第5話
「それで?」
あたしはリビングのソファーに背中を優雅に預けて足を組み、来客用のマイセンのカップを傾け、特別な時用の紅茶を楽しんでいる振りをした。
しかし今、本当にあたしが求めているのは、こんな香り高い紅茶ではない。冷蔵庫の一番よく冷える場所にキープしてあるビールなのだ。あの辛口ののど越しの良い、キリッとしたのど越しの銀色のステキな缶なのだ。断じて発泡酒や第三のビールではない。
「ご家族には、あたしが帰ったことをどう説明したの?」
あたしは来客用のマイセンのお皿に品よく盛られた、ミックスドライフルーツのパウンドケーキを手に取った。
しかし今、本当にあたしが求めているのは、こんな品の良いオシャレな洋菓子ではない。ストレス発散のごとく噛み千切るアタリメ(するめ)なのだ。軽く炙って醤油とマヨネーズと一味で食べたい。または固焼きの草加せんべいでもよい。黒ゴマがわんさか入った、前歯が折れるくらいの固めのやつが良い。
「・・・今日は生理だからって」
「ありのままを言ったら、心象が悪くなるくらいのことなの?」
「うちの両親は、もともと両方ともナチュラリストなんだ。
そういうサークルだか、会があって、知り合って結婚したって言ってたからユカリみたいな、服を着ないと居心地が悪いっていう思考はないんだよ」
「だから、別に、あたしは服を着るけど、ユウジのご家族が服を着ないのは問題ないって言ってるじゃない」
会話が堂々巡りになるような気がして、ウンザリとしてきた。手に取ったパウンドケーキをお皿に戻す。行儀が悪いけど、食べる気が無くなってしまった。
「だけど、結婚したら家族になるんだろう?
ひとりだけ服を着てるなんて、異質じゃないか?」
あたしはユウジを睨んだ。
我慢が出来なくなって立ち上がり、冷蔵庫の中からビールを取ってその場でプルトップを開けた。飲み口から冷えた炭酸ガスの靄が上がる。
あっけにとられるユウジを横目に半分を飲み干した。
「あたしがそれでいいって言ってるんじゃない。別にユウジのご家族に服を着てって言ってるわけじゃないし。何とも思わないこともないけど、それでいいって言ってるじゃない。
それとも、ユウジのご家族は服を着てる人間が紛れ込んだら落ち着かなくなるのかしら?」
ユウジは顎に手を当てて、思考を巡らし始めた。
考える時の癖で斜め上を見るように首を傾げている。
「それに何で今さらそんなこと言うの?
5年も付き合ってて初耳なんですけど?」
ビールを我慢できなかったあたしはそのままの勢いでお菓子棚を漁り始めた。
あぁ、アタリメもせんべいも品切れをしている。チータラやソフトさきいかなんてお呼びではない。舌打ちをしながら”日本一辛い唐辛子”で作った柿の種で我慢することにした。柿の種だけでは辛すぎて堪らないから、ピーナッツも取り出してお皿に盛って混ぜ合わせた。
「今まで言わなかったのは、最初のころにユカリがそれとなく話題を振った後に今日と同じような反応で拒否されたことがあるからで・・・」
「言ってくれたら、こんな土壇場で挫けることもなかったと思うけど?」
「そうかもしれないけど、否定されるのは家族のことだし、辛いじゃないか」
「だから家族の話もあまりしなかったの?」
「28にもなる男がしょっちゅう家族の話なんてしないだろ」
ふぅん、と頷いてユウジの手に柿の種を多めにピーナッツと併せて数粒落とす。
この柿の種は辛い。非常に辛い。そしてユウジはそれを知らない。
あたしはユウジの反応を見逃すまいと、ビールを傾ける際も横目でユウジを見ていた。
ユウジは柿の種を弄んでいて、すぐに口に入れる気配はない。
期待をしつつ、話を進めることにする。
「あたしはユウジと二人だけなら、裸族にでもなるけど、ユウジのご家族と温泉でもないのに裸の付き合いをするつもりはないよ」
「嫁に入るんだろう?
うちの親もそのつもりでいるし」
「それで?
ナチュラリストだっけ?
ならなかったら結婚しないって?」
慎重に柿の種を口に運ぶ。普通の柿の種であれば、こんな一粒ずつ口に運ぶようなことはしない。手の平にガサっと盛って口に放り込むように噛み砕くけど、これでするのは自殺行為に他ならない。
考え込むように柿の種を持て余すユウジを優しく促す。
「手、べたつくでしょ?食べたら?」
ユウジは柿の種を凝視するように視線を落としていたけど、おもむろに口に放り込んで・・・・噛み砕いた後、盛大に咽た。
ゲラゲラと腹を抱えて笑い始めたあたしをユウジは睨んだ。涙目で咽ながら睨んでくる。
その視線は結構、本気で怒っていた。
「ごめん、紅茶飲みなよ」
あたしは笑いを堪えながら、飲みごろ温度の紅茶をティーカップに注いであげた。
ユウジは慌てて紅茶を口に含み、紅茶の熱と唐辛子の辛さ効果で口の中がさらに地獄と化したらしく、さらに咽た。さすがに他人の家だからか、それとも大人の常識なのか、口の中のものを吹き出すようなへまはしない。口を押えて悶えている。
あたしはさらにお腹を抱えて笑った。
性格が悪いと言われても良い。卑怯者と罵られようが構わない。
ユウジはちっともあたしの心情を理解できていないのだから。このくらいの仕返しはしないとスッキリしないではないか。
「ちょっと、ユカリ」
部屋の隅で気配を消すようにしていたお母さんにタオルを渡され、窘められ、しょうがなくユウジにタオルを渡した。ユウジはタオルを口に当てて、咳をしている。目が真っ赤に充血していて、鼻水も出ているようだ。
「で?
結婚できないって、別れるってこと?」
「・・・親を説得するための時間が必要だ」
ユウジの声は酷く掠れていて、たまに咽る。
「何で、こんな辛いんだよ?」
「”日本一辛い”唐辛子で作った柿の種らしいよ。
お土産で貰ったの」
「早く言えよ」
ユウジはイラついたように呟き、タオルで顔を擦った。
「親を説得してくれるって言うけどさ、なんであたしがそんなに嫌がってるのか分かってないんじゃない?」
「理由って、もう十分聞いたじゃないか」
あたしは大きく息を吐いた。
そしてビールを煽る。
空になった缶を持って立ち上がり、シンクで灌いで伏せた。
「じゃあさ、聞くけど、
ユウジの家ってお姉さんは結婚して家を出てるんだよね?
弟は実家にいるんだよね?あとはご両親だけ?」
「そうだけど?」
「で?年末やお盆で親戚が集まるときは全員全裸なわけ?」
「内輪だけであつまるときは」
「お姉さんの旦那さんや、弟も全裸なわけ?」
「そりゃそうだろう?」
本当に何も分からないらしいユウジにあたしは溜め息を抑えられなかった。
何で分からないんだろう?
「ユウジ」
あたしはユウジをしっかりと正面から見た。
別に嫁入りをすることは嫌ではない。郷に入っては郷に従えっていうし、生活習慣の違いや、味覚の違い、金銭面での考え方、女性の労働について、諸々それぞれの家庭によって違うなんてのは分かっているし、自分の家でのものをそのまま移行できるなんて思っていない。
「本当に分からないなら、後でユリにでも聞いてみよう?
色々理由つけて言ったけど、そんなの一般的な、表面的な理由でしかないんだよ?
ユウジはそういう風に育ってきてるから、ちょっとあたしとは視点が違うだけで、あたしが何を気にしてるのか気が付かないだけで。自意識過剰って思われるのも嫌だし」
ユウジは急に真面目になったあたしの態度の変化に驚いたようだった。
あたしはちょんまげすっぴんダサ眼鏡なことをすっかり忘れて、にっこりと笑った。
「でもさ?
そんなに家族の言いなりだと、これからすっごい不安なんですけど?
あたしはユウジの家庭に入る予定なわけじゃない?考え方も価値観も違うと思うのね?
何かあった時、ユウジはユウジの家族からあたしを守ってくれるの?
ユウジだけはあたしの味方になってくれないと、結婚しても先が見えてるんだけど?」
ユウジは世間には嫁姑問題があるということに初めて気が付いたような表情をした。
ますます呆れてしまったが表情には出さない。
「あら、じゃぁ、ユウジ君がお婿さんになってくれれば問題ないのよ?
うちは二人姉妹だし、お墓とか、土地とか相続してくれる人がいると助かるわぁ。
老後だってお願いできちゃう?」
のんびりとした声が聞こえて、あたしとユウジは勢いよく振り返った。
お母さんがにっこりと笑って、手の平をパチンと合わせた。