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必死に働いて住宅ローンを完済したのに、夫は不倫相手を住まわせていた

作者: 熾星
掲載日:2026/11/02



 バレンタインデー当日、私は予定より早く手術を終えた。翌月から住む予定だった新居へ向かい、夫を驚かせるために、泡風呂や花を用意しようと思っていた。


 ところが、浴槽の縁に小さなネイルのラメが挟まっているのを見つけた。医師になってからというもの、爪に飾りをつける余裕などなかった私には、見覚えのないものだった。


 嫌な予感がして、スマートホームの管理画面を開いた。午後二時には、冷え性の私が苦手な二十四度にエアコンが設定されていた。夕方には、私の好みとは正反対のヘビーメタルが流れ、私が不在の日中、主寝室のベッドには二人分の荷重データが繰り返し記録されていた。


 画面を見つめるうち、指先が冷たくなっていった。



1



 私はその場で三度深呼吸してから、管理画面のスクリーンショットを一枚ずつ誠司に送った。


「うちに誰かが入り込んでるみたい。警察に連絡したほうがいいんじゃない?」


 送信して三秒もしないうちに、スマートフォンが鳴った。誠司からだった。


「警察はやめてくれ。すぐ戻るから」


 三十分ほどで玄関のドアが開き、誠司が息を切らして入ってきた。私が口を開くより先に、彼は険しい顔で言った。


「今日は病院にいるはずだろ。帰ってくるなら、どうして先に連絡しなかったんだ?」


「こんなことで警察を呼ぶ必要はないだろ」


 私は管理画面を見せた。誠司の視線が、二人分の荷重データの表示に一瞬だけ止まる。


「誰かが入ってきたんじゃなきゃ、これは何なの?」


 そのとき、玄関のスマートロックが外から解錠された。


 女性が二杯のタピオカミルクティーを提げて入ってきた。小さなヒールを鳴らし、手にした袋を揺らしながら、彼女は親しげに声をかける。


「誠司くん、腰が痛いの。昨日、ちょっと頑張りすぎちゃったから、揉んでくれない?」


 そう言いながら顔を上げ、私に気づくと、彼女の口元から笑みが消えた。彼女は誠司へ視線を移し、甘えるような声で不満をこぼした。


「ねえ、どうしてまだ奥さんがいるの?」


「家のローンが終わったら別れるって、約束したよね? もうこんな時間だし、私、そろそろ配信を始めたいんだけど」


 私は彼女を見て、それから誠司を見た。最後に目に留まったのは、ミルクティーの染みがついたバッグだった。


 思わず笑いが漏れそうになった。十年近く手術台に立ち続け、腰が悲鳴を上げても働いてきた。そのお金で夫は家のローンを返し、不倫相手の暮らしまで支えていたらしい。


 私は何も言わなかった。


 その女性は誠司のすぐ隣に身を寄せていた。指先が彼のベルトにかかり、甘ったるいミルクティーの匂いと、鼻につく香水が混ざっている。胃の奥がむかついた。


「誠司、この人は誰?」


 自分の声が、思いのほか落ち着いていることに驚いた。


 誠司は半歩横へ動き、真奈をかばうように立った。片手は彼女の腰に添えられたままだった。その動きに迷いはなかった。私の知らない時間が、そこに積み重なっていた。


「真奈は大学時代の恩師の娘だ。最近、海外から戻ってきて配信を始めたんだが、収入が安定していないらしい。撮影場所に困っていたから、ここを貸してやっただけだよ」


「どうせ、まだ本格的に住んでいないんだ。いちいち説明することでもないだろ」


「先生の娘?」


 私は真奈の足元に目を落とした。踏まれて形の崩れた高級ブランドの靴。その首元には、見覚えのあるヴァンクリーフ&アーペルのネックレスが光っていた。


「誠司、あなたの恩師は大庭教授でしょう。娘さんは林昭さんで、去年までボストンにいたはずよ。先月、教授とメールでやり取りしたばかりなの。ずいぶん雑な嘘をつくのね」


 誠司の表情がわずかに変わった。


「遠い親戚だよ。お前は一年中病院にいるんだから、会ったことがなくてもおかしくないだろ」


 真奈は私をちらりと見たあと、誠司の胸元へ身体を預けた。


「誠司くん、配信の時間に間に合わなくなっちゃう。リングライトを運ぶの、手伝って?」


 そう言って片足を彼のほうへ差し出す。


「この靴、足が痛くなるの。脱がせてくれる?」


 誠司は一秒だけためらった。


 そして私の目の前で腰をかがめ、真奈の足首を支えて靴を脱がせた。指が彼女の足の甲をかすめると、真奈は小さく声を漏らす。誠司は玄関収納の下段を開け、淡いピンク色のスエードのスリッパを取り出して、彼女の足元に置いた。


 私はそのスリッパを見つめた。


 二か月前から、そこに置かれていたものだ。サイズは小さく、私なら選ばないデザインだった。誠司は「店が間違えて送ってきた。返品するのも面倒だから置いておこう」と言っていた。安物でもないのに、返品するのは面倒だと言い、私が片づけようとすると止めた。


 邪魔だと思いながらも、彼が残したものだからと、そのままにしていた。使う人もいないスリッパを見かけるたび、不器用な気遣いなのだと勝手に思っていた。


 あれは、最初から別の女性のために用意されたものだった。


 喉の奥に苦いものが込み上げた。


 半年前、私は手術室に十六時間立ち続け、低血糖で壁に手をつきながら誠司に電話をかけた。迎えに来てほしかったのだ。


 彼は論文の締め切りに追われていて、水を飲む暇もないと言った。


 その後、家に大きな段ボール箱が届いた。中身は配信用の機材だった。誠司は「科で使う教材だ。病院の改装が終わるまで置いておく」と説明した。


 あれも、私が働いて稼いだお金で買ったものだった。


 誠司は真奈に、先に部屋で休んでいるよう促した。真奈は遠慮する様子もなく、慣れた足取りで寝室へ向かった。


 そこは、私が両親のために用意した部屋だった。


 扉を開けると、ピンク色のレースや安っぽい芳香剤、リングライトが置かれていた。両親に使ってもらうつもりで選んだリネンは床に丸めて放られ、ベッドサイドには食べかけの燕の巣のデザート容器まであった。


 誠司は私から目をそらした。


「大げさなんだよ。数日泊めているだけだろ。浮気現場を押さえたみたいな顔をするな。お前は一年中病院にいて、家の中はモデルルームみたいに冷えきってる。真奈が配信に使ってくれたおかげで、少しは人が暮らしている感じになったんだ」


 彼はスマートフォンを操作した。


 すぐに私のスマートフォンに入金通知が届いた。五千円。


 真奈のバッグは、そんな金額では端数にしかならない値段だろう。


 小銭を投げつけられたような屈辱が胸に広がった。


「そのお金は、あなたの『先生の親戚』にミルクティーでも買ってあげたら?」


 私は言葉を区切って、誠司を見た。


「この家のローンを、私がどれだけ返してきたか忘れたの?」


 誠司の顔がこわばった。


「登記にお前の名前があるからって、全部お前のものになるわけじゃない。夫婦の財産なんだから、俺にも権利がある。誰を家に入れるか、お前にいちいち許可を取る必要はないだろ」


 私はその場を離れようとした。


 彼が私の手首をつかんだ。指が食い込むほど強かった。


「奈緒、どこへ行くんだ?」


「手を離して」


 私は彼の手を見下ろした。


「ホテルに泊まるわ。あなたたちが気兼ねなく過ごせるようにね」


 入金通知の画面を彼に見せる。


「せっかくお金を使ってくれたんだもの。ありがたく使わせてもらうわ」


 私は腕を振りほどいた。誠司は私が抵抗すると思っていなかったのか、半歩よろめいた。


 振り返らずに玄関を出た。



2



 エレベーターの扉が閉まると、膝から力が抜けた。壁に手をつき、冷たい金属の感触を掌に感じながら、階数表示が一つずつ下がるのを見つめた。喉が詰まり、息をするのも苦しかった。


 一階に着いて外へ出ると、冷たい風が頬を打った。少しだけ頭が冷えた私は、ホテルへ向かう代わりに、そのまま管理事務所へ足を向けた。


 管理責任者は私の顔を見るなり、慌てて立ち上がった。


「早瀬さん、どうされました?」


「直近半年分のエントランスとエレベーターの防犯映像を確認させてください。外部の人間が長期間出入りしていたのなら、管理体制にも問題があったはずです。必要なら警察にも相談しますし、管理会社の責任も問います」


 責任者は額に汗を浮かべながら、管理画面を開いた。


 映像が次々と再生される。


 毎朝八時、私は疲れた身体を引きずって病院へ向かっていた。八時十五分になると、真奈が門扉の前に現れ、カードを使って堂々と中へ入ってくる。私の車が地下駐車場を出た直後、誠司が下りてきて彼女を迎えに行く日もあった。


 エレベーターの中で二人は抱き合い、口づけを交わしていた。真奈が誠司のポケットに手を入れ、誠司が彼女の耳元に顔を寄せる。画面の中の彼は、私の前では見せたことのない、気の抜けた表情をしていた。


 私は映像を一時停止した。


 誠司は、私の前でいつも疲れていた。眉間に皺を寄せ、仕事に追われ、生活に押しつぶされそうな顔をしていた。


 あの疲れた顔は、私の前でだけ見せていたものだったのだ。


 続きを再生すると、半年前の映像が出てきた。


 私は地方の診療所へ応援に出ていた。そこで土砂崩れに遭い、山中に三日三晩取り残された。携帯電話の電波も届かなかった。


 その間、誠司はSNSに私の無事を祈る文章を投稿していた。病院の同僚たちは「いい夫だ」「奈緒先生は幸せ者だ」とコメントを寄せていた。


 ところが、その投稿から三十分後、彼は真奈と数人の配信者を連れて、ビールや食材を大量に抱え、私の家へ入っていた。


 彼らはリビングで音楽を大音量で流し、踊っていた。真奈は、私が一度も袖を通していない高級ドレスを着て、テラスでワイングラスを傾けながら写真を撮っていた。誠司は彼女の腰に腕を回し、肩を揺らして笑っていた。


 指先が冷えていく。


「早瀬さん、もう一つ確認していただきたいものが……」


 責任者が別の画面を開いた。入館カードの登録情報だった。


 副カードの使用者は真奈。続柄の欄には「配偶者」と記載されている。


「誰が登録したんですか?」


「ご主人です。親族の方だと聞いて、こちらもそのまま処理してしまいました……」


 私は画面を撮影し、映像や入退館記録、登録書類を保存してもらった。必要な記録を正式に受け取れるよう、書面での手続きを依頼した。


「彼女は普段、何時ごろ来ていますか?」


 責任者は迷ったあと、答えた。


「朝八時十五分前後です。もっと早い日もあります」


「泊まったことも?」


「あります。ご主人から、配偶者として届け出がありました」


 私は記録の受領手続きを確認し、責任者に礼を言って事務所を出た。


「早瀬さん……どうか、ご無理なさらず」


 背後から声がしたが、振り返らなかった。


 これだけでは足りない。私は車へ戻り、SNSで真奈のアカウントを探した。「真奈の小さな部屋」という名前のアカウントはほどなく見つかった。フォロワーは五十万人。プロフィールには「高身長イケメン医師の家族」と書かれている。


 最初の投稿は、私が選ぶのに三か月もかけた浴槽で、真奈が泡に身体を沈めている動画だった。背景から、誠司の声が聞こえる。


「真奈、お湯の温度はちょうどいいか?」


「早く出ろよ。もうすぐ、あの年増が帰ってくるぞ」


 私は画面から目を離せなかった。


 あの浴槽は、恒温機能もマッサージ機能も、照明の調節機能もついている。誠司は購入するとき、「腰が悪いんだから、いいものを選ぼう。奈緒にはその価値がある」と言ってくれた。


 さらに投稿を遡ると、三年前の写真が出てきた。


 私が長時間の手術のあと流産し、病室で意識を失っていた夜。真奈は病院の非常階段で、誠司と手をつないだ写真を投稿していた。背景には、私が入院していた階の案内表示が写り込んでいる。


 添えられた文章は、こうだった。


『彼は私のそばにいるときだけ、疲れきった救世主を演じずにいられる』


 私は、その写真を長い間見つめていた。


 目を覚ましたとき、誠司はベッドのそばに座っていた。目を赤くして私の手を握り、「奈緒、子どもはまた授かれるから。今は身体を休めて」と言った。


 私は、彼が私を心配して泣いてくれたのだと思っていた。


 あの赤い目は、私の病室を離れて、真奈と非常階段にいたせいだったのだろうか。


 車へ戻り、私はハンドルに額を伏せた。胸の奥が詰まり、涙が目にたまった。それでも、すぐには泣けなかった。


 泣いてしまったら、これまでの年月まで無駄になるような気がした。



3



 私はタクシーを拾い、両親の住む家へ向かった。


 運転手はバックミラー越しに私を一度見たが、何も聞かなかった。窓の外を流れる街灯を眺めていると、病院の廊下で過ごした夜が次々と思い浮かんだ。手術が終わるのを待ち、患者の容態が落ち着くのを待ち、誠司が迎えに来るのを待った。


 彼は、一度も来なかった。


 母はドアを開け、私の顔を見るなり笑みを消した。


「奈緒、どうしたの。顔が真っ青じゃない」


 私は狭い部屋を見回した。喉が詰まり、うまく言葉が出てこなかった。


 両親は長年、農業をして暮らしていた。自然災害で畑を失ったあと、生活のために街へ出て、古い貸家で暮らすようになった。寝床と台所と食卓が一つの空間に詰め込まれ、雨が降るたび、父は屋根に上がってビニールシートを押さえていた。


 私は、天井から落ちる水滴が金属の洗い桶に当たる音を聞きながら、いつか両親を大きな窓から川の見える家に住まわせようと決めた。


 その夢をかなえるために買ったのが、あの家だった。ローンを払い終えたら、両親を迎えに来るつもりだった。


「お母さん……誠司と、このまま一緒に暮らせなくなったら、前に約束していた家のことも、かなわなくなるかもしれない」


 声が震えた。私は床を見つめたまま、両親が何か聞いてくるのを待った。説明する言葉も考えていた。「性格が合わなくなった」と、なるべく軽く伝えようと思っていた。


 けれど、母は私の手を取っただけだった。長年、畑仕事や家事をしてきた掌は、ざらざらしていた。


「住めなくなったら、それでいいじゃない。家の広さなんて、お父さんも私も気にしていないよ」


「奈緒が私たちにいい暮らしをさせたいと思ってくれていたことは、分かってる。でもね、大きな家より、あなたが身体を壊すほうが心配なの」


「鏡を見てごらん。こんなに痩せて。毎月ローンを払って、夜遅くまで働いて、お正月だって二食も食べれば病院に戻ってしまうでしょう。私たちは大きな家が欲しいんじゃない。あなたに少しでも楽に暮らしてほしいだけなんだよ」


 鼻の奥がつんとした。視界が滲む。


 母はスマートフォンを取り出し、私に二十万円を送金した。両親が長い年月をかけて貯めた老後の資金だろう。


「何があったか、今すぐ話さなくてもいい。でも、家族はいつだってあなたの味方だからね」


「もう我慢しなくていい。必要なら、このお金で弁護士さんに相談しなさい」


「誰かに傷つけられたまま、黙っていなくていいんだよ」


 私は母の肩に顔を埋め、声を上げて泣いた。洗剤と台所の油の匂いがした。幼いころ、熱を出すたびに母が一晩中、額に手を当ててくれたことを思い出した。


 その夜、私は昔使っていた小さなベッドで眠った。床板が硬く、寝返りを打つたびにきしむ音がした。なかなか眠れず、誠司と知り合ったころのことを思い返していた。


 私が夜勤の日、彼はよく保温容器にスープを入れて病院まで届けてくれた。給料日にはお金を送って、「いつもお疲れさま」と短いメッセージを添えてくれた。


 いつから、彼は変わってしまったのだろう。


 空が明るくなり始めたころ、私は顔を洗い、森川理沙にメッセージを送った。


『離婚した場合、財産をどのくらい取り戻せるか、計算してほしい』



4



「口座の入出金記録と返済履歴があれば、あなたが多くの資金を負担してきたことは示せるわ。登記の名義だけで、財産の分け方がすべて決まるわけじゃない。購入時の資金やローンの返済、夫婦それぞれの負担を整理して、主張を組み立てましょう」


 電話の向こうで、理沙が書類をめくる音がした。彼女はすでに、私が送った資料を確認してくれていた。


「七割前後を目標にできるかもしれない。ただし、最終的な割合は資料と手続き次第よ」


 私はスマートフォンを握りしめた。二日間、張りつめていた気持ちが少し緩んだ。


 その金額が確保できれば、もっと小さな家を買える。両親を迎えることもできる。暮らしを立て直すための足場ができる。


「ただ、奈緒。誠司が素直に離婚に応じるとは思わない。あの人がどんな行動に出るか、考えておいて」


「分かってる。覚悟はしているわ」


「もう一つ。彼があなたの弱みになるようなものを持っていないか、思い出してみて」


 そのとき、別の着信が入った。誠司だった。


 私は画面に表示された名前を、しばらく見つめていた。


「どうしたの?」と理沙が聞く。


「誠司から電話が来た」


「出て。録音しておきなさい」


 私は通話をつなぎ、録音を開始した。


「奈緒」


 誠司の声は平坦だった。電話の向こうは静かで、周囲の物音もほとんど聞こえなかった。


「管理会社の映像を見たんだろ?」


 私は答えなかった。


「なら、回りくどい話はやめよう。真奈があの家に出入りしていたのは、今に始まったことじゃない。あの家を買ったときから、俺にはあいつと暮らすつもりがあったんだ」


 爪が掌に食い込んだ。私は舌を噛み、声が漏れないようにした。


 電話の向こうで、誠司が小さく笑った。何度も聞いてきた笑い声だった。かつては優しさだと思っていたものが、今はひどく冷たく聞こえた。


「本気で離婚したいなら、そうしてもいい。ただ、一度あの家に戻ってきてくれ。見せたいものがある。それを見てから決めても遅くないだろ」


 それだけ言うと、電話は切れた。


 私は理沙に連絡してから、あの家へ向かった。


 誠司はリビングの大きな窓の前で、お茶を飲んでいた。夕日が差し込み、顔の半分を柔らかく照らしている。初めて出会ったころの、穏やかで気遣いのできる男に見えた。


 テーブルの上にはノートパソコンが置かれ、画面が明るく光っていた。


「座れよ」


 誠司は顎で画面を指した。


 私は座らず、表示されているフォルダを見た。写真と動画のサムネイルが、画面いっぱいに並んでいた。


 彼が最初の写真を開いたとき、私は殴られたような衝撃を受けた。


 ベッドで眠っている私の写真だった。裸の背中が写り、掛け布団は腰のあたりまでしかかかっていない。撮影された位置は枕元。誠司がいつも横になっていた場所からだった。


「これ、覚えてるか?」


 誠司は古い写真を見せるような口調で言った。


「三年前、お前が夜勤続きで帰ってきたときだ。疲れ切って、すぐに眠ったから撮った」


 喉が締めつけられ、歯が震えた。


 彼は次の写真を開いた。私が誠司から贈られたシルクのナイトウェアを着て、カメラを見ている。結婚記念日に、彼から「二人の思い出にしたい」と言われ、少し酒を飲んだ夜の写真だった。


 あのときは、夫婦の間だけの記念だと信じていた。


 三枚目、四枚目と、サムネイルが切り替わる。画面に並ぶ写真が、肌色の塊のようにぼやけて見えた。


 最後に誠司は動画を再生した。スピーカーから、私自身の声が聞こえた。誰にも見られたくない、最も無防備な時間を、彼はスマートフォンで撮影していた。


「もうやめて、誠司。こんなものを他人に見せたら、法的な問題になるわ」


 自分の声が震えているのが分かった。


 誠司は一時停止を押した。画面には、目を閉じて顔を上げた私が映っていた。


「違法だろうが、俺には関係ない。お前が困るってことだけは分かってる」


「大騒ぎになったって構わない。写真も動画も、クラウドにバックアップしてある。いつでも出せるんだ」


「俺が責任を問われたとしても、お前の評判は元に戻らない。お前は一生、医師としても生きづらくなる」


 誠司は私の反応を確かめるように、ゆっくりと離婚協議書を取り出した。


「離婚には応じる。ただし、この書類に署名しろ」


 そこには、私が財産分与を求めず、すべての財産を放棄するという内容が記されていた。


「これにサインすれば、離婚してやる。さあ、どうする?」



5



 私は震える手でペンを取った。


 私は震える手でペンを取った。誠司は私が署名するのを待つように、ノートパソコンの画面から目を離さなかった。その隙にペンを置き、玄関へ向かった。手術室で一分を争うときのように、迷わず足を動かした。


 誠司はノートパソコンを閉じ、悪態をついた。


 私はペンをテーブルに置き、玄関へ向かった。手術室で一分を争うときのように、迷わず足を動かした。


「奈緒! 待て!」


 誠司が追いかけてきた。私はドアを開け、玄関収納に置かれていた淡いピンク色のスリッパをつかんだ。振り返り、彼の胸に投げつける。


「あなたの『配偶者』に履かせてあげたら?」


 誠司はスリッパを受け止め、顔を強張らせた。


 ドアが閉まる直前、二階から真奈の声が聞こえた。


「誠司くん、どうしたの? 停電? 配信が始まったばかりなのに!」


 私は庭へ出て、スマートフォンで一一〇番に電話した。


「自宅に関する相談です。夫が私の同意なく撮影した私的な写真や動画を使い、財産を放棄するよう迫っています。記録も残っています」


 住所を尋ねられても、声は落ち着いていた。


 通話を終え、理沙に音声メッセージを送った。


「誠司が私の私的な写真や動画を持っているの。クラウドにも保存していると言っていた。証拠を保全したい。できるだけ早く動いてほしい」


 理沙から返事が来た。


『住所を送って。弁護士として保全の手続きを進めるわ。あなたは、もうあの家に戻らないで』


 私は返事をせず、管理事務所へ向かった。


 責任者は私を見るなり、青ざめた。


 私は、誠司のパソコン画面を撮影した写真、真奈のSNSの投稿、入館カードの登録情報を机の上に並べた。


「三つ、お願いがあります。まず、誠司が発行した副カードの利用を停止してください。次に、過去一年分の来訪者記録、車両の出入り、エレベーターの映像を保存してください。必要な資料は、私の弁護士を通じて正式に請求します」


 私は一度言葉を切った。


「本人への確認をしないまま、配偶者として登録された人に入館権限を与えたことについても、管理会社としての対応を確認させていただきます」


 責任者は机に手をつき、頭を下げた。


「早瀬さん、どうかご容赦ください……」


「ご容赦?」


 私は笑った。


「私が夜勤を終えて、腰も伸ばせないまま病院から帰っていたとき、あなたたちは真奈を通していたんですよね。今になって、見逃してほしいと言うんですか?」


 私は受け取った記録媒体を持ち、事務所を出た。


 午前三時、理沙から電話があった。


「クラウドのアクセス記録について、弁護士から正式な保全要請を出したわ。病院の情報管理部門にも、病院が管理するシステムの関連記録を保存するよう依頼した。誠司が私的な画像を保存していると話していたことも含め、今は確認できる記録を残す段階よ」


「中身も確認できたの?」


「今はアクセス履歴や保存状況を確認している段階。あなたの職務権限だけで、個人のデータを自由に取り出せるわけじゃない。必要な情報は、病院の規程と正式な手続きに従って扱ってもらう。捜査機関に提出する資料についても、弁護士を通して進めるわ」


 私はスマートフォンを握りしめた。


「明日の朝、病院の情報管理部門に行くわ」


「私も同行する。奈緒、保全の手続きを進めれば、誠司が勝手に公開しようとした場合にも、記録をもとに対応できる。あなた一人で抱え込まないで」


「分かった」


「それから、警察に相談したことは誠司も知っているはずよ。さっきから私にも何度も電話してきている」


「出なくていいわ」


「出ないつもり。でも、メッセージが届いたから、あなたにも見ておいてほしい」


 転送された画面には、誠司からのメッセージが表示されていた。


『奈緒、警察に行っても無駄だ。写真は俺が持っている。お前に勝ち目はない。戻って署名すれば、まだ体面を保てるようにしてやる』


 私は画面を保存し、担当の警察官に送った。



6



 翌朝十時、私は理沙とともに病院の情報管理部門を訪れた。


 担当者は、病院が管理するシステムのアクセス履歴や保存状況を確認し、関連する記録を保存した。どのデータを正式な証拠として提出できるかは、病院の規程と捜査機関からの要請に従って判断されることになった。


「これで、記録が消されたり、後から変更されたりする危険を減らせます」


 担当者の説明を聞き、理沙は保全の記録を受け取った。


「今後、誠司さんが画像を公開したり、公開をほのめかして脅したりした場合も、保存された記録が重要になります」


 私はうなずき、白衣に着替えて外来へ向かった。


 廊下の角を曲がったところで、スマートフォンが鳴った。誠司の恩師、大庭教授からだった。


「奈緒先生、誠司のことを聞きました。先ほども研究室へ来て、ひどく取り乱していました。どうか、私に免じて、一度話し合う場を設けてもらえませんか」


 私はしばらく黙っていた。


「大庭先生。先生の娘さんが去年ボストンで結婚されたとき、私はお祝いを送りましたよね。先月、奥さまが胆石の手術を受けられた際には、私が執刀しました」


 息を整えてから、続けた。


「誠司が私の私的な写真を使って、財産を放棄するよう迫ったとき、先生の顔を立てようとは考えなかったようです。真奈を家に住まわせ、私のベッドや浴槽を使わせていたときも同じです。今になって、私にだけ我慢しろとおっしゃるんですか?」


 電話の向こうが静かになった。


「先生が育てた学生です。どうか、ご自身でもよく考えてください」


 私は電話を切った。


 午後二時、私は警察署の相談室で担当者に事情を説明していた。誠司も弁護士を伴って呼ばれており、向かい側に座っていた。髪はきちんと整えていたが、目の下には濃い隈があり、顔色も悪かった。


「早瀬さん、依頼人は婚姻中に不適切な関係を持ったことを認めています。ただ、今回の画像は夫婦生活の中で撮影されたものです。それだけで直ちに犯罪と断定できるかどうかは、慎重に検討する必要があります」


 弁護士は眼鏡を押し上げた。


「私的な画像を本人の同意なく撮影、保存したことや、公開をほのめかして財産の放棄を迫ったことについては、別途、法的な評価が必要です。私たちは、その点についても資料を提出しています」


 私は理沙がまとめた書面を机の上へ置いた。


「その点は、警察と弁護士に判断してもらいます。私が求めているのは、事実関係の調査と、これ以上の脅迫や画像の拡散を防ぐことです」


 誠司が勤務する病院の内部調査部門にも、資料を提出したことを伝えた。職務中の無断離席や病院の経費・設備の私的利用など、職場の規程に反する行為がなかったか、調査を求めていた。


「病院にまで話を持ち込むのか?」


 誠司が初めて口を開いた。声がかすれていた。


「病院の規程に違反していたかどうかは、病院が調べることよ。あなたが何をしたのか、記録に基づいて確認してもらうだけ」


「お前……」


「何?」


 私は立ち上がった。


「私は医師として十年以上働いてきた。何を記録に残し、誰に確認すべきかは、あなたよりよく分かっているわ」


 話し合いは、まとまらなかった。


 警察署を出ると、夕日が頬に当たった。スマートフォンが鳴り、母から電話がかかってきた。


「奈緒、お父さんが古い家の雨漏りを直したよ。疲れたらいつでも帰っておいで。狭いけれど、あなたのベッドはそのままにしてあるから」


 鼻の奥が熱くなった。


「お母さん、あと二日くらいしたら帰るね」


「急がなくていいよ。お父さんが、あの二十万円で足りなければ借りてでも助けるって言ってた。自分を安売りするんじゃないよ」


 私は電話を握ったまま、夕日の中にしばらく立っていた。



7



 真奈の配信アカウントが停止されたのは、三日目のことだった。


 私が何かをしたわけではない。誠司が病院から調査を受けていると知った人たちが、真奈のアカウントを調べ始めたのだ。


 五十万人のフォロワーの中には、動画の細部に気づく人もいた。映っている豪邸が、ある総合病院に勤める女性医師の自宅とよく似ているという指摘が出た。主寝室から見える川の曲がり方、対岸の建物の並び、私が何週間もかけて選んだテラスの照明まで一致していた。


 さらに、非常階段で撮られた手つなぎ写真も見つかった。背景に写っていた階数表示と、私が流産後に入院していた病棟の階が同じだった。


 投稿した人は、こう書いていた。


『彼女は「彼のそばにいるときだけ、彼は疲れた救世主を演じずに済む」と言っている。でも、そのころ、彼の妻は流産したばかりで、病室で意識を失っていた』


 コメント欄は一気に荒れた。


「高身長イケメン医師の家族」というプロフィールをめぐっても、コメント欄には「既婚者との不倫を疑われている配信者」という批判が相次いだ。真奈は動画を削除し、コメント欄を閉じたが、スクリーンショットはすでに広がっていた。


 ブランドとの契約は次々と解除され、ライブコマースの取引先からも問い合わせや請求が相次いだ。ある会社は、真奈に七桁の広告料を支払ったのに、配信で売れた商品は四百円分だけだったとして、契約書とメッセージの一部を公開した。


 五日目、真奈は謝罪動画を投稿した。六日目には涙を流し、「恋愛に夢中になっていた」「相手に家庭があると知らなかった」「自分も被害者だった」と話した。七日目には白いキャミソール姿で灰色の壁を背景にし、落ちぶれた自分を演出するような動画を出した。


 八日目、彼女はすすり泣きながら言った。


「私はただ、愛されたかっただけの女の子なんです……」


 私はコメント欄に短く書き込んだ。


『相手に家庭があると知らなかったの? 私の家に住んでいたとき、私のスリッパを履いて、私の浴槽を使って、私のベッドで寝ていたよね。あのときも知らなかったの?』


 コメントには一万を超える「いいね」がついた。


 さらに上位には、こんな書き込みもあった。


『配信で「あの年増が帰ってくる」と言っていたとき、その年増は夜勤を三回続けて、手術室から戻ったばかりだった。あなたは、その人がどんな暮らしをしてきたか知っていたの?』


 その日の午後、真奈のアカウントはプラットフォームの規約違反を理由に永久停止された。彼女は別のアカウントを作ったが、そのたびに過去の投稿を指摘され、アカウントは次々と停止された。やがて、彼女の名前を見かけることもなくなった。


 私は、それ以上の経緯を追わなかった。


 理沙によると、真奈は所属していた配信者事務所から多額の違約金を請求されたらしい。誠司から受け取っていたお金では足りず、彼女は誠司に追加の金を求めた。しかし、誠司自身も病院の調査や離婚手続きへの対応に追われていた。


 二人は電話で激しく言い争ったという。真奈は誠司を「役立たず」と罵り、誠司は「自分から近づいてきたくせに」と言い返した。やがて、その通話の一部が真奈の元アシスタントを通じて流出し、再び話題になった。


「共倒れね」


 理沙は、それだけ言った。


 私は電話を切り、引っ越しの準備を続けた。


 あの家には戻りたくなかったが、置いてきた私物が残っていた。衣類、本、いくつかのアクセサリー、両親が作ってくれた漬物の瓶。私はリストを作り、引っ越し業者に回収を依頼した。


 リストの最後には、玄関収納の淡いピンク色のスリッパも書き加えた。


『袋に入れて、玄関の外のごみ置き場の脇に置いてください』


 後日、作業員から聞いた話では、誠司は荷物が運び出される間、ずっとリビングに座っていたらしい。作業の終わりに、彼は玄関収納からあのスリッパを取り出し、長い間見つめていた。


「奈緒は……何か言っていませんでしたか?」


 作業員が首を横に振ると、誠司はスリッパを元の場所へ戻した。捨てることはできなかったらしい。


 私はその話を聞いて、苦笑した。


 私があのスリッパを捨てられなかったのは、誠司が残した不器用な気遣いだと思っていたからだ。彼が捨てられなかった理由は、私とは違うのだろう。



8



 誠司が病院から正式な処分を受けた日、私はあの家へ荷物を取りに戻った。


 離婚訴訟はすでに受理され、家についても手続きが進んでいた。私物の回収については、弁護士を通じて事前に調整してあった。理沙も一緒に来てくれた。


 リビングへ入った理沙は、部屋を見回して眉をひそめた。


「ここ、空気が重いわね」


 誠司はソファに座っていた。髭は伸び、シャツはしわだらけで、テーブルの上には食べ終わった弁当の容器と空き瓶が散らばっている。玄関には、あのスリッパがほこりをかぶって残っていた。


 私を見ると、誠司の目が一瞬明るくなった。ソファの肘掛けに手をついて立ち上がる。足元はふらついていた。


「奈緒……」


「荷物を取りに来ただけよ。今日来ることは、弁護士から聞いていないの?」


 私はそのまま二階へ向かった。誠司も後ろからついてくる。酒の匂いと、何日も風呂に入っていないような酸っぱい臭いがした。


 彼が私の腕をつかもうとした瞬間、理沙が間に入った。


「早瀬さん、接触しないでください。今後のやり取りは弁護士を通してください。無理に触れようとするなら、警察に連絡します」


 誠司の手が宙で止まり、ゆっくりと下がった。


 私は主寝室のドアを開けた。


 ベッドには、私が選んだリネンの代わりに安価な化学繊維の寝具が敷かれていた。枕にはタバコで焦がしたような穴が開いている。三か月かけて選んだ浴槽は縁の一部が欠け、ひびには黄褐色の汚れがたまっていた。


 ドレッサーには、置いていった保湿クリームの空き瓶がある。蓋もきちんと閉められておらず、横には真奈のつけまつげと、使いかけの口紅が転がっていた。


 クローゼットを開けると、私の服は下のほうへ乱雑に押し込まれ、その上には真奈のレースのナイトウェアやスパンコールのついた短いスカートが掛かっていた。


 私は自分の服を一枚ずつ取り出し、畳んでスーツケースに入れた。


 結婚したときに着ていた赤いシルクのナイトウェアは、いちばん下でしわくちゃになっていた。襟元には裂けたような跡もある。私はそれを手にしたまま、しばらく動けなかった。それから、丁寧に畳んでスーツケースへ入れた。


 理沙がドア枠にもたれ、声を落とした。


「今度、一緒に新しいのを買いに行こう」


 私はうなずいた。


 廊下から、誠司のかすれた声がした。


「奈緒、そんなふうにするなよ。やり直そう。真奈の物は全部捨てるから……」


「誠司」


 私はスーツケースのファスナーを閉め、彼のほうを向いた。


 廊下の薄暗い照明の下で、彼の頬はこけ、頬骨が目立っていた。目の下は落ちくぼみ、かつて病院の前で白いシャツを着て、保温容器を手に私を待っていた青年の面影は薄れていた。


「私が十九歳のとき、あなたと付き合い始めた。二十六歳で結婚して、今年で三十二歳。十三年よ」


 私は彼から目をそらさなかった。


「その間、何千時間も手術台に立った。夜勤も何千回とこなした。子どもを失ったこともある。腰も首も胃も、無理を重ねて悪くした。それでも家のローンを返してきたの」


 誠司の唇が震えた。


「私が働いて返したお金で、あなたは真奈を養った。ミルクティーも、バッグも、配信の機材も買ってあげた。そのうえ、私の写真まで脅しの道具にした。そんなあなたが、やり直そうって言うの?」


 彼は何も答えなかった。


「私の私的な写真を使って、財産を放棄させようとしたことも忘れていないわ」


 私はスーツケースを引き、彼の横を通り過ぎた。すれ違うとき、足を止める。


「クラウドのデータについては、弁護士を通じて保全の手続きを進めている。勝手に削除したり、公開したりしないで。今後の対応は、正式な手続きに従ってもらうわ」


 階段へ向かいかけたとき、もう一つ思い出した。


 私は振り返り、廊下に立つ誠司を見た。


「そういえば、管理会社の登録記録では、真奈との関係を『配偶者』と申告していたわね。記録には、あなたがそう届け出たことが残っている。虚偽の登録についても、弁護士に確認してもらうから」


 誠司の顔から血の気が引いた。


 理沙が小さく口笛を吹いた。


 私はもう何も言わず、玄関へ向かった。



9



 離婚訴訟の判決が出た日は、よく晴れていた。


 家の購入資金やローンの返済記録など、私が提出した資料は財産の精算に反映された。住宅についても私の主張が大きく認められ、売却・精算後に受け取る金額は、家の評価額の七割相当になった。誠司には、プライバシー侵害などについても、裁判で認定された範囲の損害賠償を支払うよう命じられた。


 すべてを合わせると、川沿いの小さな二部屋のマンションを現金で購入できる金額になった。


 理沙は判決書を私に渡しながら、話してくれた。


「誠司は、あの家に住み続ける権利も主張していたらしいわ。でも、購入資金や返済の記録について質問されると、十分に説明できなかったそうよ」


 後日、誠司の弁護士から理沙に連絡があったという。誠司は控訴を取り下げる代わりに、私が今後、彼を訴えないことを条件にしたいと申し出たらしい。


「それで、どう返事したの?」


「本人があなたに直接、話をするべきだと伝えたわ。結局、彼は来なかったけどね」


 私は病院の休憩室でサンドイッチを食べながら、判決書を一行ずつ読んでいた。窓の外には入院病棟があり、その向こうに川が見えた。法律用語は読めても、それが自分の人生に関わる文章だと思うと、不思議な気持ちになった。


「おめでとう」


 理沙が椅子を引いて座った。


「誠司は控訴したけれど、今のところ、判決が大きく変わる可能性は高くないと思う。以前のように費用をかけて弁護士を雇うのも難しいでしょうね」


「大庭教授は?」


「先月、予定より早く退職したそうよ。誠司が訪ねていっても会わなかったらしい。奥さまからも、『もう来ないでください』と伝言があったんだって」


 理沙は少し間を置いてから、続けた。


「真奈も、所属していた事務所から訴えられたそうよ。資産の一部は保全され、違約金の問題も残っている。先日、ネットで長い文章を投稿していたけれど、結局、アカウントを閉じたみたい」


 私はサンドイッチをもう一口食べ、黙って聞いていた。


「引っ越しはいつ?」


「今週末。両親の住む家を決めたの。川が見えて、エレベーターもある。父は足が悪いから、階段を上らなくて済むところがいいと思って」


 理沙は笑った。


「よかったわね」


「うん」


 判決書の最後には、理沙が書いた小さなメモが挟まっていた。


『奈緒、あなたが悪かったのは、尽くせば報われると思っていたこと。どれだけ大きなものを渡しても、もらえなかったものばかりを数える人はいるのよ』


 私はその紙を折り、白衣のポケットにしまった。



10



 週末、引っ越しの日が来た。両親も新居に来てくれた。


 父はバルコニーに立ち、川を行き交う貨物船を長い間眺めていた。背中を少し丸め、両手を後ろで組んでいる。風が白髪を揺らしていた。


 母はキッチンの棚を一つずつ開け、「このコンロはきれいだね」「流しも広いね」と声を上げていた。そのたびに、袖でそっと目元を拭っていた。


 私はリビングの真ん中に立ち、床まで届く窓から差し込む陽光を眺めた。床材は淡いオーク、ソファはアイボリー。壁には、母が三年かけて刺繍した牡丹の額を掛けていた。いつか大きな家に住んだら、そこに飾るのだと話していたものだ。


「奈緒、痩せたね」


 母がそばに来て、私の手を取った。


「夜勤も少し減ったから。これから、ゆっくり戻していくよ」


「例の人は……」


「手続きは進んだよ。お金の精算も決まったし、家のことも片づいたから」


 母はうなずき、それ以上は尋ねなかった。やがて父の隣へ行き、二人で川を眺め始めた。


 その背中を見ていると、昔のことが浮かんだ。雨漏りのする古い貸家で、私は金属の洗い桶に落ちる水滴の音を聞いていた。父は屋根に上がり、ビニールシートを押さえていた。あのころ、両親に大きな窓から川の見える家を贈ることが、私のいちばんの願いだった。


 遠回りはしたけれど、ようやく願いをかなえられた。


 夜、私は一人で部屋に入り、古い書類を整理した。あの家のローン契約書には、五年にわたる返済記録が細かく並んでいた。数字をしばらく眺めてから、私は自分の控えをシュレッダーにかけた。


 機械の音を聞いているうちに、ふと思い出したことがあった。


 あの家のスマートホームは、私自身がシステムを選び、設定したものだった。センサーやカメラの配置、空調や音響の遠隔操作、管理アカウントの設定も、自分で確認していた。


 誠司は、家の管理を私に任せたまま、そこに何が記録されるのかを気にしていなかった。


 ただ、記録に残るのは、機器が検知した時刻や荷重、操作履歴などのデータにすぎない。それだけで、画面に表示された出来事のすべてを断定できるわけではない。必要な記録は保存し、ほかの資料と照らし合わせて確認するつもりだった。


 私はスマートフォンを取り出し、管理アカウントを開いた。過去五年分の履歴は、まだ残っていた。誠司と真奈が出入りした時間帯、荷重センサーが反応した時刻、エアコンや音響が遠隔操作された履歴。日付と時刻が淡々と並んでいる。


 最後まで確認していると、三年前、私が流産した日の記録が目に留まった。


 午前二時十七分。主寝室のベッドで、二人分の荷重が検知されていた。


 同じ時刻、私の携帯電話の位置情報は、入院中の病室を示していた。


 私はその画面をしばらく見つめた。


 記録は削除しなかった。必要になれば正式な手続きに従って提示できるよう、保存状態を保っておく。


 それから管理画面を閉じた。


 これからは、お金も、愛情も、時間も、自分を大切にしてくれる人たちのために使おう。両親にも、そして自分自身にも。


 書類を片づけてから、私はバルコニーに出た。風鈴が川風に揺れ、澄んだ音を立てていた。


 階下の公園では、子どもたちが凧を揚げていた。夕日に染まった川を貨物船がゆっくり進み、長い航跡を残していく。父はリビングで音程の外れた古い歌を口ずさみ、母は食卓に箸を並べていた。


 私はバルコニーで深く息を吸った。そのとき、リビングから母の声が聞こえた。


「奈緒、ご飯ができたよ。スープが冷めちゃうから、早くおいで」


「今行く!」


 私はバルコニーを離れ、家の中へ戻った。


 母は私の椀に、肉の多い一切れを入れてくれた。


 食卓には湯気の立つ料理が並び、スープから懐かしい香りが漂っていた。


「奈緒の新居に乾杯だな」


 父がグラスを持ち上げた。


「新しい暮らしのお祝いもね」


 母が笑って付け加えた。


「そうだな。引っ越しと新しい暮らし、両方だ」


 私は二人とグラスを合わせた。


 温かい食事があり、窓の向こうには川があり、目の前には両親がいる。


 その夜、私は久しぶりに、帰る場所があると思えた。


【完】







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