中編3
少し身体を動かすだけで、全身に痛みが走る。
それでも、痛みが感じられるだけマシだった。
痛みさえ感じなくなったら、最後。
バケツをひっくり返した様な雨が降り注ぐ中、果竪は雨を遮る事も出来ずに打たれていた。
「……玉環、助けに行かないと」
そう呟き、果竪は目を閉じた。
全身の熱さが、次第に冷たくなっていくのを、遠くで感じた。
「雨、だねぇ」
「おい、匂いが消えたとか言うなよ?」
「消えた」
「あぁっ?!」
ここに来ていた最後の一体である魔獣の死骸の上にあぐらをかいた男は、ケラケラと笑う友神に思わずガンを付けてしまった。
しかし、彼は相変わらずニコニコと笑っていた。
「元々、果竪の匂いはそんなに強くない。だから、すぐに消える」
「まずいだろっ!」
「しかも、雨。雨の匂いが強い。それに、ここはあまり良くない匂いがする」
「……燃やすか」
「短絡的だなあ。果竪まで燃えたらどうするのさ」
「俺がそんなヘマをするとでも思うのか?」
しないだろう--。
「ったく、奴らも厄介な事をしやがって……ってか、果竪を斜面から落した? 怪我してたらどうすんだよ! 地獄の底から引きずり出してもういっぺん殺してくれるわっ」
「血の気が多いねぇ。だから果竪に怯えられるんだよ」
「お前は匂いを嗅いで怯えられたよな」
「……」
「……」
彼らをよく知る者達からすると、彼らは仲が良い。いつもつるんでいる。昔はいざ知らず。しかし、今の彼らは火花が散っていた。
「探すしかないな」
「そういえば、こいつらって何なんだろうね?」
「兵士だろう?」
兵士--そう、兵士。
だって兵士服を着ているから。
しかし、彼らの着ている服は、凪国の兵士服とは違う。
いや、似てはいるが、所々違うのだ。
「もしかして、兵士じゃなくて山賊?」
「あ~~、兵士に見せかけたっていうのはよくある事だからな」
「うんうん、でも--」
キラリと、犬歯を光らせて彼は笑う。
「山賊だろうとなかろうと、果竪を斜面に落すなんて、まともな思考の持ち主のやる事じゃないよね?」
「そうだな」
男はにっこりと笑った。
「問答無用で潰した所で何の問題も無いよなぁ?」
それは決して果竪には見せない笑みだった。
ただし、果竪が萩波に引き取られた数年を除けば--だが。
「ったく、せっかく土産も持ってきたってのに」
男の言葉に、友人である彼はその腕の中にあるものを見た。どこから取り出したのか、その腕にはしっかりとクマのぬいぐるみが抱えられていた。
「果竪なら、大根のぬいぐるみの方が喜ぶよ」
「俺のぬいぐるみ作りの意地と根性にかけても作らん」
趣味は手芸。
特に、ぬいぐるみ作りにおいては、凪国上層部で一、二を争う友神の言葉に彼は考えた。
「い、一ヶ月かかった大作なんだからなっ」
「仕事」
「仕事の合間に作ったんだっ!」
この男は、とにかく果竪の部屋をぬいぐるみで埋め尽くす事に全力を注いでいた。なので、朱詩とかなり気が合う。
因みに、この男は結構少女趣味だ、乙女趣味だ。
過去に『女』として扱われ、悲惨な幼少時代及び青年時代過ごした彼は、より男として振る舞おうとし、そんな自分の趣味を嫌悪した。
『これからは、家事を手伝える男性がモテると思うの』
果竪の一言は、自分の中の『女』を嫌悪し、『女』として躾けられ調教され、本物の女性よりもよほど『女』らしく振る舞える凪国上層部男性陣の心を掬い上げた。
というか、この男が大事にしていたぬいぐるみが戦いの最中に崖から落ちれば、頑張って取りに行った位だ。
その男らしさに、多くの男の娘達の心が鷲掴みにされた。この男の心も、だ。
「べ、別に、果竪の為にわざわざとかじゃないからなっ! 練習だからなっ」
「ツンデレ」
「違う! ただ、俺は果竪の安眠の為に」
そこまで言って、男は言葉を止めた。友神である彼も無言を貫いた。
果竪の安眠妨害の最大の原因は、王だ。
「あのさ」
「うん」
「陛下に捨てられなきゃいいね」
捨てはしないだろうが、綺麗に梱包された上で物置に仕舞われてしまう。以前、果竪が朱詩から貰ったぬいぐるみを手に寝ていた大戦時代のある時。
彼らの偉大なる後の凪国国王たる存在は、果竪の手からぬいぐるみを奪い取った。そして、それは旅だったと果竪に嘘を教えていた。
捨てないだけマシだけど、綺麗に梱包されて物資の入った木箱に入れられた事に、朱詩は激怒し、その後大騒ぎとなった時の大変さを思い出せば、今でもげんなりとする。
ただ、その時に果竪がぬいぐるみを泣きそうになりながら探しまわり、また半ば泣いている様な姿に悶えた者達は多かった。
明燐なんて、何度鼻血を--。
「あ、なんか寒気する」
「明燐の鞭は痛いよ、上手いし」
何を持って、どの基準で上手いと判断するのか。
しかし、男の友神は相変わらずニコニコと天真爛漫な笑みを浮かべるだけだった。
「ああ、本当に腹立たしいですねぇ」
土砂崩れ。
それは、まだ撤去されず道も開通しない。
それがどうにかならない限り、自分達は動けない。
「本当に、忌々しい」
早く、早く自分達の姫君を凪国王宮へと送り届けないと。
煉国を祖国に持つ、蛇の様な雰囲気の男は忌々しげに今だに雨の止まない空を睨み付けた。
ああ、自分は死んだのだ--と果竪は思った。
なぜなら、目が覚めた時に居たのは自分が気絶する前に居た森の中では無いからだ。
そこはどこかの部屋の中だった。
広い部屋。
室内の真ん中には天蓋付きの寝台がある。
それ以外にも、品良く整えられた部屋には調度品が幾つかあった。
どれも一目見ただけで高価なものだと分かる。
気付けば、窓辺--大きな出窓となっているそこに一神の少女が腰をかけていた。窓の方を向く少女の顔は分からない。部屋の広さと調度品の価値とは相反するかの様に、少女は質素な貫頭衣を身に纏っていた。
少女は誰だろうか。
と--少女が少し身体を動かした時に、果竪は見つけてしまった。
その手足に、金色の枷がついている事を。そして、その枷には細く長い鎖がついている事を。
鎖の先は、寝台の足に絡みつき、しっかりと固定されている。
虜囚--そんな言葉が脳裏に浮かんだ。
ふと、遠くから足音が聞こえてくる。
それは少女にも聞こえたのだろう。
細い肩を震わせる姿に、足音への恐怖が感じられた。
果竪は振り返る。
部屋の扉が、音を立ててゆっくりと開いていく。
背後で、引きつった悲鳴が上がった。
コ ナ イ デ
視界が大きく歪む。
そんな中、誰かが部屋に入ってきて少女に近づく。
泣き叫び、逃げ惑う少女を追いかけ、その相手は少女を捕らえる。そして、嫌がる少女を寝台へと引きずり込み。
「姫様、姫様ぁっ! やだ、やあぁぁああっ」
歪んだ視界と共に、音も大きく歪む。
間延びした音は不快の一言だったけれど、確かに少女が助けを求めていたのは分かった。
それが、玉環の悲鳴と重なった時、果竪の目には全く違う光景が映り込んでいた。
「……わた、し」
果竪の身体は、水の中に浸かっていた。
けれど冷たさよりもまず感じたのは、心地よさだった。
「……あれ?」
果竪は、自分の身体が動かせる事に気付いた。
あれほどの怪我だったと言うのに。
何故?どうして?
そして気付いた。
「……ここ、は」
神々の世界には、幾つもの不思議な力を持つ場所があった。
その多くは、大戦時代に失われてしまったが、それでも今新たに生まれてきた所もある。
ここは、聖域では無かった筈。
でも、確かに。
確かに、ここは聖域に多くあると言われる、それに似ていた。
果竪が居たのは、泉の様な場所だった。
ただ、とても小さい。
けれど、その泉の水はほのかに温かい光を放っている。
大戦以前や大戦最中の頃はよく見た--いや、お世話にもなった『治癒泉』である事に果竪が気付いた頃には、身体の傷は治っていた。
果竪は呆然と呟く。
「……これが、あるなんて」
その名の通り、『傷』を癒やす力を持つ泉だ。
昔は、特に珍しいものではなかったが、今は--。
「……」
この泉は、神々の世界が滅びかけた時に、大半の土地と共に消失した。とはいえ、全て無くなったわけではない。それに、世界の再創造後に新しい土地で新たに湧き出した所もある。
凪国も同様で、国土が広い分、他国よりは数があると言う。ただ、各州に最低一つは存在しているとの事だが--国土の総面積からすると数は圧倒的に少ない。それにここら辺には存在していなかった筈だ。だと言うのに、それがある。
つまり、新しく湧き出したものに他ならない。
「……王宮に報告した方が良いよね」
神力使用制限がある今、『治癒泉』は大切な資源である。泉の資源は無限では無いが、ある場所と無い場所では、怪我神の治療には大きな差がある。
だから、その泉が現れた時には速やかに国に報告する義務がある。
悪用されたら大変だからだ。
しかし、今、果竪がそれをのうのうと王宮に戻って報告する事は無理だろう。
んな事をしたら、確実に捕まる--いや、捕まらないか?
捕まるのは、向こうが探している前提だし、それだけの価値がある者に限る。
果竪は、自分にはそんな価値は無いと言う思いを強くしていた。
「むしろ醜聞の塊だし……」
価値どころか、とんだ負債である。
「うん、間違っても探さないな」
果竪は断言した。ちょっぴり、涙が出そうだったけど。
ただ--いくら探す価値が無いとしても、果竪が元王妃だとバレて良いわけではないだろう。そんな事になれば、消される。
「現王妃の廃位が確定するまでは、隠れていた方が良いよね、やっぱり」
病気で死んだ--又はとにかく表舞台から下がった事が公表されるまで待つ。そうすれば、その後に果竪が見つかったとしても、連れ戻されはしないだろう。
それに、優秀な凪国の上層部の事である。その前に、この『治癒泉』を見つけてしまうかもしれない。
「……とりあえず、この『治癒泉』の事は後にして、玉環を探さないと」
そこで、果竪は笑みがこぼれた。
凪国の王妃としては……もう辞めるつもりだけど、それでも王妃として生きるならば、国の利益になる方--『治癒泉』の存在を王宮に伝えるのが大切だ。
けれど、果竪はそれを無視--いや、完全に後回しにしている。
それどころか、国の利益となる玉環を探しに行こうとさえしていた。
玉環はこのまま行くと、凪国王宮に、凪国国王の元に届けられるだろう。そう、国にとってはあの様な美しい姫君を、それも凪国に喧嘩を売ったとはいえ、中規模の国の姫君と自国の王が結ばれるのは、二国間の平和に繋がり、多くの利益をもたらすだろう。
煉国の者が果竪に怒りを見せたのは当然だ。
彼らは、自分達の姫君が凪国国王と結ばれる事で、自分達の国と凪国の絆が深くなる事を望んで居るのだから。そして二国間の絆が深まれば煉国は安泰だし、何より民達の生活も安泰となる。
それを阻んだのは、大切な煉国の姫君を連れてここまで来てしまったのは、果竪なのだ。
そう……やるべき事をせずに、やってはいけない事をしている。
そんな果竪には、凪国王妃の資格がそもそも無い。
「……ほんと……私、余計な事ばっかりしてるなぁ」
果竪は泉の中で空を見上げながら、小さく呟いた。
本当に、余計な事ばかり。
王妃を辞めると決めた。
国を出て行くと決めた。
いくら王妃を辞めるとしても、国を出て行くとしても。
それでも、元王妃として、元凪国の民として、この国の為に玉環を説得するべきだったのではないか?いや、そうするべきなのだ。
例え、一時的にでも元王妃だったものとして。
凪国国王は優しい。
きっと、玉環を悪いようにはしないと。
それこそ、お似合いの夫婦として誰もが羨む存在となるかもしれないからと。
彼らなら、玉環を大切にしてくれる。
玉環は……例え、煉国の事があっても、きっと誰からも愛される王妃になる筈だ。
「短いコンビ結成だったな」
果竪は小さく呟き、泉を出るべく歩き出す。
水の抵抗でなかなか進まないが、それでも何とか泉の外へと出る。
水を吸った服が重い。
そういえば、荷物類は全部あの食堂にある。
もう残っているかは分からないけれど、でも荷物が無いとこの先の旅は厳しいものになるだろう。
「……取りに、行かないと」
呟き、果竪はよろよろと歩き出す。
怪我は治ったけれど、雨に濡れた身体は寒さと疲労を覚えていた。
けれど、今は少しでも早く、荷物を取り戻して先に進まなければ。
休むのはいつだって出来る。
それに--。
玉環がこれから居なくなるのであれば、どこでだって休む事は出来る。
そう……これからは、一神になるのだから。
果竪はトボトボと歩き--
『これから私と貴方はコンビって事ね! 宜しく、私、相棒とかに憧れてたのっ』
玉環の笑顔が、蘇る。
『置いていくなんて酷いっ』
玉環の泣き顔。
『わ、わわわたしは、単純にコンビを結成したにも関わらず、相手を置いて行く事に腹を立ててるのっ』
果竪は足を進めた。ゆっくりと。
『果桜が居るから良いのっ!』
玉環が叫ぶ。顔を真っ赤にして。
『行かないで』
『置いて、いかないで』
玉環が泣きながら、果竪に懇願する。
何度も、何度も。
その時の光景が、蘇る。
果竪は、足を止めた。
「……『置いてかないよ、だから、泣かないで』」
このまま何も言わずに行けば、置いて行く事になるのだろうか。
周囲はどうであれ、玉環は果竪と一緒に行く事を望んでいた。
何も言わないで行く事は簡単だ。
でも、果竪は約束した。
置いて行かないと
だから
「……行くなら、きちんと、さよならしないと」
連れて行けないのだと。
凪国王宮に行くのが幸せなのだと、伝えないと。
きっと、玉環は幸せになれる。
凪国国王も、凪国上層部も、みんな優しいから。
果竪は大きく息を吐くと、側にあった木に寄りかかった。
「まずは、この森から出ないと」
出て、村に戻らないと。
煉国が、玉環を取り戻した今、もう村に居るかは分からない。居ない可能性の方が普通なら高い。けれど、この雨。そして、果竪はこの村から王都に向かう道が土砂崩れで通れなくなっている事を知っている。
だから、何とか早く村に戻れば、玉環に会えるかもしれない。
まあ、向こうが素直に玉環に会わせるとは絶対に思わないが。
それに、あの蛇の様な雰囲気を持つ男が、これ幸いとばかりに果竪を抹殺してくる可能性の方が高い。
それでも--。
「女の諦めは悪いんです--って、今は男か」
果竪は自分の性別を思い出し、クスリと笑った。
そう……女は諦めが悪いのだ。
だから、その底力をナメると、とんだ事になると思い知らせて--はやらないが、裏をかいとやろうと思った。
「負けないから」
一歩間違えれば殺される所だった果竪。
普通の少女なら、それだけでトラウマだし、もう二度と近づきたくないだろう。けれど、この程度で潰される様な神経の細さなど果竪は持ち合わせてはいない。
そうであったなら、大戦中にとっくに狂っている。
そして、あの地獄の様な--いや、地獄そのものだった萩波に引き取られて数年を生き抜く事は出来なかった。
「やるぞぉぉっ!」
果竪は自分を鼓舞するように声を上げ、そして歩き出したのだった。