瑕(きず)の肖像
2116年
神君の統治の始まりからもうすぐ60年が来ようとしている。
相模原市内では新国家の新たなる門出をことほぎ、あらゆる催しが計画されていた。これからの日本を見据えた色々な計画も準備されていた。都内や大都市では神君を祝う集会が開かれ、あちこちで神君の肖像画が高く掲げられていた。
ちょうど、刀亮二の講演を聞いて来たのだ。神君とかかわりの深い刀家の人間を生で見れる貴重な機会だったから、もしかしたら渡辺家の人々に関する珍しい話でも聞けるのではないかと思っていたのである。
だが、正直言って内容は期待外れだった。渡辺家の繁栄をことほぐ演説を聞いたばかりであったから、克樹はたいして内容に変わり映えがないことに失望してしまった。
渡辺家に近い人間であるからこそ、下手に勝手なことを話すわけにはいかないのだろう。権力の中枢に近ければ近いほど、無論表ざたにすべきではない闇をいくらでも知っているはずだから。
藤井克樹はもはや誰かの話を聞くのにも飽き、別の場所を訪れることにした。ちょうど、記念会館で絵画が展示されているというから、そこに行こうと思っていたのだ。
そして、その間にも、街中の神君の肖像画がいつよりもまして多く張り付けられているのを感じた。これが熱狂であるということを嫌でも考えさせられる。
日本が一つの時代の分かれ目にこれだけ熱狂するのは、皇紀2600年を祝福した時くらいだろう。もっともそれは、のちの歴史からすればとてつもないあだ花になってしまったわけだが。
太平洋戦争の後、精神的支柱を失った国民が金に狂奔した時代があった。だが金もまた彼らの心を満たすにはいかなかった。その後には憎しみの時代があった。人々の心は空白になってしまい、ただその代替品として自分以外の人間を敵とみなす野放図な憎悪――それは、前世紀の世界において普遍的な現象――がはびこった。
あれはまさに、際限のない自傷行為だった。
とりとめのない思案に暮れているうちに、相模原文化中心に着いた。そこには多くの絵が展示されていた。
ここでは神君廟にあらたに奉納する絵画のコンペが行われている。今や国中で多くの人間が愛国心を堅持すべく筆を振るっている最中なのだ。
入り口で堂々とそびえ立つのは現将軍・刀涼子夫人の肖像。透き通った肌に、横に長い目とすらっとした眉毛が特徴的。年相応の貫禄がありながらも、決して威圧的になりすぎない鷹揚な表情の中に、大陸の人間の気風が現れているように見えた。
慎ましいが、堂々とした姿勢の中に内面までもが巧みに表現されている。
その絵柄に克樹は見覚えがあった。作者とは以前顔を合わせたことがある。
克樹は周囲の観客の中に、その人がいないかどうか目をめぐらして探し始めた。そして、難なく見つけた。
「滝君ですね?」 近づいて、克樹は問うた。
「いかにも」
滝正士郎は手短に言った。
「藤井克樹です……意外と早く会えたなんて」
「昔から滝さんの絵をよく見ておりました」
「おお、それはうれしいです」
彼は関東では高名な絵描きだ。ここ数年、高名な政治家や学者のために、家や公共施設に飾る絵画をいくつも描き上げ、高い評価を受けている。
それはつい最近では、南洋戦争での戦闘の絵も描いている。日本国家に勝利と誇りを与えてくれた南洋戦争は人気の題材だ。だが克樹にはそこまでして戦争を持ち上げる意味が分からなかった。徴兵で死んだ知り合いがいるからには。
「涼子夫人の完成には、おおいに時間がかかったことでしょう」
「ええ、かかりましたよ。何しろ戦争による資材の高騰で画材が足りませんでしたから」
「なにせ、将軍閣下のご夫人であるからには、そう下手に描くわけにはいかないでしょう」
静かにうなずいてから、正士郎はやや熱を込めて語り始めた。
「日本を見回しても、あの方ほど気品に満ちた方はおりませんよ。神君のご夫人も非常に立派な女性ではありましたが、それでも乱世を生き抜くための荒々しさであり、平和な世の中で穏やかに生きていくには適さないものでしたから」
「乱世の荒々しさ……今も乱世ではあると思いますけれど」
克樹にとっては、一体いつが平和な時代であったのだろうと思う。
そこにはうかがえるのは、国母としての優しさだ。
「ええ。永遠の乱世を僕らを生きているんです。ただ、以前に比べればましな乱世というだけですよ」
壁にある絵には、他にも軍艦とか飛行機とか、兵隊の様子が描かれていた。
そして、藍色の背景に日の丸を示す国旗もこれ見よがしに背景を満たしている。
「乱世ゆえに、戦争の絵の絶えませんね。物騒なことです」
「国民は勝利に飢えていたんですよ。何せ対外戦争で勝利したなんて、冷戦以来百年のことだったんですから」
そう、それが市民一般の感情なのだ。
ただ、この戦争の情景はあまりにも脚色されすぎている。
「でも、これっていいことなんでしょうか。事実をねじ曲げているようなものなんですから」
「事実を研究することと、国家を宣伝することは別のことですから。僕は金のためならいくらでも客をあおりますよ」
「客をあおる……」
何ら言葉を選ばない正士郎に対して克樹は面食らってしまった。それが絵画の本来の目的なのは分かる。エジプトやアッシリアの時代から、それは変わらない。
実際、それで仕事に困ることはないのだから、問題にするまでもないのだろう。
「僕は一端の絵描きですからね。別に真実を追求するとかには興味がないんですよ」
「確かに、多くの絵はそういうことを目的に描かれるものではありますけど……」
「歴史家の目的でしょう? ここはそれを目指す場所ではないんです」
正士郎の言葉にはよどみがない。
「ほら、向こうには偉人たちの絵がありますよ」
道を曲がると、肖像画の並んだ一角がある。刀亮や佐藤始といった、神君につき従った忠臣の絵がほとんどだった。
神君の周囲にいた人間はよく色々な絵に出てくるが、神君の肖像画は、今回ほとんどない。
神君を中心として、様々な偉人が集まった群れを国家は尊崇しているのである。パンテオンといってもいい。前世紀のはやった言葉を借りれば、それは『箱推し』といってもいいものだ。だが、そこには必ず取捨されるものがある――と克樹は考えざるを得ない。
正士郎がその一つ一つをじっくり鑑賞していると、克樹は横から、
「肖像画は、おすきですか?」
「え? まあ。人の顔を見るのは好きだ。一人一人の生きた軌跡がそこに刻み込まれ、無数の変化をもたらす。人の顔は苦手なんですけどね。だから今回のはとても時間がかかりました」
だがその話にあまり続けようとせず、克樹は言った。
「肖像画で描かれるのはどれも貴顕の士ばかりだ……」
あの時代、人々は自由に生きてよかった。かつてのしがらみから解放されて生きることができた。だが、それは必ずしも幸福をもたらさなかった。
自由のもとで思うがままに幸福を勝ち取れたのは結局ごく一部の人間だけで、望まずに自由にさせられた者たちはこれさえのっとればいいという規範すら与えられず、一層零落した。
近代とは基本的にそういう縮小の時代であり、そこでの発展とは究極的には破滅を意味する。
いつの時代も、結局は金と地位を兼ね備えた人間だけが社会を継承していく。
「ここにある肖像画はどれも一級の英雄ばかりで、一般市民の顔はどこにもない。後世の歴史家からすれば民衆の顔こそが貴重な資料なわけですが、それは偉い人たちの求めるものじゃない。どうせ彼らはありふれた存在だからそもそも残す必要性を感じないってわけです」
嘆くような克樹は言った。
正士郎は言った。
「そりゃあ、ここに展示されているのは国の偉さを見せつけるものなわけですから」
「民衆こそが偉いのだ、という考えが昔あったみたいですけどね。そう考える人たちにとっちゃ、ここにあるものは見向きする価値もないって所でしょう」
「ああ……両者の価値観はとても並立しそうにない」
克樹は、遠い時代に思いをはせる。
「いや、一昔前には民衆が実際に言動を通じて社会を動かしている時代はあったんですよ。SNSなんていったか。けど、それだって結局は企業によって制御され、彼ら自身の思想はその中で消え失せてしまった」
民衆の力。民衆の正義。
だがこの国では、そんなもの渡辺哲雄の大義に塗りつぶされてしまった。結局は、民衆自身ではなく、民衆が選ぶ英雄こそが大事なのだ。
いや、今も昔も『多くの人間』が力を持っていることは変わりない。ただ、供物を求める本能に誰が抗えるだろうか。神君は、まさにそれに完璧に応えて見せたのだ。その点において、超俗の怪物であったことに変わりはない。
最後の展示で二人を待ち構えていたのは、今の将軍哲勝の肖像だ。
灰色の柱に、褐色の壁を背景にして、席にどっかりと座る巨大な全身像が目を引いた。
哲勝は、肖像画の上では壮健な顔をしている。だが、以前テレビで見た時の彼は、弱々しさを隠すことができず、死相が見えていた。
あれほどの死線をくぐりぬけ、天寿を全うした神君の子孫には似つかわしくない顔だ。将軍の血を引いた人間はみな高貴なのだから、当然その体も健康であるはずだ、というような風聞が平気で巷でささやかれているが、血統と身体には何の関係もない。
だが、この血統を侮辱することは決して許されない。哲勝がどれだけ病弱であろうと、神君の子孫であることに変わりはない。
結局彼らはみな国民に『上に立て』と脅されている供物なのだろうと思うと、渡辺家の人間が、偉大とは全く思えなくなった。そして、彼らに仕える者たちもみな、大なり小なりその脅しに屈している者なのだ。
まさに、名族だ。
名族の時代。もはや栄達できる人間などもはや決まってしまっている。栄達できる身の上だとしても、実際に成功する者はごく少数。
克樹は、渡辺家からすでに色々と分家が出ていることを知っていた。その中から勢いをつけた人間が、あらたに渡辺家に取り入って一族を栄達へと導いていく。まさに源平藤橘の時代の再来。もはやこうなっては、国民の方から変化を起こすなどほとんどできなさそうに思える。すると克樹には、やはり彼らはただ求められるだけの供物ではなく、特権を振るって下の者たちをこき使っているのだ、という憤りが湧いて来た。
そして、展示の全体を見終わった。
今回見た作品は、前に比べると概して独創性に欠けるように思える。いくらプロパガンダとはいえ、五年くらい前はもう少し方向性が定まっていないがために街並みを活写したり、動物に人間の感情をこめて描写した物もあり、飽きなかったのだが。
正士郎はつまらなさそうに言った。
「たいして、目を引かれなかったようですね?」
「いや、そんなことはない」
克樹はやや大きな声で言った。侮辱とでも取られるような態度を、屋外で決して見せてはならない。
「彼らは偉大だ。まさしく、国の礎を作り出した方々なんですから」
芝居がかった言葉で、そう言った。
「ええ、国の礎ですよ。だが……それほど無邪気に称えられるものでもない。結局、前世紀の人間のしりぬぐいをした結果なんです」
正士郎の言葉には、はっきりとは言い難いためらいがあるように思えた。
正士郎は、それが間違っていることを理解してはいるのだ。だが、それを正すことを使命だとは思っていない。彼は自分に与えられた役職に満足しているのだ。
「今の時代こそがまともだったんですよ。前世紀はまともな時代ではなかった。大衆が生きる意義を見失わされ、その不安に目を付けた政治家や経済人が、思うがままに彼らを動かした。あれはひどい時代だった。とてもじゃないが、私にはあの時代がいいものだとは思えない」
「上の人間がだめだと下の人間もだめになりますからね」
「いや、問題はもっと複雑ですよ」 素直にはうなずかない。
「民衆の声は神の声です。それは人智では測りがたいものなんですよ」
「人智では測りがたいもの?」
正士郎は、考えこむようなしぐさをしたあと、
「人が何人も集まった時、もうそこには個々人とは関係のない意思が現れる。それを制御することなど誰にもできることではない」
それからやや間をおいて、
「だからこそ、上に立つ人間が必要になるわけです。集団のある所には必ずヒエラルキーが形成されてしまう。そして、それを支える集団そのものの意思は、誰のものでもない。自然現象のようなものなんです」
克樹は言った。
「人類史上、上下関係を伴わない社会構造はいくらでもありましたよ」
「ですが、それはごく一部の恵まれた地域でのみ成功したものにすぎません。そして、そういう気風すら、今の時代では一層実現しづらいものになってしまいました」
正士郎はどこまでも現実の厳しさに目を向けているのだった。
「君は、リアリストなんだね」
「ええ、そうでないと生き残れませんでしたから」 ああ、これでは説得できないな、と克樹は思った。
「君がそういうなら、反対はしない。じゃあ、また」
「では、お元気で」 どこまでも、現実的な距離感をとって彼は言った。
そして二人は別れた。
彼とは反対側の道を進む途中、何度も会話を反芻していた。
正士郎の言葉には確かに一理あった。
人類史上、永続した国家体制など一つもない。そして、そのどれもがいつまでも続く繁栄を願ってきたが、その夢をかなえることはなかった。
今の渡辺家の体制は、どれくらい続くだろうか。無論、そんなことは口にするのもはばかられることだが、しかし克樹には到底、そう長く続くものではないように思えた。破局とは大抵、安寧の中でくすぶり出すものだからだ。だが、その歪みが一体どこに潜んでいるかまでは、克樹には分からなかった。
21世紀が訪れた時、人々は20世紀とは違う時代になると期待していた。だが、実際には20世紀とは違う発端で、同じくらいひどいことが起きた。結局、社会は多数の人間には制御不能なものだ。
まだ最初の十数年を乗り越えたに過ぎない22世紀がどうなるかは分からないが……今のうちはまだましだろう。これからまた、どう転がるかわからないのだ。少なくとも、あの頃の繁栄を、どうやってあの頃の過ちを犯すことなく取り戻せるかが肝要なのだ。
克樹はもう帰宅するか、あるいはまた別の見物を見ていくか迷った。
その時に、向こうから一人の人間がやって来た。
白髪の覆い髪、十歳くらい歳の離れた男だ。克樹はその姿に見覚えがあった。
「世晴さん?」
「さっきからあんたと滝の会話を聞いていたよ。いつもあいつは自分の考えばかり優先して話す悪癖がある……」
街灯の光を浴びて、橘世晴の顔がよく見えてきた。彼の顔は、褐色だったが、一部東南アジアの雰囲気もあった。先祖はニューカレドニアから来たという。
「滝くんは昔からあんな奴なのさ。悪く思わないでくれよな」
一緒に街灯の側を歩くと、虫の羽音がよく聞こえた。克樹は正士郎との会話の大まかな内容を告げた後で、ぽろっと愚痴った。
「まるで僕が絵をつまらなさそうい見ている、なんて指摘されたあかつきにはひやっとしましたよ。創作者ってのはみんなあんな気難しいものなんですか?」
「そりゃこだわりってのがあるからな。それをつつかれるのは誰であれ気分のいいもんではないさ……」
物を作らない――強いて言えば文章を書く程度でしかない――克樹には、いまいちよくわからなかった。
「さあ、ちょっくら寄ってかないか。昨日飲んだ酒の酔いが覚めてきちまいそうなんだ」
世晴はこんなに酒の量が多かっただろうか、と克樹はうたぐった。きっと、
その酒屋は救国戦争後間もない時期に建てられ、さほど丈夫な建物ではなかったがこの時代になっても奇跡的に存続していた。郊外の旧市街にあり、観光で行くだけでは滅多に見つけられない地味な店ではあるが、そこなら都市の喧騒とも無縁でいられた。
二人は店の隅に座った。それまでに、正士郎との会話を思い出して、そのどれをどう伝えるかを克樹は必死で考えていた。そして先に口を開いたのは世晴の方。
「彼は、涼子夫人の絵を自慢していたか?」
「ええ、かなりの自慢作だったそうですよ」
師匠だけあって、弟子の作風には通暁しているらしく、
「ああ、あいつは細部の表情に凝るからな。意図を汲み取ってくれる何より喜んでくれるんだ」
「しかし、戦争の絵が今年は多いです」
壁には地図がかかっていた。世晴はそれを見やりながら、
「ああ、世界ではいつだって戦争が起きている。だが昔に比べると戦争が本当に起きているという感覚は乏しい」
そして頬杖をつきながら、
「昔に比べると何もかもが狭くなり、一方で外にある世界は広くなった。スマホが消え、インターネットが衰え、またもや紙と口コミの時代に逆戻りだ。今、戦争が起きているのに、それすらどこかおとぎ話のような気さえする」
「でも、現実に起きていることですよ。ラジオやニュース映画を見れば嫌でもそれが現実味を帯びてきます」
「ああ。現実のことではあるんだが、昔の方がずっと戦争は身近だった。何せ、戦争をしている当事者が情報発信していたんだ。あの頃の方が遥かに人間の生と死に敏感だったと思うね。だが、その絶望から心を守るためにかえって鈍感になり、残酷になる奴もまた多かった」
「当時の人々は、今よりもはるかにおおくの情報を得ていましたから、それで知らなくていいことを知ってしまって見知らぬ他者に攻撃的になることも多かったようですし」
うなずく世晴。
「だからこそ、今の方がましなんだ。他者を知りすぎることは憎悪を生む。ましてやそれがボタン一つで軽率に文章を送ることができたあの時代ならなおさらだ。あの時代は、人が生きていくには何もかもが進みすぎていた。そうやって快適さを追求しても、争いになるだけだとみんなが分かってしまった」
前世紀でヨーロッパはローマの崩壊に匹敵する社会的混乱を経験し、いまだにその余燼から抜け出せていない。社会を再構築するという至難の作業は、たかだか数百年で完了するものではないのだ。そしてそれは日本もまた同様である。
「でも、そうやって閉じこもっても結局他者に対する寛容さが成長するものなんでしょうか? 今だって戦時中なのに……」
世晴は分かってくれとばかりに腕を振るう。
「大事なのは理解じゃなくて誤解なんだよ。相手が話の分かる奴だと、似た価値観の人間だと思い込めるから仲良くできる。しかし……理解すればするほど、相手とは分かり合えないということが明らかになって戦わざるを得ない。それが今なんだ」
克樹は、前世紀において共感か理解か、どっちが人間に必要とされているかで紛糾したことを思い出した。そのどちらも、今となっては他人と向き合う最善の方法ではないように思える。だが当時の人々にとっては、結局岡目八目なのかもしれない。
「すべては、あの二百年を迎えないためさ。これからの二百年で、よりよい未来をつかみ取るためにね」
世晴にとって、他者と理解し合うことなど最初から必要なことではないのだろう。平和があればそれでいいのだ。
世晴と正士郎と会った後で、ようやく克樹は帰路についた。
今日、神君の像の前でどれくらいの人間が戦勝を祈っただろうか?
たとえ勝っても負けても国民に高揚感を与えるのは間違いない。かつて他国に死をまき散らした日本が他国のために戦ったという事実だけで感涙ものだろう。
家が見えてきたころで、スピーカーから一斉に、神君をたたえるよう命じる文句が町中へとどろいた。周囲には誰もおらず、勝手に歩いても咎められないだろうが、しかし惰性と恐怖から、彼は音声がやむまで恭しくその場にとどまった。
――もし、これも従う価値のない単なる雑音になったら?――とりとめのない空想には、抗いようがない。
左手には森が見える。かつて鳥居のあった場所に、哲雄像がある。漫然と歩いていると見逃がしそうなくらい、小さく質素な形だった。社殿はずっと前に撤去され、もう跡形もない。この像もまた、いつまで存続するのだろうか? ただ、その疑問を呈することが、命の危機に関わるのが今であり、百年前ではそうではないという違いだけが、唯一あの頃のまともな点かもしれなかった。
いずれにせよ、もはや個人で解決できる領分をこえたこと。軽く一礼をしてからそこを通り過ぎた。




