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翌朝一番、宿の主人から木刀を借りたエルフは昨日の酒場の近くまで散歩に出た。
彼が育った都会とは違い、田舎であるここベルの町は農村の趣である。町の中心街を離れれば田畑が広がり、その間を通る用水の水は澄んで冷たい。
用水の水底にちろちろと踊るように泳ぐおたまじゃくしを見つけて、彼は少し微笑んだ。
「平和ですねえ」
ここには争いの傷跡は何もない。
もちろんエルフが育ったのは王城のお膝元である王都なのだから多くの兵士に守られて戦火に焼かれることもなかった。しかし、王都周辺の町をめぐれば戦の傷跡はいまだ生々しく残されている。
この町に着くまでの道程、いくつ焼き払われた村を見ただろうか。先の大戦が終わったのは5年前なのだから復興の最中ではあるが、それも十分に行き届いていないのがこの国の現状ということなのだろう。
「七勇者がもっと早く召喚されていれば……」
それはこの国の誰もが思うことであるが、転生の秘術は国家最高の機密であり、世界を滅ぼしかねぬ諸刃の剣と伝えられる秘儀なのだから仕方あるまい。
「まあ、死んだものはどうやっても帰ってこない……か……」
悲しく笑いながら、エルフは空を見上げた。
「田舎の空はやっぱり青いわ」
雲が少しにじんでいたのは気候のせいなのか、それとも別の理由なのか、それさえさじと思えるほど天は青く、どこかでひばりの鳴く声がした。
視線を下げれば夕べの酒場と、その裏手に流れる小川が見えた。
小川に向かって膝をついて、マスターは選択をしている最中である。夕べ店で使ったものであろう白いクロスを水の中でぎゅっぎゅっと揉んでは引き上げる、その手際のよさに多少見とれてはしまったが、エルフは自分の任務を思い出して木刀を構える。
足音を忍ばせてリズミカルにゆれている背中に忍び寄る。そして小さく木刀を振り上げて……
――こつん!
怪我などさせないよう、十分に威力を殺した軽い打撃はマスターの後頭部にあたってかすかな音を立てた。
「痛い! なにするんですか!」
青天の霹靂といった風情で驚き振り向いたマスターからは、殺気や鋭さというものが一切感じられない。
「あ、昨日のお客さん?」
自分を打った相手をようやく確認したというのか、あまりにも間抜けた反応。
エルフはひどく落胆して木刀を持ったまま立ち尽くしていた。
「なんでこんないたずらをするんですか! 怒りますよ!」
エルフをなじるマスターの声は少し上ずって頼りない。こんな男が七英雄の一人であるわけがないだろう。目星が外れた今、エルフにとっての早急の任務はこの男をなだめ、納得させるに足るだけのうそを捏造することだ。
「すいません……人違いでした」
「誰かお探しなんですか? 仇とか?」
「……」
「だんまりとはうまい作戦ですね、余計な情報を与えなければ相手は勝手な想像で補足を加え、真実から遠ざかる方向へと虚構を膨らませてしまう。情報戦の基本ですよね、レムルク将軍?」
「なぜ僕の名前を!」
「真実とは情報を一番シンプルな形で集約させたときに見えるものです。カミラが得た情報、『軍人だがあまり血のにおいがしない』をシンプルに考えた結果、血を浴びる機会の少ない上級軍人なのではないかということに思い当たったんですよ」
「それにしても、名前まで……」
「この町だけでも元軍属の者が何人いると思ってるんですか。情報の要点さえわかっていれば調べるのは容易でしたよ?」
「うむむむ~……あんたはやはり七……」
再び『情報の要点』をこぼしそうになっていることに気がついたエルフは、あわてて口をつぐむ。
マスターはとぼけきった声でたずね返した。
「七? なんです?」
「いや、なんでもない」
「まさか七月生まれの人間でも探しているんですか? だったら私も七月生まれですけどね」
「そんなものを探して何の意味がある! 七と言えばあの……」
「ほうほう、あの?」
「う~ぐ~ぐ~……」
布巾のしわをパン!と伸ばしてマスターは立ち上がる。その声はあくまでも静かであった。
「で、ここへは何をしに来たんですか、レムルク将軍閣下?」
「もう将軍じゃない。僕は僕の人生最大の失態を犯した代償として自分を罰し、将軍職をおりた。今はただの末端兵士だ」
「なるほど、だからこんな辺境の村に派遣されたんですね、ご愁傷様です」
洗濯物をまとめ終えたか、マスターはエルフに背を向けて歩き出す。だからエルフはその後ろ姿に言葉を投げた。
「まて、僕がなぜ将軍職を退いたか、気にならないのか!」
「いや、どうしても話したいって言うんなら聞きますが?」
「そんな言われ方をしては、話す気も失せるわ」
「じゃあ、話さなければいいんじゃないですかね」
「ぐう……あんたは冷たいやつだな」
このやり取りの間中、彼は終始エルフに背を向けたままであった。もちろんその恨み言にも背を向けたまま、冷たく答える。
「よく言われますよ、それ」
「ふん、だろうな」
「だけど、あなたが将軍職を退くなんてわがままを許した王は、私と違ってひどく優しい人なのではないですかね」
「わがままなんかじゃない! お前に何がわかる!」
「人の憂さが交差する酒場に職を得ているのだから、けっこう何でもわかっているつもりなんですけどね」
「いいや、お前はわかっていない!」
「あ、カミラが目を覚ます時間です。ではごきげんよう、レムルク将軍閣下殿」
ひらひらと後ろに手を振ってマスターは立ち去る。
後に残されたレムルクは、いかにも田舎らしいのどかな小川の流れに視線を向けたまま、長くそこに立ち尽くしていた。




