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「な……なんですか、この子供は!」

 酒場に足を踏み入れたエルフは驚きの声を上げた。なぜなら幼い人狼の娘が一頭、彼の右腕にぶら下がるようにしがみついてきたのだ。

 その子供は頭の上に生えた耳をぴくぴくと動かし、鼻の頭にしわを寄せながらエルフの二の腕のにおいを嗅いでいる。クンクンと鼻の鳴る音がした。

「あ、あの~……おじょうちゃん?」

「ん~?」

 控えめな戸惑いの言葉がけん制だとは気づかれなかったらしい。子供はエルフの腕をよじ登るようにして甲冑のつなぎ目、わきの下に鼻先を差し込んだ。

「わひゃ! くすぐったい! やめてください!」

「ふむ、おじちゃん、軍人さんなのに、思ったより血の匂いしないねえ」

「おじちゃんって……私はまだ若……いや、それよりもなぜ軍人だと思ったのです?」

「ガチャガチャ着てるから~」

「ガチャ……ああ、甲冑のことですか。このランクの甲冑なら、冒険者だって着ていますが?」

「甲冑についている血の匂いがね、モンスターじゃなくてヒトの血の匂いだった」

「なるほど」

 人狼の娘はエルフに対する興味をそれきり失ったようで、後はふらふらと酒場の中を歩き回る。酒場には数人、どう見ても常連らしい年老いたオークやら吸血族やらがいるが、その間をちょろちょろと走り回っては彼らのわきの下に鼻先を突っ込んでいるのだ。

「とんでもない変態娘だな」

 エルフがため息をつきながらカウンターの端に腰を下ろせば、隣に座っていたゴブリンのジジイがぎろりと目を光らせた。

「カミラのことか。あれは狼族の特性なのだから仕方ないだろう」

「それにしたって淫乱でしょう、あんな子供なのにあれでは、先が思いやられますね」

「あんたたちエルフは利口だからな、時として現実よりも理想を重視する。だから目の前の一番大事なことを見落としがちなんだ」

「そうですね、あなたたちのように『現実』が良く見えている方は、さぞかし世界のすべてをご存知なんでしょうね」

「あのなあ、ここは酒場だ、喧嘩はご法度。そんないやみを言われたくらいじゃ俺は怒らないぞ」

 ゴブリンは「ふふん」と鼻を鳴らした。

「だが、カミラを馬鹿にしようって言うんなら話は別だ。俺はこの身をかけても彼女の名誉を守り抜くがな」

「幼女趣味なんですか?」

「違ぇよ、あんたにはあれが見えないのか」

 ゴブリンが指差すほうを見れば、件の少女はカウンターの中に立つこの店のマスターのわきの下に鼻を突っ込んでいた。

「ふむぅん……やっぱりマスターの匂いが一番好き~」

 そんな少女を嫌がりもせずにぶら下げたまま、小さな簡易かまどにかけた小鍋をかき混ぜているマスターは、どこひとつ変哲ない『人間』である。

「こらこら、カミラ、火の近くは危ないからやめなさい」

 静かな声を発する喉はうろこに覆われていないし、なべをかき混ぜる小さなさじを持つ手に物騒な爪が生えているなんていう事もない。耳もとがっていないし、髪の毛が顔を覆っていることもない、どこからどう見てもありきたりな『人間』だ。

 この『人間』こそが、エルフの目的であり任務である。だから隣のゴブリンに小声で話しかける。

「ここのマスターは『人間』なんだな」

「ああ? それがどうしたね」

「まさか、『転生させられし七勇者』のうちの一人だなんてことは……」

「あの腰抜けマスターがか? 絶対にないね」

 ゴブリンはさもさもおかしそうに身を折って笑った。

「あんたは、あの男が剣を持って人殺しする姿を想像できるかい?」

 その言葉にカウンターの中を見れば、件の人間は狼少女を抱き上げて何かを言い聞かせているところだった。

「ダメですよ、カミラは成長期なのですから、ちゃんと牛乳も飲まなくては」

「お砂糖で甘くして、そうしたらちゃんと飲む~」

 そうか、さきほどから漂っていた酒場にふさわしくない乳臭い香りはあの小鍋なのか、とエルフは膝を打つ。この地方では寝る前の子供にホットミルクを作ってやる習慣があるのだと聞いたこともある。

 ならば、あの狼娘はマスターの養い子だということか……

 その怪訝を汲んだか、ゴブリンが隣から口をさしはさんだ。

「俺らもマスターの過去については詳しく知らねぇ。先の大戦の終わった翌年に、カミラをつれてこの町に流れ着いたのさ」

「大戦の……翌年?」

「おっと、そんなことが七勇者の証だとか言い出したらきりないぜ? 何しろあの年はひどく混乱していた時期だから、この町に流れ着いた人間はマスターだけじゃない」

 背の高い椅子をギイときしませて、ゴブリンはエルフを見上げた。生意気にも頭脳戦を仕掛けようというのか、験すような視線であった。

「それに、七勇者っていうのは終戦のときに、それぞれの世界に送り返されたんじゃなかったのかいな?」

「ぐ……」

 確かに公的な発表ではそうなっているのだから、エルフはこれ以上を語ることなどできない。そしてそれが今の任務だということも明かすわけにはいかない。

 七勇者というのは先の大戦のときに転生の秘術を使って異世界から集められた『人間』のことである。人間はその身の脆弱さゆえ界を転ずるときに神の祝福と加護を受けるのだから、その異能力を有する人間たちから成る一軍は百騎をも超える戦力となり、この国を勝利に導いた。

 だが異能の者は平和には不要であり、むしろ脅威となる。大戦後に七勇者は元の界へと逆転生させられた、ただ一人、その儀式の最中に逃げ出した者を除いて。

 このエルフの任務はその逃亡者を見つけること、こんな田舎町まで下ってきたのはその任務のためなのだが……

「そうですね、確かに七勇者がこんなところにいるわけがない」

 歯噛みするのが精一杯であった。

 それに気を良くしたか、ゴブリンはエルフの肩をバンバンと叩く。

「ってかさ、あのマスターのだらしない顔を見なよ。あれが大戦の勇者様だなんて、勇者様に失礼すぎるだろうよ!」

 カウンターの中に立っている男は、腕の中の少女に向かってさもさも困りきったように眉を下げていた。どれほどに少女を可愛がっているのかは、ほほを食むのではないかというほど近づけた唇が紡ぐ声の甘さからもわかろうというもの。

「だめですよ、寝る前なんだからお砂糖は……虫歯になるでしょう?」

「ちゃんとグジュグジュペー、するから~!」

「本当に……今日だけ特別ですよ?」

 ついに折れたか、男は少女の体を片手で支え、手近な棚から小さな砂糖つぼを下ろした。

「ちゃんとうがいして寝るんですよ?」

 あの狼娘のほほにかかる吐息も、砂糖菓子のように甘いのだろう。何しろ男は慈愛のすべてをささげるような静かな微笑を少女に向けているのだから……

 そうは思っていても、エルフは自分の中にある疑念のすべてを拭い去ることなどできはしなかった。


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