あの日に誓った約束だけは忘れなかった
僕がまだ小学生の頃、僕を暗闇の中から引き上げてくれた女の子がいた。その女の子は太陽みたいに眩しくて、転校生であるにも関わらず、すぐにクラス一の人気者になった。
彼女にはたくさんの友達がいた。だからずっと一人でいる影の薄い僕のことなんて、気にも留めないんだろうなと思っていた。それでもいつか、僕に話しかけてくれないだろうかと、そんな淡い空想に恋い焦がれていた。いつか僕に話しかけて、彼女と仲良くなりたい。
そんな奇跡が起こらないことぐらい、僕は知っていた。
けれどある日、彼女が僕に近付いてきて、手を差し伸べてくる。ずっと一人でいた僕に、一緒に遊ぼうよと笑顔で言った。他にも多くの友達がいるにも関わらず、彼女は僕のことを誘ってきた。
戸惑いながらも頷く。それから彼女は、ドッジボールをする時も、サッカーをする時も、クラスでグループを作る時も、いつも僕のことを誘ってくれた。僕を暗闇の中から引き上げてくれた女の子。
次第に僕の顔にも、周りのクラスメイトと同じような笑顔が浮かんでいた。
けれどある日を境に、彼女がバッタリと学校に来なくなった。「あなたにだけは教えていい」と、水瀬さんから言われた。そう、担任の先生が言った。
僕は担任の先生に連れられて、大きな白い建物の中に入っていく。そこがどういう場所なのか、子どもの僕にも理解は出来ていた。
『水瀬風夏』という名前の表札がかかった部屋の前に辿り着く。先生はドアをノックして、僕を中へ入れてくれる。
いつも太陽のように眩しい水瀬さんは、窓際のベッドに座って本を読んでいた。病衣に身を包み、腕からは細い管が伸びている。僕に気付いてこちらを見ると、彼女はやっぱり笑顔を浮かべた。
「おはよ、一ノ瀬くん」
内緒だよと、彼女は言った。心臓の病気にかかって、ドナーが見つからなければ、大人になる前に死ぬということを、水瀬さんは教えてくれた。
「大人って、いつ……?」
僕がそう訊き返すと、水瀬さんは困ったように微笑んだ。
「実は、私もわかんない」
けれど大人になるまでは、必ず僕の前からいなくならないと約束してくれた。お互いに小指を差し出して、指切りをした。
翌日僕は、水瀬さんに本を持ってきてほしいと頼まれる。なんでもいいから、一ノ瀬くんの好きな本を持ってきてと言われ、僕は『星の王子さま』を選択した。
その本を持って、学校帰りに病院へ行く。ちゃんと周りを見て歩き、信号機も青に変わるまで決して渡らなかった。けれど僕は、不幸にも青の横断歩道へ突っ込んできた乗用車に跳ねられた。
次に起きた時には眼前に白い天井があって、体を動かそうにも、痛みでそれどころではなかった。お母さんが僕の顔を覗き込んで、「よかった……本当によかった……!」と、泣いてくれる。奇跡だと、その場にいたお医者さんは呟いた。
それから数日後、なんとか歩行できるようになった僕は、ここが水瀬さんの入院している病院だということを知る。
けれど水瀬さんの病室へ遊びに行っても、彼女の姿はない。僕の後をついてきていたお母さんは、とても言いづらそうに、その事実を教えてくれた。
水瀬風夏は、容態が急変して亡くなったと。
※※※※
水瀬さんが亡くなってからの数年間。僕の心にぽっかりと穴が空いてしまったのか、いつも不在の気持ちを抱えていた。太陽みたいに眩しかったあの子は、もういない。大人になるまではいなくならないと約束したというのに。
大切な人との別れを痛く思い知った僕は、それから他者に対して不用意に近づくことを拒んだ。もうあんな思いは二度と味わいたくない。きっとこれは、呪いのようなものなのだ。
親の仕事の都合で、ずっと住んでいた町を離れることになったが、むしろ好都合だった。悲しみの記憶に満ちたこの町に、未練はない。いつまで待っても、彼女が戻ってくることはないのだから。
それならばどこか遠い場所へ行きたいと、僕はいつからかそんなことを思うようになっていた。
※※※※
僕が遠い町へ引っ越したのは、ちょうど高校二年の夏休みの頃だった。夏休みの学校へ、新しい制服に身を包み登校する。
職員室で、担任の笹原先生に挨拶をした。いかにもな体育教師然とした風格を漂わせていて、僕を認めるとすぐに笑顔を浮かべた。
「君が一ノ瀬くんか。私が君の担任の笹原だ。これから半年間よろしく」
「よろしくお願いします」
僕にはなんとなく、それが作り笑いなのだということが理解できていた。周りで事務作業をしている先生方も、どこか重苦しい空気を抱えている。何か、あったのだろうか。
先生は僕だけに聞こえる小さな声で耳打ちしてきた。
「ここに来て早々こんな話をして申し訳ないが、一応頭の中へ入れておいてほしいことがあるんだ」
申し訳なさそうに、彼は続ける。
「実は夏休みに入る前に、亡くなった女の子がいるんだ……しばらく教室の空気が重苦しいかもしれないが、察してあげてほしい」
亡くなった、女の子がいる。全く関係がないというのに、僕は水瀬風夏さんのことを思い出していた。ぽっかりと穴が空いた心が、今はひどく痛む。どうして遠い場所に来てまで、こんな思いを味合わなければいけないのだろう。
「……わかりました。気をつけます」
「助かるよ」
それから親へ渡す資料の説明をしてくれて、その日は帰ってもいいことになった。今日はただの顔合わせのようなもので、本格的に通い出すのは夏休みが明けてから。
先ほどの亡くなった女の子の話を聞いて、僕はなんとなく憂鬱だった。どうして転校生をそんなクラスにいれるのだろうかと思ったが、それは女の子が亡くなったからなのだろう。欠員の出たクラスに僕が投げ込まれた。ただそれだけのこと。
なんとなく家に帰る気分にはなれなくて、僕は仕方なく校舎の中を見学と称してうろついた。図書館も体育館も美術室も、僕が以前通っていた高校とあまり変わらない。屋上は封鎖されていて、音楽室からは楽器の音が漏れてきている。吹奏楽部の人たちが演奏をしているのだろう。その音を聴きながら、グラウンドの方へ出た。
残りの学校生活をここで過ごすことに、かけらも不安は抱いていない。他者へ不用意に近付くことを是としない僕は、周りから孤立してもいいと思っている。初めから誰かと仲良くなりたいとも思っていないし、そもそもこんな影の薄い僕と仲良くなりたい奴なんていないだろう。
そんなことを思いながら僕は、雲一つない青空をふと見上げた。燦々と太陽がグラウンドの土へ照りつけている。そして今日の最高気温は三十七度だったことを思い出した。
暑さにやられて、僕の頭はおかしくなったのかもしれない。本来ならいるはずのない場所に、女の子が立っているのが見えたのだから。
校舎の屋上。区切られたフェンスの上に、制服を着た髪の長い女の子が立っている。僕は驚いて、思わず声を張り上げていた。
「今すぐ降りろ!! 危ないぞ!!!!」
僕の声が聞こえたのか、彼女は遥か頭上からこちらを見下ろしてくる。遠すぎてよく見えなかったが、驚いた表情を浮かべているように見えた。驚いたのは、この僕の方だ。
そして彼女はこちらへ、大きく手を振ってくる。遊びでやっているのだとしても、その行為は危険すぎる。今すぐフェンスの内側へと降りなければ、風が吹いた時に体勢を崩して地面へ真っ逆さまなのだから。
誰か、彼女を止めることができる人はいないのか。辺りを見渡しても、ここにいるのは僕だけ。どうにかして、彼女をフェンスの内側へ降ろさせたかった。
けれどそんな願いも虚しく、タイミングを見計らったかのように強い風が吹きすさぶ。頭上にいる彼女は、その風に揺られて体制を崩した。
そしてそのまま、僕の数メートル先へと落っこちてくる。死ぬかもしれない。そんなことが脳裏をよぎったが、僕の両足が動き出すのが先だった。
気付けば僕は走り出していて、地面を強く蹴り彼女を受け止めるために両腕を広げる。そして運よく、落ちてくる彼女のことを両腕で抱きしめることができた。そのまま僕の体は、彼女を抱きしめたまま地面の上を転がる。
死んだ。そう、思った。
屋上から落ちてくる女の子を、地上から助けることなんて不可能だ。そんなことは、よく考えなくても頭で理解できていた。
それでも助けたかったのは、もう目の前で誰かが死んでほしくなかったから。そのために自分が死ぬのなら、むしろ本望だった。誰かを助けることで、僕が死ぬのなら。だって死んでしまえば、また水瀬さんに出会うことができるのだから。
けれど、僕の体は地面を転がった時にできた鈍い痛みが走っているだけで、まだ意識はあった。無事であるはずがないのに。
「……ねぇ、大丈夫?」
僕の腕の中にいる彼女が、そんなことをつぶやく。大丈夫かと聞きたいのは、こっちの方だ。どうして、そんな呑気な声を出していられるんだ。
「私、幽霊だから。助けなくても、大丈夫なんだよ」
幽霊だから、大丈夫。そういえば、あんなにも無茶な助け方をしたのに、彼女を抱きしめた時に強い力を感じなかった。本当なら衝撃がかかり、僕の命まで危なかったはずなのに。
「あなたの名前、なんていうの?」
彼女が僕に問いかける。けれど、目の前で誰かが死ななかったことに安心したのか、急に体が弛緩して眠気が襲ってきた。
「あなただよ。あなたの、名前」
もう一度彼女は問いかける。
僕の名前は、一ノ瀬隼斗。
落ちかける意識の中、女の子の声が聞こえた。
そう……っていうんだ……私……は、倉木希美……
やっと……けた。一ノ瀬くん……助けてほしい人がいるの。お願い。あなただけにしか、できないことだから……