ネブワース・ハウス Knebworth House
アルバム名だけで著作権を行使されるロック・バンドはいないと信じつつ。
このお話、ドラマーさんご本人に献呈します。
真梨子が学生時代に初めて見習い庭師として働いた庭園にヘッドガーデナーとして里帰りしてから3年がたちました。部下の出勤前に朝一の新鮮な切り花をお屋敷にもっていき、苗売り場の在庫をそろえるのが日課です。
「あの、こんにちは」
そこに入園口の向こう、太い頑丈な鉄柵の外から声をかける人があります。
「あ、おはようございます。開園までまだ2時間ありますが」
「いえ、あの、ここは何なんですか?」
「少々の入園料をいただいて、お屋敷と庭園を一般公開しているんです」
「有名な建物なんですね?」
「お屋敷ですか? えぇ、たぶん。建築家エドウィン・ラッチェンスの奥様の実家ですから。エドワード朝期の趣向を凝らした建物のひとつと言えると思います」
真梨子は降ってわいたような訪問客を眺めました。少し照れたような笑顔を包んでいるのは、スキンヘッドにボマージャケット、黒いTシャツにスリムフィットのジーンズ。背筋がきりっと伸びていて、かなり硬派です。確かに庭めぐりをする趣味があるようには見えません。それも年のころは60過ぎ。
「前から不思議だったんです。この広い放牧地の向こうから見えるこの建物のこと」
「あぁ、わかりました。あなたは今晩のコンサートの方ですね、ロック・ミュージシャンだ。ステージの上から見えるんですね」
「ばれちゃいましたか」
「私は庭だけの担当ですが、この広大な旧リットン家の敷地内でどんなイベントがあるかは一応連絡受けてますから」
ロックをやる人ってもっと若くて強がっていて自堕落だと思い込んでいた真梨子は内心驚いていました。謎の人物は照れながら続けます。
「年取ると朝が早くなって、まだ仲間の誰も来てないんです。音合わせまで時間もありますし。それで昔から気になっていたこの建物を見に、この芝生の海を越えてきたというわけです」
「入りますか? お屋敷の中は時間まで見せられませんけど、お庭ならご案内できますよ。庭側から見るお屋敷も素敵ですから」
「本当ですか? じゃ、ちょっとお言葉に甘えようかな。でも入園料は?」
「私のご招待ということで」
入園口を開けるとチケット売り場、カフェと苗売りコーナーを右手に過ぎ、花いっぱいの鉢植えに彩られた屋敷の中庭を左手に見ながら庭への入り口へと砂利を踏んでいきます。ロック音楽に詳しいわけでもない真梨子はそれでも何か共通の話題を探そうと話しかけました。
「ネブワースは野外コンサート会場として有名ですものね。グラストンベリーまではいかないにしても、クィーンもピンク・フロイドも来てますし」
「僕はデイビッド・ギルモアとツアー廻ったことがあるといったら驚いてくれますか?」
「ほんとですか? 私難しいことはわからないんですけど、ダークサイド・オブ・ザ・ムーン大好きです」
「ネブワースではカンファタブリー・ナムをやったんじゃないかな」
「えぇ、90年、DVD持ってます。ごめんなさい、あなたもきっと有名な方なんでしょう? お名前もわからないなんて」
「ドラマーはあんまり有名にはならないもんですよ。バンドの中でも力関係があって、ボーカル、ギターその次がベースかドラムかってとこですから」
往年のロック・ドラマーはさわやかに笑って見せました。
そして屋敷の正面に出るや否や、
「なんて不思議な並木道だろう? 異次元に迷い込んだみたいだ」
と声をあげました。一段下がったところに切った四角い池の両脇を、細くてまっすぐの並木道がバラ園に向けて2本続いています。
「西洋菩提樹なんですが、握り仕立てにしてあって、えっと毎春に一度出た新梢をむしりとるんです、するとこんな風にお行儀よくというかレジメンタルになるんですけど」
「ストイックですね。夜になると兵隊に変身しそうです」
「秋に葉が落ちて霧がたちこめたりするといかにもそう見えます。バラ園までいって振り返ってみてください、お屋敷のほう」
バラ園は並木道から石段をいくつか上がるので、目線が高くなりバラの花、菩提樹の樹冠の上にネブワース館の屋根が見えます。コーンの上のアイスクリームのような小ぶりなドームをいくつも乗せた、おもちゃのような屋根。
「この屋根が気になっておられたんでしょう?」
「はい、遠くから見るといつもシルエットしか見えなくて」
「おとぎ話のアラビアンナイトのような」
「あ、そうか空飛ぶ絨毯とかだ。僕はモスクワを思い出していました」
「クレムリンですか、あれも不思議な建物ですよね。行ったことありませんけど。モスクワでもコンサートを?」
「えぇ、なぜか人気があってよく行くんです」
「世界を股にかけたロック・スターさんなんですよね。どうも実感がなくて、ごめんなさい」
「僕の場合は運よく才能のある人たちと活動できただけで、僕自身が大スターなわけじゃないですから」
「なんか、とっても日本的なご謙遜の仕方ですけど」
真梨子はついつぶやいてしまいました。ドラマーは我が意を得たりとにやりとしました。
「日本に2年間住んでいました。日本の方でしょう?」
「こっちに住んでもう12年になるのに私まだそんなに訛ってます?」
両手で顔を隠して手の間から覗き見るとあけっぴろげな笑顔が見下ろしていました。
「わかりますよ。好きですから。僕は弓道2段で、居合も習いました」
「弓道に居合? 空手や柔道をされる方はよくお見かけしますけど、流鏑馬とかもやっちゃう?」
「ヤブなんですか?」
「ヤブサメ、馬の上から的を撃つ弓道です」
「あ、そこまではたどりついてません」
ふたりは心から笑いあいました。イギリスの庭園文化に魅せられた真梨子と、日本の静と動の芸術を体得したドラマーさん。
「どうも隣の芝生は青く見えるのか、ないものねだりなのか、どうなのかしら」
「でもお互い好きなものを見つけてよかったじゃないですか。今晩のギグ、もしよかったら聞きに来ませんか?」
「あ、私、屋敷のはずれのコテージに住んでいるので、ただで全部聞けるんです」
「じゃ、言い直しましょう。僕がドラムをたたくとこ、見に来てくれませんか? もし嫌でなかったら」
「でもどんな服着てどこに行けばいいのかてんでわかりません」
「それもとっても日本的な遠慮の仕方ですね。警備員にこのカード見せてバックステージって言えば案内してくれるはずです」
彼が無造作にポケットから出したのはバンド名、名前入りの首からかけるようになったIDでした。
「これがないとあなたが困るでしょうに?」
「世界的ロック・スターにIDはいらないですよ。僕がいないと誰もが困るでしょう。じゃ、夕方に。庭めぐり、ありがとう」
ドラマーさんは最後にやっと有名人ぶりを認め、演奏の行われる大テントに向けて芝生の中を歩き始めました。ロックに疎い真梨子でも聞き知っているバンド名が手の中のカードには大きく印刷されてありました。
「私にとってはロックコンサートのほうが異次元だわ。これもネブワースのおとぎ話?」
肩をすくめて真梨子はガーデナーズ・ルームへと向かいました。
ネブワース・ハウスの持ち主、リットン家はあの「リットン調査団」(漫才師さんたちじゃなく、歴史上の)の彼の末裔です。