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 しかし、この男は小さな狼娘を心底愛しているのだと、レムルクは数日のうちにそう思うようになった。

 何しろカミラがそばにいるときの彼の声は甘い。いや、声だけではなく壊れ物を扱うかのように彼女を抱き上げる手つきも、少し眉根を下げて微笑んだ顔も、すべてが甘い。

 今日も酒場のカウンターの隅で一人酒を飲むレムルクは、眼前で繰り広げられる極甘イチャラブショーに辟易していた。

「あのね、マスター?」

 頬に唇を寄せるようにしてカミラがマスターに何事をかささやいている。実に無邪気な信頼を微笑にたっぷりと含んで。

 それに答えるマスターの表情もまた、庇護と慈愛に満ち溢れてカミラの頬のすぐ隣に置かれている。

「カミラ、子供はもう寝る時間ですよ」

 今は深夜、確かに子供が酒場をうろつくには遅い時間だ。

「むう~、じゃあマスター、ホットミルク作って」

「今日はお砂糖無しですよ」

「ええ~、ちょっとだけ、ね、ちょっとだけお砂糖入れて」

「ダメです」

 このやり取りを何度見せ付けられたことだろう。どうせカミラの懇願に負けてマスターは砂糖つぼを手に取る。そして桃の頬にキスをしながら「ちゃんとうがいをして寝るんですよ」とささやくのだ。

 案の定、今夜の勝負もマスターの負けだ。首筋に顔をうずめるように抱きついてのおねだりにあっさりと白旗を揚げて、マスターは鍋で湯気を立てるミルクにほんのひとさじの砂糖を落とした。

 だからレムルクは肩をすくめる。

「甘すぎるんじゃないんですか? 子供の教育にはよろしくないのでは?」

 それでもマスターは、ホットミルクの入ったカップを抱えるカミラの髪のひと房をすくい上げて微笑むばかりだった。

「カミラ、ちゃんとうがいをしてきなさい。そしてベッドに入ったらちゃんと布団をかけるんですよ」

 素直にうなずいた彼女は、残っていたミルクを飲み干した。頭のてっぺんで狼耳がぴょこりと揺れた。

「マスター、お休みのチュウして?」

 このときばかりは、マスターは腰をかがめてカミラの唇に軽いキスを落とす。

「ねえマスター、もっと大人のキスして?」

 怪しく腰を絡めてのおねだりも、年端もゆかぬ子供がすれば滑稽でしかない。マスターはカミラを優しく引き剥がしてその額を指先でつついた。

「そういうキスはお嫁さんになってからですよ。もちろん、私のお嫁さんになってくれるんでしょう?」

「うん!」

「じゃあ早く寝なさい。そして早く大きくなって下さいね」

「は~い、おやすみなさい~」

 マスターの腕からぽん、と飛び降りたカミラが出て行くのを確かめて、レムルクは次のいっぱいを注文した。

「またラキノですか。たまにはもっと高い酒を頼んでくださいよ」

 今日は月曜日の夜ということもあってかすでに客はないのだから、レムルクさえ帰ればすぐにでも店を閉めることができる。

 だからマスターは少し不機嫌そうに、それでも手元ではグラスになみなみと酒を注いだ。

「この分のお代はいただきませんよ。今日は店じまいです」

 そのまま自分のグラスにも酒を注いでから、マスターは少しだけ首をかしげた。

「つまみもサービスしましょうかね。たしかチーズとトマトが残っていたはずだから何か一品……」

「ならば僕が。我が家秘伝のレシピを伝授してあげよう」

 袖を少しまくりあげて、レムルクはカウンターに入った。

 マスターはグラスを片手にカウンターを出て、椅子にどっかりと腰をかける。

「将軍閣下は意外に料理上手ですよね。軍人なんか辞めてコックにでもなればいいのに」

「そういう店だしするようなものは作れないよ。僕が作るのはあくまでも家庭料理だからね」

「ああ、家庭的なんですね。ならば主夫向きですかね」

 木製のカッティングボードの上でトマトを刻む音は柔らかく、ゆっくりとしたリズムで会話の隙間を埋める。

 奇妙な友情のようなものが二人の間に芽生え始めていた。だからマスターの声は気安い。

「ずいぶんと手際がいい。そうやって料理を作ってあげる相手がいた、ということですね」

「『いた』ですか。あなたはどこまで僕の情報を得ているんですか」

「いや、元将軍閣下だということと、あとはカミラがにおいから得た情報?」

「ああ、それでいつも僕のことを匂いに来るんですか」

「人狼族の特殊能力のひとつですからね」

「本当にあの子を嫁にする気なら、浮気とかできませんね」

「まったく……いや、浮気するつもりなんかハナからありませんけどね」

 そのときだ、表で数人の走り回る足音がした。

「こんな時間にお客さんですかね」

 カッティングナイフを置いてカウンターを出ようとしたレムルクに、しかし、マスターは低めた声を聞かせた。

「し! 様子がおかしい」

 いつもの優しげな物腰はどこへやら、腰を低く落とした今にも飛び上がれそうな姿勢といい、少し血の気を帯びてぎらぎらと光る眼といい、その姿は獰猛な獣を思わせる。

「く! 二階か!」

 階上にも足音を感じて、マスターは首を上げる。そのときだった、窓が割られ、もうもうと煙を上げる草の束が放り込まれたのは。

「これは!」

 戦場で幾度かこれを見たことがある。レムルクはあわてて鼻と口を袖で覆う。

「煙を吸わないように! 眠り草です!」

 しかしときすでに遅し、マスターの体は猛烈な眠気に縛られてぐらりと揺れる。

「……将軍閣下……カミラ……を……」

 それだけを言うと、彼は巨木が倒れるように急速な角度で体を倒して床に横たわった。

 もっとも、レムルクは彼が倒れきるまでを見届けてはいない。ドアを蹴破って飛び込んできた人狼族の男たちに対応しきれず、後頭部を殴られて自身も意識を失ったからだ。

「おい、マスターってのはどっちだ?」

「しらねえけど、普通はカウンターの中にいるのがマスターだろう」

 そんな会話を聞いた気もするが、その言葉の意味を理解するには、すでにレムルクの意識は遠すぎた。


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