救えるものが何もなくても、守りたいものがここにあるから
「ねえ、姉さん」
追い詰められた――否、おびき出したと言った方が正しいが――その先で、俺は彼女に呼びかける。
「ん? どうした」
背後は崖。その下は……なんか、白っぽくて気持ちが悪いうじゃうじゃが、うじゃうじゃで……うん、見なかったことにしよう。あれをあの人たちはキュイドと呼び、今俺たちを追いかけて来ているイヴィルと同じような、でも同じでないもの、なんて言っているが、あれだとイヴィルの方が見た目はまだマシだ。
「このまま二人っきりで……ってのも、良いと思わない?」
揺れる、揺れる。俺たちの立っているこの地面が、何者かの足音で、揺れている。ズシン、ズシン、とまるで祭祀のときに流れる音楽のように音を立てて。さながら俺たちは、祭祀の中でいけにえにされる哀れな少年少女役ってところか。いや、そんなものを経験したことはないし、したくもないけれど。
そんな音楽の合間、俺の耳は確かに姉さんが鼻で笑っているのを聞いた。
「なーに、バカ言ってんだ。ここに何をしに来たのか、もう一度その足りない頭に教えてあげようか?」
平生と変わらない顔色の姉さんは、怖いくらいに平坦な口調でそんなことを言う。まあ、姉さんがつれない態度なのは知っていた。それにもちろん、ここに来た目的だって。
「実験、でしょ。そりゃあ、分かってるけどさあ……」
「そ。ならいいけど」
実験、或いは単なる力試し。それがこんな、どう考えても不吉な想像しかできない場所まで来た理由であることは重々承知している。ついでに、今なお距離を縮めてきている足音の主が、彼にとっての俺たちがそうであるように、俺たちにとってもただの標的の一つだ、ということも。
なればこそ、ここで死ぬことはそもそも想定されていない。姉さんはそう言っているのだ。
……まあ、あいつらにとっては有象無象の中でもちょっと特別な俺たちという存在が死んだって、貴重といえば貴重な実験体が死んだことを惜しみこそすれ、すぐに興味の対象をほかの向きへ変えると思うが。本当の意味で死を惜しんでくれる人間なんていやしないだろう。
と、途轍もなく大きな音が俺の耳を震わせた。
「ほら見て――来たよ」
姉さんが目を細めながら俺に言う。俺は姉さんが目を向ける、もうもうと上がる砂ぼこりに目をやり――そこには、大きな影が差していた。ちょうど、岩を粉砕したというところなのだろう。右の手を気だるげに振りながら、そいつが……、大きなイヴィルが、姿を現した。
筋骨隆々のそいつは四つ足で、手が二本あって、ついでにめちゃくちゃでかい。比べれば破城槌と矢のようなもので、そんな俺の貧弱な身体を見たのか、そいつは馬鹿にするように鼻を鳴らした。赤黒く染まったその口端がうっすら上がり、それを見とがめるように姉さんが鋭くイヴィルを睨みつける。
イヴィルは姉さんの視線を感じたらしく、周囲を見回している。そんなんじゃ、姉さんは見つけられないけれど。
いい気味、ってやつなのだろう。姉さんが笑う。
それはいいとして、あいつの脅威は――何といっても、額から生えた天さえ貫くような大きな一本の角だろう。
そりゃ、筋肉はやばいし図体はでかいし、こっちの攻撃が通るかもわからない。でもそんなことは他の、研究所で見たイヴィルたちも同じで、何より。
他のイヴィルたちじゃ、俺たちでは戦いにもならないとあいつらが言った。
だから、あの角にさえ気を付けていれば、きっと何とか――なるのか?
「やっぱ飛び降りた方がいいんじゃない? ほら、これと戦うよりは楽に死ねそうだ、うん」
崖の下も崖の下であのうじゃうじゃの中に……ってのは、それなりに嫌だけれど、バラバラ死体よりも溶けるくらいなら気持ち悪くないんじゃないかと……どうだろう、心配になってきた。
「つべこべ言ってないで行くよ愚弟。さ、手ェ出しな」
戦いたくないなあ、なんて思いながら、背後を見ていた目を姉さんに戻す。差し出された真っ白な左手は、こんな太陽にさらされても日焼けを知らないようで。
「あー、やだなぁ……」
呟きながら、まるで目の前のイヴィルのような俺の黒い手で彼女の白い肌を包み隠した。
「さあ……」
吐き出すような、姉さんのかすれた声。
瞬間――俺の体に力がみなぎってくる。
「「狩りと、行こうじゃねェか!!」
――熱い。痛い。
姉さんの燃え滾る血が、俺の体を内側から侵していくみたいだ。
「行くぜェ……ッ!!!」
視界の端で、姉さんの体が真実薄れていく。憑依状態に入ったのだ。
もう、負ける気などしなかった。
イヴィルの身体が、闘争心が、――俺を、俺たらしめている。
目の前の巨体へ飛び掛かる。浅黒い二つの体が交差した。
(そこだ、行け!)
姉さんが俺を支援してくれている。それを肌で感じながら、俺はじっとイヴィルの目を見つめていた。
俺は本当の意味での命の奪い合いをするのはこれが初めてだ。少し興奮する。……いや、姉さんの影響かもしれないけれど。
(ひでェなァ……)
あ。これ、あとで殴られるやつだ……。
気が逸れた一瞬を、イヴィルは見逃さない。すかさず追ってくる右手に拳をぶつけ、俺はそれを相殺する。イヴィルがおどろいたような顔をした気がした。そりゃ、この膂力、普通の人間が出せるもんじゃない。
余計な思考を切る。本当の意味で、姉さんと俺は同化した。
イヴィルとぶつかり合った衝撃で、崖が嫌な音を立てた。歯を食いしばり、勢いを殺して転落を防ぐ。……まずいな。
崖を壊す覚悟で、思いっきり足に力こめる。姉さんが俺をほめた気がした。
「てりゃあああああああああッ」
足から伝わったエネルギーをすべて拳に乗せ、イヴィルに向かって一直線に飛ぶ。轟音が耳をつんざく。もう、戻れない。
「とりゃッ! ふッ、はああッ」
一つ、二つ、三つ、と俺の体がイヴィルをたたく。連撃に押されている、そういう確かな手ごたえを目の前の壁のような奴から感じた。
(気ィつけろ、なんか仕掛けてくる)
姉さんの声に目を動かす。
少し離れたイヴィルの、その後ろ脚が地面を蹴って。
「ッ!! このッ!」
イヴィルの角をとっさにつかみ、突進を躱す。まずい、早く決着をつけなければ。
同種の焦りが、角の主からも伝わってきた。
(焦るな! しっかり見ろ!)
「わかってるッ!!」
心を、水鏡のように穏やかに。大丈夫、――俺は、イヴィルを殺す。
崩れた崖側を背にして、イヴィルがまたも突進を仕掛けてくる。中空にいるままの俺を、今度は角で刺そうとするように。崖の方から、またも崩れる音が響いた。
姉さんに体を奪われる。俺の体がイヴィルを避けた。
(ったく、いつまでたっても世話の焼ける)
礼を言いながら、不自然に動く視界でイヴィルを見据える。
(角、奪うぞ)
「ああ」
地面に立って休む間もなく、俺たちはまた空中へ飛び上がった。
*
俺がいる。姉さんがいる。イヴィルは――死んでいた。
俺の腕じゃ抱えられないほどの大きな角は、俺の手で奪われて転がっていた。
「終わったね」
(なんか、物足りなかったなァ……)
不満げな声だ。……生身の生き物と相対するのは初めてだし、結構奮戦した方だと思うのだけれど。
(違ェよ、あたしはもっと血沸き肉躍る戦いを……ッ!)
姉さんの声が途切れたのは、きっとこの痛みのせいだ。
剥離する作業は、いつも痛い。姉さんも、俺も。
「わかってんなら早くしろよ……」
せっつく姉さんの声が、俺の口からこぼれていく。まだ体内に縁が残っているのだ。
それを振り落とすため、俺は目をとじて体を探った。
喉、そして、右脇腹。姉さんと深いところでつながっている縁を、どうにかこうにか追い出していく。姉さんがうめいた。剥離していく感覚が、俺の体にも襲い掛かる。痛い。
「……ッはあ、たぶん、これで、終わり、だ」
痛みを抑え込むようにして途絶えていた息を大きく吐き出しながら俺が言うと、姉さんはそんなことお構いなしとでもいうように軽快に体を動かし始めた。
「さーて、と。愚弟、初めてにしてはそれなりに戦えてたんじゃねェか?」
姉さんのにやにやとした顔を押し返して、俺は戦いの反省をする。
脳裏に、姉さんと初めて会った日の言葉がよぎった。
『力が欲しいか? あたしと、契約しないか?』
その時もう何もかもを失っていた俺にとって、生きることは苦しくてつらかったけれど、母さんが生きろと言ってくれたのを思い出して、姉さんの手を取ったのだ。そうして俺の体は変質した。
それが、この地が、世界が、イヴィルとキュイド、謎の生物たちに牛耳られ、終焉を見据えていた人類が、その数を大きく減らし始めた日の、夕方のことだった。
「なー、ぐていー」
「……? 何、姉さん」
聞き返してみれば、なんでもなーい、といたずらっぽく笑う。姉さんはいつもそうだ。
「んじゃ、帰ろうか」
姉さんの右手が俺の目の前に突き付けられる。つかめ、ということだろう。まったく、分かりにくいやさしさだ。
「うん」
頷いて、彼女の手を取った。
「帰ろう。今の、俺たちの居場所に」
姉さんがふわりと笑う。この笑みは、穏やかで、うれしいとき。戦闘中は、もっと過激な笑みだ。
俺は彼女の手の感触を確かめるようににぎり返しながら、崩れた崖を背にして歩き始める。見慣れない外の光を目に焼き付けながら、俺と姉さんは機械騎獣で施設に帰った。
他の被検体の仲間たちも、特に大けがもなく戻ってきているみたいだった。
「お、お帰り、ジン」
研究員が、俺たちの名を呼ぶ。顔を見合わせて、姉さんと笑った。
ここは今日も、居心地がいい。