拝啓母さん、魔王なんてやめちまえ
硫黄の匂いが鼻をつく。
あちこちにあふれる溶岩。
広いホールの奥には、ものものしい大きな扉。異形の浮き彫りは、いかにもらしいラスボス感だ。
よくある昔のRPGアプリの、最終盤みたいだなとおれは思った。
この向こうに魔王が居る。
道中の数々の妨害に、誰も欠けずにたどり着けたのは奇跡に近い。汗と血にまみれた顔を突き合わせ、頷きあい、大扉に手をかけると、地響きを立てながらそれは開いて……
血塗れの剣をひねり合わせた歪んだ王座。
その前に立つ人物を目にし、頭が真っ白になった。
ゲームよろしくエフェクトがかった響き渡る声で、かけられたのは聞き慣れた言葉。
『おかえりなさいユウちゃん!あらいらっしゃい、今日はお友達も一緒なのね!』
「勇者様を愚弄するか、魔王!」
ユウちゃんなど、その言動は許さじと、気色ばむ仲間たち。
「……やめるんだ、メネ」
片手で制し、しかし視線はそらせない。
体型を隠すファストファッションのワンピース。
肩から羽織ったカーディガンもそうだ。
年甲斐の無いエプロンドレスにおたまを握り、足にはマスコット入りの靴下に、微妙な模様のスリッパ。
いつもの売れ残り特売コーディネートだ。王座の横に流れる溶岩の上、なぜか据え付けられたオーブンと吊るし鈎。大鍋を鈎に吊るして何かを煮ていた。懐かしい肉じゃがの匂い。
彼女だけがこの部屋から浮いている。この世界からは全く断絶した異文化。けれどおれには見慣れた風景だ。仲間たちには、理解し難いおぞましい何かと映るんだろう。
彼女は、俺の隣で厳しい顔で槌鉾を構えるメネ……桃色の髪の少女騎士に視線を向けて、にっこりと破顔する。再び口を開いた。
「ユウちゃん、その子、彼女?」
「ちっげえよ!」
どうも異様さに気がついた仲間たちがひそひそとつぶやきを交わし。
背中に汗が伝う。この世界に飛ばされてこの方、何度も交わした命のやり取りを超えて、これが一番の修羅場だと思う。
おれは、叫んだ――――
「ふっざけんな、やめろよ、母さん……!」
……腹の底からの絶叫で目が醒める。
ひどい脱力感。ぐっしょりと汗に濡れた背中。
「……勇者様、母君に何が……」
眼前には痛ましげな祭司長の顔。
彼と他の術士たちの力を借りて、おれ専用魔法の行使中だったはず。
今見てきたものは、全部夢だと思いたかった。でも。
「勇者様、勇者様!」
「未来視の結果をお示しください!」
「我らが討つべき敵を!憎き魔王の姿を……!」
押し黙ったままのおれを、手伝いに集まった術士たちの期待に満ちた声が、矢ぶすまのように貫いた。
魔王とその配下の略奪と蹂躙甚だしく、かつて家を失い、家族を失い、命ひとつ抱えて追われてきたと聞いている。
傍らには桃色の髪の少女……メネが控えていた。
魔王の暴虐に人々は手を取った。六都議会の全会一致、研鑽も軍備も準備万端、倒すべき敵の姿を未来視の魔法で見定めて、これから宣戦するはずだったのに。
沈痛な面持ちで皆を諌める祭司長が、ふと顔を反らして、おいたわしや、と口の中でつぶやくのを見て、おれは意識を手放した。
いたわしい。確かに。思い出すだに今にも顔から火を吹いて、水桶にでも飛び込みたくなる。
あれは、起こるべき現実なんだという。ふざけんな。
異世界で勇者になったら、世界平和を阻む魔王は、おれの母さんだったんだ。
*
職業、勇者。
こういうときに、ひとまず体を動かしていれば鍛錬を建前に許される、今の仕事で良かったと、無心で剣をふるいながら思う。
おれのような平凡な高校生に迎えが来たと知った時には、やっぱりワクワクした。クローゼットの中から人が出てくるなんて、おれに助けを求めるだなんて、映画やゲームの導入だけだと思っていた。
「勇者様、お召し物が」
「ああ、あとで直すよ」
胴着が裂けているのに気がついて、修練はそこでお開きになった。
「付き合わせてごめん」
「私もこういうの、好きですから」
打ち合いを終えて修練場の壁に木剣を収めると、布を巻いて作った槌鉾を収めて汗を拭い、からりとした明るい顔でメネは笑う。
どうやら祭司長たちは、未来視の中身を言えずに黙り込むおれを、目覚めのときの叫びから、母の惨たらしい犠牲を見たのだと思ったらしい。今はまだ、何も聞かずに居てくれている。
こちらの世界に喚ばれて以来、右も左もわからなかったおれの教育係と護衛とを務めてくれているメネも、何も聞かない。ただ、皆とは違い、いつもと何も変わらない様子で接してくれるのが嬉しかった。
だから、メネになら話せると思ったんだ。
修練場の隅に置かれた丸太に二人座り込み、めいめい革袋に残った水を煽って、一息をついて。
「……おれさ、向こうに母さん置いてきてて」
「……はい」
ほんのすこしの間を置いて、返答。
未来視の話ときっとわかったろう。怖くて顔は見れない。けれど、いつもと変わらない穏やかな声の調子に背中を押された。
「うざいんだよ。すっごい干渉してくるんだよ。小さい頃からずっとそうでさ、めちゃくちゃ少女趣味でさ……」
干渉過多の理由は覚えてる。
小さい頃から俺の両親は共働きで、おれはマンション下の保育園。
ある日自然災害で交通網が寸断、父さんはインフラ復旧の仕事で帰れず、おれは、母さんか縫いつけてくれた、ウサギのアップリケのついた両膝を抱えて小さくなって待っていた。
怖かった。時計が何度巡っても、両親が迎えに来ないのも。いつも優しい先生たちが、疲労の色濃く息をついているのも。クラスの皆は一人、また一人、父や母と抱き合って、帰っていってしまうのも。そんな中でも、ニコニコと笑う二匹のウサギはいつもと変わらなくて。そこだけに残った日常を、逃げないように抱きしめていた。
母さんは時計がてっぺん超えるまで、線路を伝って歩いて迎えに来てくれた。でも、不安からなのか、それからしばらくおれは様子がおかしかったらしくて。おれを夜中まで迎えに来れなかったこと、おれに不安な思いをさせたという後悔からの過干渉なんだよと、当時の謝罪と一緒に父さんからこっそり聞いた。
わくわくとやってきたこの世界に、ちょっと中二病がかって暮らしてきたこの世界に、自分の母親がやってくるとか、過保護を心底恨むけどさ。悪夢でしかないけどさ。それがさらに魔王だなんてさ。各地での災禍を散々に聞いていてさ。
「そんな母さんだけど、悪いやつじゃなくて……」
「はい」
メネだけは誤解を解きたいと、本題を切り出したその時。
ピコンと音がして、ゲームじみた緑色表記のインターフェイスが立ち上がる。画面に目標の方向を示すガイドが表示。
何かいる。視界の端で、人々に紛れて、誰か手を振っているのに気づいた。
すっぽり被ったフードからこぼれた、見覚えのありまくる笑顔。
(わ、悪いやつじゃ……)
「わかります。……ところで勇者様、何で急にひそひそ声に?」
(いや……、ちょっと……、声が……というか……)
視界の端、緑の矢印の下、ピコピコしているあいつに絶対に聞かせてなるもんか。
(しゃ、しゃべりすぎたかなーゴホゴホ)
「あら。ならば薬湯をお持ちしましょう」
見たくない。絶対に目を向けたくない。
お前、何やってるんだよ。ここは異世界だよ。しかも敵地の真ん中だよ。見つかったら死んじゃうよ。
横目でちらりと見る。すっげ笑顔で手を振って、パクパクと口を動かし何か言っている。サムズアップ。絶対にろくなこと言ってない。
ほんとなんなんだよ。授業参観かよ。
おれはがっくりとうなだれた。
*
慌ててメネとわかれて、遠回りをしてあのピコピコ跳ねてたあいつを撒いて。
汗を流してあてがわれた部屋に戻ると、案の定、あいつがひとり佇んでいた。
「あら、おかえりなさい、ユウちゃん」
「……なんで、そんな笑ってられるんだよ」
どこで見つけていたものか。
あとで直そうと思っていた穴開きのダブレットを、ちくちくと繕う母さんの姿。
その姿に重なって、コックピットのHUDじみた、緑の文字のインターフェイスには『Target』の文字。
紐付けられたヘルプを押すと、目の間のリストに唯一浮かんだ、おれの使命目的は。
【魔王を倒せ。(0/1)】
右上に現れる円形のレーダーには、目の前に輝く赤い光点。
「……母さんが魔王とか、嘘だろ?」
母さんは答えない。相変わらずの間の抜けた笑顔を浮かべ、ほころびたおれの服を繕っている。
可愛らしいうさぎのアップリケを無心に縫い付けて。
膝が抜けないように。園服に。裾を破いた時に、体操着に。いつだってそうやって、男のおれには恥ずかしい、いかにもな少女趣味で。どっから持ってきたんだよそれ。わざわざ作ったのかよそれ。わざわざピンクに染め抜いて。
その光景は、日本に暮らしていたときと、何ひとつ変わらなくて。
「何でそんな、笑ってられるんだよ!」
だから、カチンときてしまったんだ。
「やめろよ、そんなの。やめろよ、魔王なんて。おれ、勇者だよ!?」
そう、勇者だ。そう望まれて、おれは世界を渡った。
魔王を倒すべく、力を蓄え、技を研いだ。
でもなんで、母さんまでここにいるんだよ。
なんで母さんが魔王なんだ。
「おれ、こんなウサギのワッペンつけてさ……母さんを、殺すのかよ!」




