第8話
「くっさー!この部屋、腐臭がする。腐臭って言うより、死臭?」
ユリがいつも通りノックと共に部屋に乱入して来た。臭い、酒臭いと容赦なくカーテンが引かれ、窓が開けられ、布団が捲られる。締め切られていた空間に淀んでいた空気が出され、太陽の光と共に新鮮な空気が入ってくるのが分かる。しかし、眩しい。そして、頭が割れるように痛い。且つ気持ち悪い。
「ユ、ユリ」
光から逃げるように枕に顔を埋めた瞬間、ひょいと枕を奪われた。
お前はかの有名な妖怪の枕返し先生か。
「お姉ちゃん、あれから3週間経過したけど、ユウジくんとはどうなったの?」
「・・・み、水。おぇ。吐き気が・・・
うぅ、耳鳴りもする。霊が近くにいるのかも」
ユリは大袈裟に溜め息をついて、部屋から出て行った。
心底呆れたような、面倒だというのが丸わかりの腹の底から出た溜め息だった。
「おぇ」
あたしは吐き気を耐えながら体を起こした。
散らかりすぎでしょ。酒臭い重い息を吐きながらあたしはここのところの自堕落な生活を省みた。
床の上には裏返ってくしゃくしゃになったアンサンブルニット、人型に脱ぎ捨てられたフレアスカート、スカートの中心にはベージュのストッキングが丸まって、ここで脱いだよ!と宣言している。
ローテーブルには食べかけのおつまみが全て中途半端に3袋も開いている。アタリメ、マグロ角煮、貝ヒモってどんだけあたし乾いてるんだろ。全ておっさんくさく、塩分は半端なく高いもののローカロリーで高タンパクなところが救いのおつまみ。そして、お酒の缶が5本。糖質オフ、カロリー控えめのチューハイやビールなことがまだかろうじて女子であることを教えてくれてる気がする。
「はい、お姉ちゃん、顔ムックムックだよ。
雰囲気美人のお姉ちゃんが完全に素に戻って、マイナスに食い込んで不細工だよ」
分かってます。瞼重いんで。フェイスラインにも鈍く痺れたような感じがするんで。顔にもシーツの跡がくっきりついてるような感じがするんで。
あぁ、水が染み渡る。体の細胞が活性化する気がする。5本分の酒という水分は、よりあたしを干からびさせたらしい。まさに命の水。
「で?お姉ちゃん、あれからどうなったの?」
開封済みの乾きかけている乾きもののおつまみを(ややこしい)口に放り込みながらユリが言う。
こんな風に飲んだくれて、二日酔いで腐臭のする姉にさらに追い打ちをかけるのか。分かって言ってるんでしょ!その思いを込めてギロリとユリを睨んで言った。
今日初めて出した声は掠れたダミ声でまるでオカマのようだった。喉の酒やけ半端ない。
「お風呂、沸かしてきてくれない?」
同様に床に落ちていた鞄を足で引っかけ、財布から500円取り出す。それをユリにチラつかせると、交際費により万年金欠のユリは飛びついた。
とりあえず、お風呂に入って、むくみを取って、さっぱりしよう。足も脛に指の跡がついてすぐに戻らない。このままでは細くない足がさらに太くなる。自堕落に生活していたツケはきっと1日じゃ払い戻せない。自他称含め、雰囲気美人の名に懸けてこのままでは良くない。
体をすっきりさせて、テンションの高いポジティブな妹にあの腑抜けた眼鏡の愚痴をこぼしてやろう。そして、ボコボコに貶して、それでも待ってるんだと笑ってやろう。もう愚痴愚痴するのは良くない。精神麺にも健康面にも美容的にも。
これだけ顔がむくんでるんだ。ボディラインもやばいこと間違いない。連日のお酒で余計な肉のついた体を絞らねば。お腹が出すぎてタイトスカートのラインが妊婦かと思うくらい目立って穿けないとか、トップスで隠れるもののパンツのウエスト部分に乗る肉とはおさらばしたい。
お風呂に入る前に携帯電話は見なかった。
ユウジからは稀に連絡が入るけど電話ではなく、メールの進捗状況らしきものとしか言えず、要領を得ないよく分からない内容だった。そんなのでよく営業日報とか書けるよね、とかちらっと思ったことは絶対言えない。
部屋の掃除をユリにやってもらうように、さらに500円で買収した。毎日のお酒代が少々高くついている今は痛手だけど、デートに行っておらずお金を使わないこと、二日酔いのあたしが掃除をする労力と天秤に掛けると大した痛手ではない。部屋の掃除を隅々まで念入りにしてくれたら、さらなるご褒美を用意すると約束する。
古本屋で買った100円の文庫本を持ってお風呂に入った。
本を読みながら半身浴をして、たっぷり汗をかいた。ストレッチのような大振りの動きをしながら、マッサージクリームで頭からつま先まで全身のリンパを流した。韓国土産として貰ったパックまでしてしまった。その成果は如実に表れ、お風呂に入る前より顔はひとまわり小さくなり、目の腫れもフェイスラインも肩凝りも軽減された。指に食い込み気味だった指輪はくるくる回るようになって、ふくらはぎはすっきりとしたラインを取り戻した。その効果に満足しながらお風呂から出ると、驚くことに2時間が経過していて、自分の部屋まですっきり片付いていた。
素晴らしい。
淀んだ空気もやさぐれた気持ちもどこかへ行って、カモミールなんかが入ったすっきりしたハーブティを飲みながらまったりしたい気分になってきた。出掛けてネイルを新しくするのもいいな。今度のテーマは何にしようか、でも取りあえずグゥグゥと鳴くこの腹の虫を治めなければ。
「ユリ、ありがと。
今から何か作るけど、あんたも食べる?
ご褒美にデザートに北海道物産展で買ってきたフロマージュ出すよ」
ユリの部屋を覗けばあたしの部屋よりも散らかっていて、本人は携帯を見ながらベッドの上でまだするめを噛んでいた。ご褒美の内容を喜んだユリは、棚の上の物をどかしハンディモップで埃を払い、ベッドの下まで掃除機をかけてウェットなフローリングシートで拭いた!といかに隅々まで掃除したかを熱く語り、同じく東北物産展で買った日本酒のアイスクリームまで強請った。
気分が良くなっているあたしは、しょうがないなと言いながら笑って頷いた。
気持ちに余裕が出まくったあたしは、贅沢にお歳暮のカニ缶のトマトクリームパスタとミモザサラダというオシャレな食事を用意した。しかしお腹が空きすぎていて、30分かけて用意した料理を15分掛からず完食してしまった。
「お姉ちゃんそんなに飢えてるんならもっと簡単なの作ればいいのに」
ほぅ、と一息つくと余程食べ方ががっついていたのか、ユリが苦笑いした。
「おいしいものって、幸せになるよね」
「なるけど。
こんなおいしいパスタが食べれないなんてユウジ君人生損してる」
「もっと褒めて。」
「お姉ちゃんの料理最高。
今からコーヒーとフロマージュが出るんでしょ?優しいお姉ちゃん最高。」
「あんた食い意地ばっか張りすぎ。
あたしを褒めてって言ってるのに、もう!コーヒー入れるね」
ユリとの軽くて単純で裏のない会話は心地良い。
気分がすごく軽くなる。ここまで料理をしたのなら、コーヒーもドリップにしよう。
コーヒーを入れてフロマージュを程よく解凍してデザートはリビングで食べようと持って行くと、ユリはあたしの携帯電話を見ていた。
「ちょっと、勝手に見ないでよ!」
「や、ユウジ君からメール来てさ?ちょっと本文出るじゃん?気になってさ!」
「それを見たって言うんでしょうが!」
ユリの前に餌の如くフロマージュとコーヒーを置き、あたしは携帯電話を奪い返した。
「・・・」
ユウジのメールは要領を得ない。
こんなで社会人としてやっていけているのか。
人望はあるのか。頼りない先輩として、今一歩の後輩として、残念な目で見られていないか。
出世は見込めるのか。もし一緒になることがあれば、家族が増えて、お金だっている。年に3回は国内でもいいし、短くてもいいから旅行に行きたい。雰囲気美人な自分だって継続したい。自分が働き続けることは望むところだ。お金だって稼ごう。でも、一生うだつの上がらない人を傍で見て、愛し続けることはできるのか?
ユウジのメールには、絵文字が5つ。
土下座するように動く、禿散らかしたおっさんが、5人。