだ」
「どう思った?」
「そうなんだ、って思った」
「……さすがに傷ついたかも」
言葉とは裏腹に倉内さんはふわふわと笑う。
傷ついたと言うのは嘘だろう。彼女は楽しげだ。
「高杉くんは人に興味がないんだね」
その言葉に息を呑む。
いつも眠そうな彼女は、見た目にそぐわず鋭かった。
「……なんで?」
「嘘は円滑なコミュニケーションのためにあるのです」
「上っ面な関係だ」
「普通はそれで十分だからね」
人間関係は嘘の上に成り立つ。倉内さんはそう切って捨てた。
ゆるりと放たれた苛烈な論に、僕は思わず苦笑する。
「でも、私には興味ある感じ?」
「そうかな?」
「髪触ったじゃん」
「そうかも」
「いつも起こしてくれるし」
「それは」
倉内さんと話したいから。
その言葉は飲み込んだ。
それについて考えると、僕自身、僕のことが分からなくなる。
「なんでもいいよ。高杉くんが私のことをどう思っているかは、この際どうでもいい。そこは大した問題じゃないの」
すっ、と。倉内さんの瞳が鋭く輝く。
性質が変わる。ふわふわした雰囲気は鳴りを潜め、ソリッドな気迫が表に出る。
時折、倉内さんは別人のように研ぎ澄まされた一面を見せる。
「問題は高杉くんが私の髪を触ったこと」
「ええと……。ごめんなさい」
「そうじゃなくて。普段は教室の隅で案山子になっている高杉くんが、興味のまま率直に行動したことに、私の好奇は向けられている」
滔々と語る彼女はやや毒舌だった。
案山子て。確かに僕は目立つタイプではないけれど。
「面白いかも」
窓から差し込む夕日に照らされ、倉内さんは静を纏う。
垣間見た彼女の二面性。
僕は、それに惹かれていた。
「高杉くん。この後、予定ある?」
だから僕は、彼女の言葉に「ないよ」と答えた。
*
すでに日は落ち、街は宵闇に包まれた。
ネオンの光が闇を退けるここは、駅前の繁華街。
「倉内さん。校則違反だよ」
「あんな校則、誰も守ってないでしょ」
汝、未成年のみで繁華街を出歩くべからず。
ちょっとお堅い校則を踏み潰しながら、ゆるふわな彼女は街を征く。
形骸化した校則だけれど、制服のまま歩く僕らが浮いているのは確かだ。
たとえば。ちょうど向かいから歩いてくる警察官に捕まれば、面倒なことになるだろう。
「高杉くん、こっち」
倉内さんは迷うことなく路地に入り、警察の目をすり抜ける。
彼女、なんというか。とても手慣れていた。
「本当に見かけによらないな……」
「レッテルでしか人を計れない人間にはなりたくないよねー」
「反省します」
倉内さんは周囲を警戒しながら機敏に路地を縫う。
夜型よりも、もはや夜行性と言うべきか。
本当に猫のような人だった。
「いや、猫は正しくは夜行性ではないんだったかな」
「猫? 猫がどうしたの?」
「にゃーん」
「にゃーん」
路地を歩きながら、僕らは鳴いた。
「ところで倉内さん、どこに向かってるの?」
「スウェーデン?」
「日帰りで行けるかなぁ」
柔らかに笑って、倉内さんはくるりと振り向く。
そして、にっこりとした笑みのまま。胡乱な言葉を繰り出した。
「廃工場の吸血鬼って、知ってるかな」
「……吸血鬼?」
「そう、吸血鬼。最近出回り始めた噂で、繁華街の外れにある廃工場には吸血鬼が住み着いているらしいよ。なんでも毎夜誰もいない工場から血の匂いが漂うだとか、目を血走らせた男が出入りしていただとか、そんな話」
「信憑性は?」
「ないない。所詮ただの噂だよ」
でも、と彼女は楽しそうに続ける。
「面白そうじゃない?」
まるで純真に、倉内さんはにこにこと笑う。
そんな彼女に、僕は思ったことをそのまま言った。
「趣味が悪いね」
「あ、ひどい」
口ではそう言いつつも、倉内さんは楽しそうに笑っていた。
かと思うと、ちょっとだけ不安そうな顔をして。
「興味ないかな?」
「……いや。面白そうだ」
「よかった。高杉くんならそう言ってくれると思ってた」
倉内さんは踊るようにくるりと回り、路地の奥へと進んでいく。
吸血鬼はともかくとして、楽しそうな彼女を見るのは実際面白かった。
*
ネオンも届かぬ裏路地にそびえる廃工場は、目も当てられぬほど朽ち果てていた。
塗装が剥げたトタンにはサビが浮かび、荒廃の香りを色濃く描く。
散乱するのはボロボロの廃材。暗くてよく見えないが、虫の住み処になっているだろう。
「あは。当たりっぽい」
そんな廃工場を見て、倉内さんはご満悦だった。
「怖くないの?」
「怖いよー。ゾクゾクするよね」
「楽しそうだけど」
「うん。怖くて、楽しいよ?」
そもそもの価値観からして違った。
「お邪魔しまーす」
律儀に小声で挨拶して、倉内さんは廃工場に足を踏み入れる。
僕もそれに続き、スマホのライトで中を照らした。
「うわー。見事に荒れてるねえ」
きょろきょろと周りを見る倉内さんは、この期に及んで楽しそうだったけれど。
僕は、工場に足を踏み入れて。
何かを感じ取り。
ごくりと、唾を飲んだ。
「わ、釘が散らかってる。危ないなぁ」
饐えた匂いの裏に漂う、かすかな血の匂い。
非日常の匂い。
導かれるように視線を吸い付けられたのは、工場奥に並ぶ木箱の一つだ。
「パイプも鉄骨もサビだらけだね。元は何の工場だったんだろう?」
足下に気をつけながら木箱に近づく。
一歩ごとに重さを増す匂いが、嫌な予感を猛然とかき立てる。
それでも僕は、木箱の前に立っていた。
「ほら見てよ、これなんてもう完全に……高杉くん?」
木箱の蓋は簡単に開いた。
蓋を開けると、甘く生臭い腐臭が解き放たれた。
木箱の中に入っていたもの。
それは、バラバラになった人間の死体だった。
「やっぱり君、面白いよ」
気がつくと、倉内さんが側に立っていた。
木箱をのぞき込み、非日常の権化と対面した彼女は。
琥珀の瞳を爛々と輝かせて、噛みしめるように笑う。
「いい。すごくいい。たまらない。ああ、とても、とっても――」
放たれるのはソリッドな気迫。
ふわふわとした曖昧な雰囲気は消え失せ、確固たる個がそこに成り立つ。
「くらくらするね♡」
倉内倉子。
刺激と非日常を病的に愛する少女。
この時僕は、彼女をこう呼ぶことにした。
崖っぷちのくらくらさん、と。