鏡屋先輩は最低です。
人と関わる仕事に就きたい。
そういう風に俺は書いた。
国語の時間の課題として出された、将来の夢に関する作文。いやはやまさか高校生にもなって、小学生の時分に無視した夏休みの宿題と、再び向き合わされる羽目になるとは思わなかった。
提出は、少なくともクラスでは俺がいちばん早かった。
「いやはやさすがは文芸部員。二千字、三千字程度の作文はお手の物ってわけですか」
後輩の女子――小篠未月の、いかにも感心した様子。
大したものだ。少なくともこの部屋で、彼女のその態度が演技であり、その言葉が皮肉以外の何物でもないと見抜ける者は俺を除いていないだろう。なぜならこの文芸部室には今、俺と彼女しかいないのだから。
俺だけが、彼女の演技を見抜けるだなんて傲慢を、もちろん抱いたりはしない。
「桐島も驚いてたよ。宿題のつもりで出したのに、授業時間中に書き終えて提出するバカがいるとは思わなかったらしい」
「そりゃそうでしょうよ」
小篠の歪んだ口の形が、見事に呆れの意を表明して。
「夢を書けって、言われたんでしょう? そこに真顔で創作を提出するような生徒、先生も想定してませんよ」
「そうかね」
と俺は肩を竦めた。
「教師側だって、全員が正直に書いてくるなんて思ってないさ。小篠は大人を舐めすぎだな」
「それこそ高校生の台詞とは思えませんが。なら、見抜かれているかもしれないのに真っ先に提出したと?」
「そのほうが、真実味が増すだろう」
「結局、創作じゃないですか」
誰もそこは否定していない。
肩を竦めた俺に、かわいくない先輩です、と小篠は首を振った。
六月の、数少ない晴れの日だった。
こんな日なら、せっかくの放課後を出かけて遊ぶ生徒が多いのだろうか。
一階の部室から覗ける中庭に、小さな水溜まりができている。明日には消えているだろうそれが、反射して映す太陽の光が目に眩しかった。もちろん明日には、残った水ごと太陽を連れ去ってくれるだろうが。
雰囲気のないことだ。せっかくの本棚にはたった一冊しか蔵書がなく、パイプ椅子も折り畳みテーブルも風情に欠けた。
「それよりお前さ。そろそろ文芸部に正式入部しないか?」
提案に、だが小篠はいつもの如く頷かない。
「せっかくの申し出ですが、わたしは放送部のほうが忙しいのでー」
「申し出、っつーかね。こんだけ入り浸ってんだ、そろそろ対価として要求してもいいと思ってるんだけど」
「わたしの体がお目当てですか」
「そういう言い回しをするなら否定はしないが」
「……じゃ、嫌です」
何度誘っても袖にされ、振られることにも慣れてきた。つれない後輩だ。
「だったらなんのために、お前はこの部室に来てるんだよ……」
「――それは――」
続く小篠の言葉より、早く鼓膜を揺さぶった音。
控えめなノックが部室を揺らした。どうぞ、と俺は短く告げる。
「し、失礼しますっ……!」
スライドドアの開かれるゆっくりとしたスピードと、そこから覗けた顔の上の、対照的に素早い眼球運動。それが来訪者の緊張を、これでもかと伝えてくる。
「その。今、大丈夫、ですか?」
「見ての通りだよ」
「あはは……それじゃあ失礼しますね、鏡屋先輩」
怯えたように動きの遅い後輩を、室内へ誘い、椅子のひとつを示す。
そうでもしなければ、彼女は最後まで座ろうとしないのだ。
「あー。また来たんですねー、宇佐見ちゃん」
小篠が言い、
「えへへ。また来ちゃいました」
宇佐見珠真が言った。
だから、俺も彼女に言う。
「ま、どうぞ座って」
「えと……それじゃあ失礼しますね。と言ってもすぐ出なきゃなんですけどっ」
落ち着いた様子の小篠と、どこか忙しない宇佐見。なんとなく好対照なふたりだ。
「それで進捗……ああ、いや、経過はどう?」
なんだか表現が違ったな、と言い直した俺。小篠はちらとこちらを見たが、宇佐見は特に気にもせず。
「変わりなし、って感じです……すみません先輩」
「謝ることじゃないけど、……そっか。変わりがない、ね」
それは違うことは、もう本人以外わかっている。
いや、それとも本人もか。いずれにせよ俺の言うことは変わらない。
「そろそろ片をつけられると思うよ。絶対の約束はできないけど」
「……ありがとうございます、鏡屋先輩。すみません、いつも急かすように来てしまって」
「気にしてないよ。部室の面子なんて、いつもどうせ変わり映えしないから」
「あはは。そんなこと言ったら、未月ちゃんに失礼ですよ」
「本当なんですけどー。いつも顔を見せてあげる後輩に失礼なんですけどー」
だったらお前は入部しろよ。
とは言わず、ただ俺は宇佐見に答えた。
「そんなこと気にするほど、繊細な性格じゃないさ。小篠は」
加えて文句を叫ぶ小篠。
その喧しい声をBGMにして、それから二、三の会話を終えたところで宇佐見は帰っていった。
今日は晴れだから出かけるのだ、と彼女は言う。なるほど、と思った。
宇佐見の足音が完全に聞こえなくなったところで、隣に座っている小篠が言った。
「……わたしのこと、見えなくなってましたね」
「進行速度がだいぶ早いな。この状況を受け入れている証拠だ」
宇佐見は言った。
突然、ひとの声が聞こえなくなる、と。それは突発性の難聴などではなく、特定の相手、特定の言葉に限って、なぜか音を認識できなくなるというのだ。
感覚としての機能を、聴覚がサボっている。そいつはついに、視覚にまで影響し始めたようだ。
残る三感は、もう考慮しなくてもいいだろうが。
「――原因、もうわかりましたよね?」
小篠が言う。
直接的な原因はわかっている。――そういう物語に感染したからだ。
誰しも、人は心の中に、自分だけの物語を飼っている。
本来そいつは当然のことで、そしてそれだけのことでしかない。現実に影響を及ぼすことはないのだから。
だが――それがこうして現実を侵食することを、俺と小篠は知っていた。
ある種の病と言ってもいいか。宇佐見はそのせいで《他人を認識できなくなる》ようになった。
もちろん、医者にかかっても治せない。自分で立ち治るほか手段はない。
だがそのためには原因を――それが自分の理想の、歪んだ発露であることを正当に認識する必要がある。
俺は言った。
「宇佐見は自分の気に入らないもの、自分にとって邪魔なものを、自分の世界から追い出している」
悪口や陰口、あるいは好きなものへの批判、罵倒、皮肉、嫌悪……そういった言葉を選択的に世界観から排除する。
彼女の物語はそういうものだ。きれいなものだけで構成されたしあわせなセカイ。物語。
けれど、それは結局、創作でしかない。
「しかしお前のことが見えなくなるとはな。存在ごと否定されるレベルで嫌われてるのか、小篠」
「それ本気で言ってます?」
「……」
「助けてくれている先輩のことが好きだから、恋敵に見えるわたしを世界から排除した。――そういうことですよ、これ。愛されてますね」
そうだろうか。俺はそこまで世界を単純には捉えていない。
だが。もしもそうだとするのなら。
「それなら話は単純だな。――上手く振ってやればいいだけのことだ」
「……」
「ひと月くらい付き合って、こっちに幻滅してもらいつつ周りには目を向けてもらえばいい。振ってやる、というより振ってもらうと言ったほうがいいか」
「本当に……最低ですね、先輩は」
「知らなかったのか?」
「知ってましたけど」
なら今さらだ。俺はそれで、彼女の物語を殺すことを選ぶだけ。
狭い世界観の内へ閉じ籠ったまま、感覚を閉ざしていてもいいことがない。
いずれ呑まれて、弾けて、消える――。
「……さすがは文芸部員ですね」
今度は明らかに皮肉とわかるよう、小篠は言った。
それでいい。《鏡屋造》は、そのために存在している。
「誰にだって夢を見る権利はあるさ」
「わたしにも?」
「ああ。だけどその中に閉じ籠っていても意味はない。物語は、あくまで、創作だ」
夢は叶わない、と人は言う。
けれど違う。それを叶えてしまう、傍迷惑な神様だってこの世にはいるのだ。
まあ、その夢は所詮、泡沫の如き偽りだ。
なまじ溺れていられる間は気分がいいせいで、気づかぬうちに窒息する。
人と関わる仕事に就きたい。
そういう風に俺は書いた。
創作だ。叶わないと知っているからこそ、叶ってほしくないものをあえて書いた。
本当は正反対で、俺はそんなことを露ほども思っちゃいない。他人と関わりたくなどない。
語る者ならざる騙る者として。
「そうやって」
と、小篠は言う。
こちらをまっすぐ見つめるように。
「先輩は、ただひとり、いつまでも創作を物語り続けるんですか?」
「これでも作家の端くれだからな。ネタになるなら、それでいいのさ」
「わたしにやったみたいに?」
「そうだ」
「……やっぱり」
ちら、と部室の本棚に視線を向ける。
そこに収められた、一冊の本の背表紙に。
著者――鏡屋造。
さて。それじゃあさっそく、他人の物語を壊すとしよう。
かつて恋をした後輩の、理想を騙して壊したように。
「先輩は、最低ですね」