ハニー!
ノシン。
ある晴れた日曜日の朝。
彼女は、まだ布団の中で軽く背中を丸め心地よ〜く寝ている俺の上に勢い良く乗っかってくる。
「お…。まだ、まだもちっとだけ寝かせて…」
かすれたセクシーボイスで囁いてみるが、彼女には全く効き目はない。
昨日は遅くまでバイトのメンバーと盛り上がり、かなりいい気分で布団に倒れ込んだのは覚えている。
そんな翌朝。
部屋の中は青いカーテンから差し込む陽の光に満ちていて、とてつもなく平和な感じだ。
こんな殺人的に平和に満ちた朝に、そうそう起きられるはずがない。
しかし彼女は依然俺の上から降りる気配は無く、起きろコールは止まらない。
「う…」
さすがの俺も、あまりの眠さと止まらない彼女の起きろコールに少し苛立ち始める。
いつもいつも言いなりにはならないぞ。
今日という今日は思う存分寝てやる。
よし、はっきりと宣言してやる!
「今日は昼まで寝るんだから放って置いてくれ!!」
と、俺はシャウトした。
心の中で。
現実には…
シャウトしようとガバッと彼女を跳ね除けるように上体を起こした俺は、見てはいけないものをうっかり見てしまった。
そう。
俺に跳ね除けられてびっくりした彼女のそのつぶらな瞳を。
「なんであたしを跳ね除けたの??」
と言わんばかりに、首を少し傾げて俺をじっと見つめるそのいたいけな表情を。
殺人的だ。
この平和な朝の眠気よりも殺人的な彼女の愛くるしさに俺は負けた。
観念してベッドからのそのそと起き上がる俺を見て、彼女はちぎれんばかりにそのしっぽをぶんぶんと振り回している。
「わかったよ…。うん、わかったから…。」
俺は彼女をぎゅうっとハグして、お決まりの朝の挨拶を交わす。
「おはよう、マイハニー。今日も素敵な朝だね。」
彼女は答える代わりに大きな舌で俺の顔をベロンベロンと舐めている。
これが俺達の朝の挨拶。
きっと、彼女がいつかいなくなるその日まで、変ることのない愛の儀式だ。
マイハニーにミルクとフレークをあげていると、ドンドンドンッと玄関のドアを叩く音がした。
俺は思わず、
「キターッ!」
とシャウトした。
心の中で。
殺人的なマイハニー人間版の登場だ。
なぜチャイムがあるにも関わらずドアを叩くのか?
なぜ合鍵を持っているくせに敢えて使わずドアを叩くのか?
そしてなぜ何の連絡もせずに日曜日の朝っぱらに突然現れドアを叩くのか?
全く、俺の彼女は二人とも大変なわがままハニーだ。
玄関まで行き恐る恐る覗き穴から彼女の様子を見ると…。
間違いない。
かなりご立腹の様子。
サングラスまで掛けている。
おそらく、先週彼女が披露したパスタを思わず「うっ」と嗚咽しながら食べたことをまだ恨んでいるのだろう。
俺は覚悟を決め、努めて冷静を装いドアを開ける。
「おはよう、ハニー。今日はまた随分早いんじゃ…」
と俺が必死に柔和な表情を作って迎えようとしているにも関わらず、彼女は全くもって無視だ。
無言で玄関に上がり無造作にサンダルを脱ぐと、のしのしとリビングに突進していく。
朝ご飯を食べ終えて幸せそうにぐふぐふ鼻を鳴らしているハニーと、朝から何故かサングラスを黒光りさせてその表情は謎だがかなり機嫌の悪そうなハニー。
二人は向かい合って座るとじっと睨みあっている…。
かと思ったら急にひしと抱き合った。
一体何なんだ!
この場合、俺は全くもって除け者だ。
女って本当にわからない。
がっくりとうなだれながら台所へとぼとぼと行き、不機嫌な彼女のためにコーヒーを淹れる健気な俺。
するとリビングの隅の方で二人のハニーはひそひそとお話をしている。
「…きの…のよる…ちゃ…と帰って…た?」
その内緒話の一部が聞こえた。
ん?
きの、のよる…
昨日の夜?
俺はハッとする。
昨日の夜。
『今日はバイト終わったら真っ直ぐ家に帰るの?』
俺は彼女からのメールに返信しようとしたのだが、居酒屋が地下で圏外だったから送れなかったんだ。
ここを出たらすぐ連絡しようと思っているうちにすっかり出来上がってしまい、そのままカラオケへ突入。
後は野となれ山となれって感じで野郎同士大いに盛り上がり、何とか家まで辿り着いてそのままバタンキュー。
そして今に至るわけで…。
何てことだ。
全く俺ときたら最低だ。
彼女が不機嫌になって突然押し掛けてきたのには、ちゃんと訳があったのだ。
俺はお揃いのマグカップに淹れたてのコーヒーを注ぐと、それを彼女の前にトンと置く。
彼女はふいっと横を向き、口をつけようとはしない。
「いいから。飲みなさい。」
そう言って無理やり彼女の手にマグカップを持たせると、その香りにつられた彼女はしぶしぶといった感じを装い一口すすった。
すると、コーヒーの湯気で彼女のサングラスが曇った。
「サングラス。曇ってるぞ。外したら?」
フンと横を向き無視する彼女。
俺はちょっと強引だが彼女のサングラスを外そうとした。
「やめろよ!」
彼女はじたじたしている。
それでも無理やりサングラスを外すと、やっぱり…。
彼女の目は腫れぼったくなり、少し、充血している。
俺は急に胸をぎゅっと締め付けられたような気分になる。
ああ。俺は彼女に何て顔をさせているんだ。
大事にしたいのに…。
自分で言うのも何だが、俺は結構モテる方だ。と、思う。
彼女と出会う前は色んな女の子と付き合った。
ところが、彼女との衝撃的な出会いで俺は目が覚めたんだ。
友達に誘われて暇つぶしに行った合コンで、和製アヴリル・ラヴィーンをすげぇ不機嫌にしたような女が座っていた。
明らかにその合コンの場から浮いていたし、その頃の俺はそんなとがった女よりも、隣に座っていたほんわかした雰囲気のかわいい感じの子の方が好みだった。
いい感じに話も盛り上がり、ついついこの後二人でぬけちゃおうか?なんて甘い誘いをした瞬間、彼女、和製アヴリルの拳が炸裂した。
「おまえっ、ちゃんと家帰れよ!帰ってエサやれよ!ヤツは待ってるぞ!」
俺は目の前がチカチカした。
「え?」
「だから、お前の犬だよ!ほっとくなよ!」
俺は驚いた。
彼女は俺が話のネタに話をした、ハニーの話を聞いていたらしい。
しんと静まり返った合コンの場はすぐに解散となり、みんなすごすごと次の会場へと逃げて行った。
残ったのは俺と和製アヴリルだけだ。
俺は彼女に言った。
「俺んちの犬。見に来る?」
なぜ殴られた相手を家に誘っているのか、それは自分でもわからなかった。
しかし彼女は、
「ばーか。誘い文句の常套手段だな!」
というと、スーパーキュートな笑顔で笑った。
その日からもうずっと、俺には彼女だけになった。
本当は、女を家にあげたのも彼女が初めてだ。
なぜならマイハニーがやきもちをやいて吠えまくるからだ。
それに、マイハニーの話を女の子たちに本気ではしたことがない。
下心みえみえの彼女達の、家に来きたいがための口実に使われるのが許せなかったからだ。
でも、彼女は俺の方から誘ってしまった。
きっと、素敵なパンチで頭がいかれていたのかもしれない。
でもそれで良かった。
それが、良かった。
得てして恋とはそういうものなのかもしれない。
昨日まで全く何とも思っていなかった人に、急にドキドキしたり。
誰でもいいと思っていたのに、その人しか見えなくなったり。
それはまるでベタなラブソングのように、ちょっとしたドラマであり、僕たちの心を切なく胸を締め付ける。
俺ももう彼女だけで良かった。
彼女が一緒にいてくれるだけで、他には何もいらなかった。
こんな気持ちになるなんて、本当に信じられない。
もしかすると、俺は一生ハニー以外には誰も信じず、誰にも心開かずに生きていくような気がしていた。
でも、彼女のパンチで俺の心の隙間はいとも簡単に埋まってしまったのだ。
彼女の全てが愛しく思えた。
そのきれいな顔立ちのわりにばかに口の悪いところも。
独特の感性をもったファッションも。
料理がすげえ下手くそなところも。
意外と心配性ですぐメールとか電話とかしてきては、「何でもない」と強がるところも。
年寄りにめちゃくちゃ優しいところも。
そして、何よりハニーをすごく大事にしてくれるところも。
俺にはもう本当に全てが愛おしくて、彼女に会うために生きてきたと思えた。
それなのに、そんな思いもだんだん長くなってくると当たり前になっていた。
そして、昨日の夜の、メール返信し忘れ事件につながるのだ。
俺は彼女を抱き寄せた。
彼女はジタバタしながら必死に抵抗している。
「何すんだよっ、やめろって」
俺は離さない。彼女をきつく抱き締める。
「ごめん。心配させた。本当にごめん。」
心からそう思った。
気がつくと、ハニーは俺たちから離れて、ソファーの上に座っていた。
きっと気を遣ったのだろう。
ちょっとだけ眉毛を下げて、心配そうにこちらを窺っている。
ごめんね、ハニー。
俺にはたった一人、きみよりもちょっとだけ、そうほんのちょっとだけ大好きな人が出来てしまった。
だから今だけ、俺の時間を彼女のためだけに使わせてほしい。
ハニーは俺の心の声が聞こえたかのように、そっぽを向いて寝たふりをし始めた。
その寝顔は拗ねているようにも、どうぞ仲良くして下さいなと言っているようにも見えて、俺は心の中で少しだけ笑った。
彼女は俺の腕の中でジタバタするのに疲れて、しかし泣きそうなのを我慢して少し震えている。
きっと俺たちはこんなささいなすれ違いや戸惑いや喧嘩とか、そういうものを一つづつ乗り越えながら、かけがえのないたった一人になっていくのだろう。
俺はもう弁解の言葉は何も言わず、彼女をもう一度ぎゅっと抱きしめた。
本当に恋って不思議な力がありますよね。
今恋愛中の方も、今はお休み中の方も、素敵な恋をして下さいね。応援しています。