第一章
隣の部屋の扉が開く音でベッドの下で眠っていた犬が『ワン』と一鳴きして目が覚める。
カーテンの隙間から朝陽が射し込んできたものの、私はまだ起きない。
居間の方から電子レンジの動く音、カサカサと着替える音などを聞きながら、私は再び眠りに落ちていく。
集団で登校する小学生達の甲高い声と同時に鳴り響く目覚し時計の音で完全に目が覚めた。
居間には脱ぎ散らかしたパジャマが目に入り、嫌悪のタメ息を吐いてしまう。
いつからだろう?
朝、旦那を見送らなくなったのは?
新婚当時はそれこそラブラブの夫婦のように、玄関まで見送り、『行ってらっしゃい』のキスをするのが普通だったのに。
「ママ、ご飯は?」
高校生になった長女はいつまでも母親任せで、慌てた感じで起きてきて洗面所へ向かった。
今年から都内の大学に通うようになった長男は心配なとこもあるけど一人立ちしたのに。
やっぱり何だかんだ言っても男の子の方が親離れが早いんだな、と実感してしまう。
今のこの生活に不満がある訳では無い。
幸せか不幸せかと問われたなら幸せだと言う自信はある。
だけど、この心のモヤモヤはなんだろう?
「ゲー、またパパ、自分の歯ブラシ私のコップの中に入れてるー」
汚物でも触るかのように自分の父親の歯ブラシを指で掴んだ娘は、曇った表情で私に言い付けに来た。
私は世の理想の母親のように、母性愛に満ち溢れている訳ではない。
かと言って、間違った子育てをしてきた訳でも無い。
なので、世間一般的に子供達の事を愛していると言えよう。
息子の陸も娘の海美もとても大切で愛している。
愛犬のマリーの事も愛している。
そして、私が住んでいるこの家にも愛着はある。
だが…。
1つだけ私が愛していない場所がある。
それは…。
誰もいる筈のない、和室からガタガタと物が落ちる音がした。
「またあのバカ猫が暴れてるよ」
名前も知らないバカ猫。
主人がどこからか勝手に拾ってきて勝手に飼い始めたバカ猫。
私が愛していない場所。
家の西側にある一角の和室。
そして、この和室に住んでいる主人とそのバカ猫の事は愛していない。
愛していないと言うか嫌いである。
嫌いなんて生ぬるい言葉じゃ伝え切れない。
死ねばいいのに!
と思ってしまう。
と言うか、隙あらば消してしまおうと思っている。
バカ猫には罪は無いが、主人の所有物と言うところで、一緒に葬り去ろう。
さてさて、その隙あらばだが、これが結構難しい。
そもそも、主人とは同じ籍と言う事で事実上の夫婦であるが、ほぼ一緒には暮らしていない。
主人には別宅があり、その別宅で私より随分年上の女と一緒に住んでいる。
家にいる時間よりもその別宅で過ごしている時間の方が長いのだ。
これだけでも、殺す動機は充分な物だろう。
裁判でも情状酌量を貰える自信がある。
長女を学校に送り出し、一人になり淡々と家事をこなしていく。
家事と言っても取り合えず洗濯だけだ。
私は掃除が大嫌いなのだ。
今急に私のこの家が披露されるような事があったのならば、『何この汚い部屋、泥棒でも入ったの?』と言われるのが目に見えている程の汚なさである。
主人が別宅を構えた理由はお前にもあるのでは無いか?と問われれば、少し考えてしまう。
…。…。…。が。誰かにそんな事言われるようならば。
私が掃除出来ないなんて事付き合っている時から分かってたはずでしょう。
と、開き直ってしまおう。
結局、人間は自分が一番可愛いのだから、他人には厳しく自分には甘い、と言うのが常時なのである。
さぁ、ここで何故離婚しないか?と言う問題が浮かび上がる。
よくある亭主を殺すドラマや小説を見ていても、殺すぐらいなら別れればいいのに、と思うのは一般的である。
ほとんどの場合、別れられない理由はDVすなわちドメスティックバイオレンスが原因が多い。
確かにDVの場合、並大抵の離婚とは訳が違ってくるだろう。
私の主人?
私の主人はDVでは無い。
言葉の暴力はそれこそ幾度もあるが、そんなのどこの家庭でも多かれ少なかれあるに決まっている。
だいたい男の脳と言うのは考え方が、女の脳とはまるで違っているのだ。
昔、何かのテレビで見たことがある事があるが、男性脳はどちらかと言えば左脳を使っている事が多いらしい。
なので、何かの言い争いになった場合、論点が多いに違っている事がよくある。
話しが噛み合わない時点でこちらはイライラする。
男は自分の意見が通らない事にイライラする。
基本、男と女がお互い全てを理解すると言うことは無理な事なのだ。
それでも、子孫繁栄のため(本能的にはそれがあるだろうが、それを愛と勘違いして)、多くの男女は結婚を選ぶ。
と、まぁ、反結婚みたいな文になってしまったが、結婚した全ての人がそう思っている訳では無い。
人によっては幸せな結婚をしたと言う人もそれこそ星の数ほどいるだろう。
それは本当にめでたい。
そんな幸せな夫婦に拍手を送りたい。
私のように主人をこの世から消し去ろうとしている人間はごく僅かな人間であり、そのごく僅かの代表である一人の私がこれからどうやって幸せを掴むのかを話すことにしよう。




