第2話 退院したなら帰ってください
あれだけの騒ぎがあった翌日なんだから、さすがに寝起き一発目から気分が重いかなと思っていたのに、目が覚めた瞬間に最初に浮かんだのは「店の前で人が倒れると、路地ってあんなに音が響くんだ……」という、そこなのかよと言いたくなる感想だった。
救急車のサイレンって近くで聞くと本当に嫌な音だし、パトカーの赤い光って、別に自分が悪いことしてるわけじゃなくても妙に心臓に悪いし、うちみたいな細い路地だと余計に逃げ場がなくて、電柱にも家の壁にも光がぺかぺか反射して、いつもの見慣れた景色が急に事件現場っぽく見えるから困る。
しかも、うちの店の前である。
何回思い返してもそこが最悪だった。
もし駅前の広い歩道とか、大きい公園のベンチとか、そういう「誰かが倒れていてもまあわからなくはない場所」だったら、たぶん私の気持ちはもう少し平穏だった。うちの店の前って、路地の途中の、壁と壁の間の、ちょっと奥まったところなのだ。倒れるにしても、どうしてそんなピンポイントで選んだのか問い詰めたい。
布団の中で一回だけごろっと寝返りを打ってから起き上がって、制服に着替えて、顔を洗って、朝ごはんの味噌汁をすすっている間も、頭の中にはストレッチャーで運ばれていく男の長い髪と、鞘に収まった刀の黒い光沢と、「かたじけない」という意味のわからない礼が、ずっと薄く残っていた。
あの人、結局何だったんだろう。
病院には運ばれた。警察にも話は行った。だからもう、うちに直接関わることはない。ない、と思いたい。思いたいんだけど、何しろ最初から最後まで普通じゃなかったせいで、「はい解決しました」で頭から追い出せる種類の出来事じゃなかった。
お母さんは朝から「ご近所に変な噂になってなければいいけど」とぼやいていたし、お父さんは「身元わからなかったらしいぞ」としか言わなかった。身元がわからないってさらっと言ってたけど、そこ結構怖いからね。だって、店の前で倒れてた人が誰なのか、どこから来たのか、どうしてあの格好なのか、誰もわからないってことでしょ。ミステリーの導入としては強いけど、現実でやられると全然ありがたくない。
学校へ向かう途中も、なんとなくスマホを開いて「近所 不審者」「袴 刀 保護」みたいな検索をしてみたけど、それっぽい情報が出るわけもなく、そもそも出たら出たで嫌だったから三十秒くらいでやめた。
教室に入ると、いつも通りの空気がそこにあって、黒板には日直の字で今日の予定が書いてあって、後ろの席の子が眠そうに机に突っ伏していて、窓際では朝から元気なグループが笑っていて、ついさっきまで路地で救急車の光景を思い出していたことが、別世界みたいに感じた。
こういうとき、学校ってすごい。何があっても平然といつもの時間が流れている。誰かが大事件の真ん中にいても、教室に入った瞬間に「一時間目英語かあ」っていう現実が待っている。私も席に座って鞄を置いたら、とりあえず机の上にスマホを伏せて、深呼吸して、できるだけ普通の顔をした。
普通の顔をしたつもりだった。
「何その顔」
斜め前の席に座った真希が、開口一番そう言った。
すごいなこの子。三秒で見抜くじゃん。
「どの顔」
「寝不足か、変な夢見たか、家で面倒あったかの三択みたいな顔」
「雑な占い師みたいなこと言わないで」
「当たってるの」
「半分くらい」
「半分ってどこまで」
真希は椅子ごとこっちを向いた。こうなるともう逃げられない。しかも、この子は私が黙れば黙るほど面白いことがあると思って食いついてくるタイプだ。どうせ隠しきれないなら、先にこっちのペースで話したほうがまだましである。
私は机に肘をついて、小声で言った。
「昨日、うちの店の前で変な人が倒れた」
「は?」
予想通りの反応だった。
その一文字に、驚きと興味と「何それ詳しく」が全部詰まっていた。
「変な人って何。酔っ払い?」
「最初はそう思ったんだけど、全然違った」
「じゃあ?」
「コスプレイヤーっぽい人」
「っぽいって何」
「袴着てた」
「え、何それイベント帰り?」
「私も最初そう思った」
「で、倒れたの?」
「倒れた。しかも店の前で」
「何で店の前」
「知らないよそんなの」
私が言うと、真希は吹き出しかけて口を押さえた。
「いやごめん、笑っちゃだめなんだろうけど、店の前で袴の人が倒れる絵面ちょっと強すぎる」
「強いよ。私だって昨日からずっとそれ思ってる」
「しかもコスプレイヤーってことは、ちゃんとそれっぽい感じだったの?」
「それっぽいどころじゃなかった。むしろ、ちゃんとしすぎてて怖かった」
「何それ」
「髪も長いし、着方も妙に自然だし、刀持ってた」
「刀」
「うん」
「おもちゃ?」
「そこがわかんないんだけど、見た感じ本物っぽく見えた」
「やば」
真希の声が半分に下がる。さすがに「刀」という単語には反応するらしい。
「警察来たの?」
「来た。救急車も来た」
「え、結構な騒ぎじゃん」
「結構どころじゃないよ。路地がプチパニックだった」
「近所の人出てきた?」
「カーテンがめっちゃ動いてた」
「やだ最悪」
「ほんとに最悪」
ここまで話したところで、隣の席の美緒まで「何、何の話」と乗ってきた。情報伝達の速さがクラス内SNSみたいだなと思う。発信源一人なのに、気づいたら半径二メートルに共有されている。
「鈴香の店の前で、刀持ったコスプレイヤーが倒れたらしい」
真希が要約すると、情報の密度がおかしい。
「盛り方やめて」
「盛ってないじゃん。事実じゃん」
「語順が怖いの」
美緒は目を丸くして私を見た。
「え、コスプレって何の? 侍?」
「たぶんそう」
「たぶんって」
「本人に聞いてもよくわからなかった」
「会話したの!?」
「したっていうか……私が声かけたら、反応して」
「何て言ったの」
私は一瞬ためらった。ここで言うのちょっと恥ずかしい気がしたけど、隠したところでどうせこの話の核はそこだ。
「……『拙者に、何か用でござるか』」
一拍あって、真希と美緒が同時に机に突っ伏した。
「無理無理無理無理」
「ござる!? リアルござる!?」
「私もそうなった」
「いるんだ、現代にござるの人」
「いや、たぶん普通はいない」
「コスプレの徹底ぶりすごすぎない?」
「そこなの」
私は思わず身を乗り出した。
「そこなんだよ。普通、コスプレって見た目だけじゃん。口調までやる人もいるかもしれないけど、臭いまではやらなくない?」
「臭い?」
真希が顔を上げた。
「そう。めちゃくちゃ臭かった」
「待って、そこの情報いちばん強い」
「ほんとに強かった。汗と土と、何日洗ってないのって感じの」
「うわ」
「再現度が高いとかいうレベルじゃない」
「嫌すぎる」
「しかも汚れ方も、コスプレの汚し加工みたいな綺麗さじゃなかったんだよね。普通に生活で積み上がった汚れって感じで」
「それもうコスプレじゃないのでは」
「そこがわからない」
私は机の端を指でとんとん叩いた。
「ただのコスプレイヤーなら、クオリティ高いなで終わるんだよ。イベント帰りとか、撮影帰りとか、そういう可能性もあるし。でも、あんな臭いをわざわざ再現する意味がわからないし、店の前に二日連続でいる意味もわからないし、そもそもあのやつれ方で刀持って『ござる』って、何をどう整理すればいいのか全然見えてこない」
「二日連続?」
美緒がそこに食いついた。
「え、昨日だけじゃなかったの?」
「最初に見たのはその前。夜に戸締りしてたら、もう座ってた」
「それ怖いって」
「でしょ」
「それならもっと早く通報案件じゃん」
「そう思うでしょ。私も今ならそう思う」
「今ならって何」
「その時は、酔っ払いかなと思ったんだよ」
「袴の酔っ払い」
「そこだけ切り取ると強いけど」
真希が笑いながら言った。
「でもさ、鈴香の店のラーメンの匂いに釣られてきた腹ペココスプレイヤー説とかない?」
「ないと思いたい」
「だって店の前で二日って、そこにいる理由ほしくない?」
「理由はほしいよ。私も」
「で、病院運ばれて終わり?」
「たぶん」
たぶん、と言った瞬間、自分でもその曖昧さが気になった。
たぶん。
本当に、たぶんでしかない。
警察が来て、救急車が来て、運ばれていった。普通ならそれで終了だ。終了のはずだ。なのに、あの男の人の顔とか声とか、変に整った姿勢とか、刀に触れようとした手つきとかが、頭の片隅から離れない。
真希がにやっとした。
「鈴香、ちょっと気になってるでしょ」
「嫌な意味でね」
「美形だったとか?」
「何でそうなるの」
「だって今、顔微妙って言わなかったし」
「そこは、まあ……思ったより若かったし、顔は整ってたけど」
「ほら!」
「ほらじゃないって。汚いし臭いし怖いし意味不明だし、顔が良いことでプラスになること一個もないから」
「物語だったら一個くらいある」
「現実なのでありません」
そこでチャイムが鳴って、話は一旦切れた。先生が入ってきて、教科書を出して、朝の教室がいつもの授業の空気に切り替わる。私はノートを開いたけど、心のどこかではまだ、真希の「腹ペココスプレイヤー説」がしつこく引っかかっていた。
腹ペコ。
その言い方はふざけていたけど、実際、あの人は何日もまともに食べていない感じだった。頬がこけていて、腕も細くて、倒れ方に変な必死さがなかった。踏ん張りきれなくなって、そのまま落ちた、みたいな倒れ方だった。
いやいや、だから何だって話なんだけど。
私が気にしたところで事情なんてわからないし、たぶん病院か警察の人がちゃんと面倒を見る。高校生がそこに首を突っ込む必要はない。必要はないし、むしろ首を突っ込んだら危ない側の案件である。
そこまで考えてから、私は無理やり気持ちを切り替えた。
あの人のことは一旦脇に置く。
今日考えるべきことは、もっと目の前にある。
営業だ。
うちの店の営業。
売り上げ。
客数。
回転率。
最近の私は、そのへんを地味に気にしていた。
もちろん高校生だから、帳簿を全部管理してるわけじゃないし、経営を本格的に背負ってるわけでもない。でも、店に毎日いると、忙しい日と静かな日の差とか、常連さんの年齢層とか、新規のお客さんの入り方とか、嫌でも見えてくる。昔からのお客さんに支えられているのはわかる。わかるけど、そのままで十年後も大丈夫かと言われたら、そこは何とも言えない。
お父さんは「変わらない味が大事なんだ」と言う。
それは本当にそうだと思う。
うちの中華そばは、流行りの尖ったラーメンとは違うけど、食べ終わった後にまた来たくなる力があるし、常連さんが長く通ってくれる理由もそこにある。だから、無理に映えとか奇抜さを狙うべきじゃない、というのは私にもわかる。
わかるんだけど、若い人が入りにくい空気まで守る必要はないんじゃないか、とも思う。
外から見て何の店かわかりづらいとか、メニューが保守的すぎるとか、写真を撮りたくなる一皿がないとか、そういうところは工夫の余地があるはずなのだ。
私は最近、自分なりにいろいろ考えていた。
店のアカウントを作って、無理のない頻度で写真を上げること。
限定メニューをいきなり派手にやるんじゃなくて、まずは既存の味を活かしたミニサイズのセットとか、放課後に寄りやすい価格のサイドメニューとかを考えること。
若い子が一人でも入りやすいように、「初めての人向け」みたいな説明を出すこと。
昔ながらの店って、それだけでハードルになることがある。常連さんばっかりだったらどうしようとか、作法があるんじゃないかとか、勝手に緊張する人もいる。そのへんを柔らかくしたかった。
最初にその話をお父さんにしたときは、案の定あまりいい顔をされなかった。
「ラーメン屋はラーメンで勝負すりゃいいんだ」
そう言われた。まあ、言うと思った。
でも、そのあとで私が「私、本気で継ぎたいと思ってるから言ってるんだけど」と口にしたら、お父さんはちょっと黙った。あの沈黙を今でもしっかり覚えてる。驚いた顔をしていたわけじゃない。たぶん、知ってはいたんだと思う。私が軽い気持ちで手伝ってるんじゃないことも、店のことをちゃんと見てることも、前からわかっていたはずだ。ただ、私のほうから言い切ったのが初めてだったから、そこで初めて言葉として受け取った、みたいな顔をしていた。
それ以来、お父さんは全面的に賛成ではないけど、前よりは「好きにやってみろ」と言うようになった。
すごく前向きな応援って感じではない。
お父さんの「好きにやってみろ」は、半分くらい「どうせ簡単じゃないってわかるだろ」の意味も入ってると思う。
それでも、反対されるよりずっといい。
だから私は、学校の休み時間にもノートの端に新メニューの案を書いたり、他の店のSNSを見て「この見せ方いいな」と思ったものをメモしたりしていた。
今日も授業の合間に、ルーズリーフの端へこそこそと書きつける。
《放課後限定・半らーめん+小さめ炒飯セット》
《味玉ハーフ+ミニ杏仁 女子向け?》
《昔ながらの中華そば写真、湯気わかる角度》
《店前の看板、もう少し見やすく?》
文字にすると雑だなと思う。でも、雑でも書いておくと少しずつ形になる。形になれば、お父さんに見せる材料にもなるし、お母さんに相談もしやすい。
授業が終わって帰り支度をしながら、真希がまた声をかけてきた。
「今日、店大丈夫そう?」
「何が」
「袴の人リターンズ」
「やめて」
「いないといいね」
「いてほしくない」
「でもちょっと見たい」
「最低」
「だって『拙者に何か用でござるか』の人でしょ」
「語尾だけで興味持たないで」
「鈴香がまた遭遇したら、絶対報告して」
「遭遇したくないから」
笑いながらそう返して、私は鞄を肩にかけた。
教室を出て、階段を降りて、昇降口で靴を履き替える。その一連の動きの中で、私はもう気持ちを店モードに切り替えていた。今日のスープの残り具合とか、夜の客入りとか、試しに写真を撮るならどの時間がいいかとか、そういう現実的なことで頭を埋める。
家に帰る、というより、店に戻る、の感覚のほうが強い。
私の家は『やま虎』の二階で、放課後にまっすぐ向かう先は、結局いつもあそこだ。
路地に入る手前で、私は何となく足を速めた。いちばんに帰って、制服のままでもいいから、まずは店先を見て、昨日の騒ぎの痕跡が変に残っていないか確認したかった。救急車が入ったことで、ご近所に何か言われていないかも気になるし、できれば今日は何事もなく営業に入りたい。
そんなことを考えながら角を曲がって、うちの店の暖簾がまだ出ていない入口の前を視界に入れた、その瞬間だった。
いた。
いたのである。
私は足を止めた。
止まるしかなかった。
昨日、うちの店の前で倒れて、救急車で運ばれて、たぶん病院かどこかで保護されているはずの、あの謎の男が、何の説明もなく何なら「待っておりました」みたいな顔でうちの店の軒下に立っていた。
立っていた、というのがまず驚きだった。
昨日は座り込んでいたし、ほぼ気絶状態みたいなものだったのに、今日はちゃんと立っている。立っているけど、元気そうかと言われると全然そんなことはなくて、やっぱり顔色は悪いし、頬はこけているし、着ているものも相変わらず汚れているし、髪も相変わらず長くて乱れているし、清潔さの概念は今日も行方不明だった。
それでも、昨日よりは明らかに意識がはっきりしていた。
背筋が伸びている。
立ち方が妙にまっすぐだ。
軒下に立っているだけなのに、待ち合わせの相手じゃなくて、門前に控える何かみたいな空気がある。現代日本の路地に全然馴染んでいないのに、その場に立っていること自体には妙な迷いがないから、よけいに腹が立つ。
何でいるの。
本当に何でいるの。
私は三秒くらい無言で固まったあと、思わず言った。
「えっ」
間抜けな声だった。
男の人は私に気づくと、すっと顔を上げた。その動きがまた変に静かで、道路脇で待ってる不審者の反応じゃないのだ。もっと別の、昔の作法みたいなものが混ざっている。
「おお」
おお、じゃない。
何その、知ってる人に会えたときの安心した顔。
「きのうの……」
私が言いかけると、男の人は深く頭を下げた。
びっくりするくらいちゃんとした礼だった。軽く会釈、みたいなものじゃない。腰から折るみたいに頭を下げる。しかもその姿勢が綺麗すぎて、逆に怖い。
「昨夜は、命を拾うた。礼を申し上げたく、待っておった」
待っておった。
やっぱりその言い方なんだ。
しかも内容が重い。
「いや、ちょっと待って」
私は反射で片手を出した。
「何でいるんですか」
そこからである。礼とか命とか、そのへんは後回しだ。まずそこを片づけたい。病院にいたんじゃないの。警察は。保護は。説明は。
男の人は少し首を傾げた。
「何で、とは」
「いや、何でここにいるんですか。昨日、救急車で運ばれましたよね」
「運ばれた」
「じゃあ病院ですよね」
「そのような場所に連れて行かれた」
「そのような場所って」
「白き壁に囲まれ、薬の匂いのするところであった」
「病院です」
「左様か」
「左様か、じゃなくて」
会話が一往復ごとに疲れる。
私はじっと男の人を見た。昨日よりは少しだけ顔色がましに見える。見えるけど、それでも本調子には程遠い。むしろ、無理やり立ってここまで来た人の顔だ。
ふと気づいて、私は辺りを見回した。
刀は。
刀がない。
少なくとも見える位置にはなかった。昨日みたいに肩にも立てかけていないし、腰にも差していない。そこにちょっとだけ安心してから、別の不安が湧く。病院か警察に預けたのか、それともどこかに隠してあるのか。後者だったら嫌だなと思った。
「病院から来たんですか」
「うむ」
「……まさか」
嫌な予感しかしなかった。
「抜け出したとか言わないですよね」
男の人は、ほんの少しだけ間を置いた。
その間が嫌だった。
ものすごく嫌だった。
「目が覚めた折、見知らぬ者どもが拙者の身のまわりを探り、衣を改めさせようとしていたゆえ、ここは長居すべきでないと判断した」
「抜け出してるじゃないですか!」
路地に私の声が響いた。
通行人がいなくてよかった。本当によかった。
「何してるんですか!?」
「捕らえられたのではないのか」
「保護です!」
「ほご」
「助けてもらったんです!」
「……成る程」
「成る程じゃないんですよ!」
もうやだ。
頭が痛い。
昨日、店の前で倒れた不審者が、保護先の病院から勝手に抜け出して、うちの軒下で待っている。文章にすると意味がわからないし、現実で見ても意味がわからない。
しかもこの人、悪気が薄い。
悪意でやってるなら怒りやすいのに、価値観がズレすぎてて説明に手間がかかるタイプだから、余計に厄介だった。
「いや、だめでしょ。勝手に出てきたら。連絡とか、いろいろあるでしょ」
「連絡」
「家族とか」
「家族はおらぬ」
「え」
「少なくとも、この辺りには」
その言い方が引っかかった。少なくとも、この辺りには。何その含みのある言い方。
「じゃあ、友達とか」
「……おらぬ」
即答だった。
それはそれで重い。
「住んでる場所は」
聞きながら、自分でも嫌な気分になる。こういう質問って、たぶん、されたくない人はたくさんいる。けど、目の前の人が店の前に居座る可能性を考えたら、確認しないわけにもいかない。
男の人は少しだけ視線を落とした。
「ない」
「ないって」
「定まった寝所はない」
「ホームレスってことですか」
口にしてから、直球すぎたかなと思った。けれど男の人は特に怒る様子もなく、むしろ少し考えるようにして言った。
「ほおむれす、という言葉は知らぬ。されど、今の拙者を指すなら、たぶんそのようなものなのであろう」
自覚あるんだ。
あるのかないのか、よくわからないけど。
私は額を押さえたくなった。
「とにかく、ここにいたら困るんです」
「困る」
「うち、店なんで」
「知っておる」
「昨日も言いましたよね」
「うむ」
「何でまた来たんですか」
そこを聞くと、男の人は本当に不思議そうな顔をした。そこを不思議そうにされると、逆にこっちが不安になる。
「礼を言うため」
「それだけで?」
「それだけではない」
ほら来た。
何かある。
私は反射で一歩だけ身構えた。逃げるほどじゃないけど、近づかれたくはない距離を取る。男の人はそれに気づいたのか、こちらへは寄ってこなかった。そこは偉い。偉いけど、根本の問題は何も解決していない。
「昨夜、この店の前に身を寄せておったのは」
「うん」
「このあたりに、ひどく美しい匂いが満ちていたからだ」
「……はい?」
「腹の底まで届くような、よき香りであった。鶏か、豚か、乾き物か、すべてはわからぬが、湯気の立つ匂いがしていた。長く歩いておるうち、あれに引かれてここまで来た」
私はしばらく言葉を失った。
この人、真顔で何を言ってるの。
美しい匂いって。
香水の話みたいに言うな。
それ、うちのラーメンのスープだよね?
間違いなくそうだよね?
いや、わかるよ。いい匂いだよ。自分の家の匂いだから慣れてるけど、仕込みの時間帯に外へ出ると、お腹空いてなくても「あ、食べたい」ってなるくらい、うちのスープの匂いは強い。強いけど、普通それをそんなふうに表現する?
「匂いに……釣られて来たんですか」
「釣られた、とは少し違う」
「でもそんな感じですよね」
「否めぬ」
「否めないんだ……」
何なんだろうこの会話。
ただ、そこで変に納得してしまった自分もいた。店の前に二日いた理由として、「ここにいたらいい匂いがするから」は、情けないけど一応の筋は通る。通るけど、それで居座っていい理由にはならない。
「それならなおさら、普通に食べに来ればよかったじゃないですか」
私が言うと、男の人は少し黙った。
その沈黙に、嫌な種類の現実が混ざっている気がした。
「……銭がなかった」
小さな声だった。
私は喉の奥で言葉がつかえた。
ああ、そっちか。
まあ、そりゃそうか。
見るからにお金持ってなさそうではあった。いや、なさそうどころじゃない。昨日の状態を思い返したら、財布を持っているかどうかすら怪しい。病院から抜け出してきた時点で、たぶん手ぶらに近いんだろう。
私は反射で警戒心を緩めかけて、慌てて戻した。
だめだ。そこで情に流されたら終わる。こういうのは勢いで「じゃあ一杯くらい」って言った瞬間に、いろんなことが崩れる気がする。
「だからって店の前に二日いるのは怖いです」
「……すまぬ」
「それはそう」
素直に謝られると、怒りが続かない。いや、続かない自分がよくない気もする。
男の人は、頭を下げたまま言った。
「迷惑をかけるつもりはなかった。香りの届くところにおれば、少しは気が紛れるかと思うた」
「そんな切ない目的で店前に定住しないでください」
思わず本音が出た。
男の人がゆっくり顔を上げる。そこで初めて、私は昨日よりはっきりとその目を見た。澄んでいる、という表現はやっぱりちょっと違う。もっと、変に余計な濁りがない目だった。疲れてはいるし、体調も悪そうなのに、見ているものだけは妙にまっすぐ拾う感じがある。
「定住」
「そこは気にしないでください」
「心得た」
絶対心得てない。
私はため息をついた。
「というか、病院から勝手に出たなら、探されてるんじゃないですか」
「たぶん」
「たぶんじゃなくて」
「起きた折、あれこれ問われた」
「当然です」
「名を名乗れ、どこから来た、何歳だ、何でそのような格好だと」
「当然です!」
「どれも、まことを申しても信じぬ顔をされた」
「そりゃ……」
そこはちょっと想像がついた。
この人が、あの口調とあの格好で、病院の人に向かって何をどう説明したのか。想像するだけで胃が痛い。
「何て答えたんですか」
「榊原玄之介と申す、歳は三十八、備中より西の生まれ、江戸末の者なり、と」
「終わってる……」
私はその場で小さくうずくまりたくなった。
「それは信じられないです」
「であろうな」
「であろうな、じゃなくて」
「拙者もそう思う」
「自覚はあるんですね」
「ある」
そこはあるんだ。
男の人――榊原玄之介と名乗ったその人は、ごく真面目な顔で立っていた。冗談を言っているようには見えない。人をからかって遊ぶタイプの視線でもない。本気でそう言っている。しかも、その本気が変にぶれないから厄介なのだ。
江戸末の者なり、って何。
何でそんな設定を病院で貫くの。
いや設定っていうか、本人的には設定じゃないのかもしれないけど、現代社会においては完全にアウトである。
「それで、抜け出したんですか」
「このままでは、どこぞへ閉じ込められるやもしれぬと思うた」
「そういうところだよ……」
保護と拘束の区別がついてない。
いや、時代感が違うなら無理もないのかもしれないけど、そんなことを私が理解し始めたら危ない。危ない方向へ納得しそうになる。
「えっと、整理しますね」
私は指を折った。
「昨日、うちの店の前で倒れた」
「うむ」
「病院に運ばれた」
「うむ」
「起きた」
「うむ」
「病院の人に事情を聞かれた」
「うむ」
「本当のことを話した」
「うむ」
「信じてもらえなかった」
「うむ」
「抜け出した」
「うむ」
「それで、礼を言うためにうちへ来た」
「うむ」
「ついでに匂いに引かれていた」
「うむ」
「やっぱり帰ってください」
結論はそれだった。
玄之介は少しだけ目を伏せた。
「それは、もっともである」
そこもちゃんとわかるんだ。
わかるのにここまで来たんだ。
ほんとに何なのこの人。
「帰る場所、ないんですよね」
「ない」
「じゃあ、どこ行くんですか」
「さて」
「さて、じゃ困るんですってば」
さっきからずっとそれしか言ってない気がする。でも本当に困るのだ。路地でこんな長話をしている時点で、近所の人に見られたらまた面倒だし、病院から抜け出してきた身元不明の男を店の前に立たせておくなんて、それだけで危険すぎる。
玄之介は少し考えてから、信じられないことを言った。
「働かせてもらえぬか」
「は?」
「飯と、雨露をしのぐ隅と引き換えに、薪割りでも掃除でも、荷運びでも何でもいたす」
「薪ありませんけど」
反射でそこを突っ込んだ自分に呆れる。
そこじゃない。
何で働く話になるの。
「いやいやいや、無理です無理です」
「そうであるか」
「そうです」
「拙者、包丁は扱える」
「もっと危ないです」
それは本当にやめてほしい。
何かの間違いで厨房に立たれたら、うちのラーメン屋が時代劇の現場になる。
「火の番もできる」
「消防法とかあるので」
「しょうぼうほう」
「説明が長くなるから今はいいです」
私は頭を抱えそうになった。会話の端々に、いちいち現代とのズレが挟まるせいで、真面目に断っているはずなのに、どこか噛み合わないコントみたいになっている。
「とにかく、うちじゃ預かれません。私一人で決められることじゃないし」
「店主殿に願えばよいか」
「やめてください」
「なぜ」
「お父さん、絶対に警察呼ぶから」
「それは困る」
「でしょうね!」
玄之介は眉を寄せた。初めて少しだけ困った顔をした気がする。昨日は衰弱しすぎて表情が薄かったから、今日のほうがいろいろ見える。困った顔をしていても、根が真面目すぎるせいか、何かを企んでいる感じはまったくない。
そこがまた困る。
あからさまに危険な人なら、もっと簡単に拒絶できるのに。
「では、せめて礼だけでも受け取ってもらいたい」
「礼はもう聞きました」
「言葉だけでは足りぬ」
「いや足りる足りる」
「足りぬ」
「何でそこで頑固なんですか」
「命は重い」
真顔で言われると、こっちの勢いが削がれる。
玄之介はほんの少しだけ、視線を店の入口へ向けた。暖簾はまだ出ていない。開店準備の時間までは少しある。中からは物音がしていて、お母さんかお父さんが何かしている気配がする。
「ひとつ、願いがある」
「まだあるの?」
「匂いを、もう少し近くで嗅いでもよいか」
「変質者の発言なんですよそれ」
私は思わず真顔になった。
匂いを近くで嗅ぎたいって、言い方がまずい。ラーメンのスープのことだとわかっていても、言葉だけ切り取るとかなりだめである。
玄之介は本気でわかっていなさそうな顔をした。
「へんしつしゃ、とは」
「今は気にしないでください」
「また心得てよいのか」
「できればちゃんと心得てください」
もうだめだ。このままここで話していても、会話が堂々巡りになる。しかも、玄之介がここに立っている時間が長いほど、店にとっても私にとってもよくない。何より、病院から抜け出してきたという事実が重すぎる。
私はスマホを握った。
「病院、連絡します」
玄之介の目が少しだけ細くなる。
「通報ではなく、連絡であるか」
「そこに妙なこだわり持たないでください」
「おぬしは、拙者を売るのではないのだな」
「売るって何」
「役人に突き出すのではなく」
「言い方!」
それ、本当にやめてほしい。路地でそんな会話してるの聞かれたら、完全にこっちが何かやばいことしてる家になる。
「違います。保護してくれたところに戻ってもらうだけです」
「また白き壁のところへ」
「病院です」
「病院は苦手だ」
「私だって好きじゃないです」
「薬の匂いがする」
「病院だからね」
「肌着のようなものに替えられそうになった」
「患者さんだからですよ!」
つらい。
笑ってる場合じゃないのに、会話の異物感が強すぎて、変なところで力が抜ける。
私は息を整えた。
「玄之介さん」
「げんのすけ、でよい」
「そこはいいです」
「左様か」
「よくない、よくないんだけど、今はいいです」
だめだ。ペースを握られている。名前の話じゃない。
「とにかく、ここにいても解決しません。お礼はわかりました。匂いの話もわかりました。だから、もう一回ちゃんと助けてもらってください」
玄之介はしばらく黙っていた。
風が少し吹いて、軒先の小さな紙が揺れた。路地の向こうから自転車のベルの音がかすかに聞こえる。そんな普通の夕方の音の中で、この人だけが本当に異物だった。
「おぬしは」
玄之介が、低い声で言った。
「不思議な娘であるな」
「何がですか」
「おびえておるのに、追い払うだけでは済まさぬ」
言われて、私はむっとした。
「別に優しくしてるわけじゃないです。店の前にいられると困るだけです」
「その困るの中に、幾つか別のものが混じっておる」
「ないです」
「ある」
「ないですってば」
こういうところだけ妙に鋭いの、ほんとに腹立つ。
私は顔をしかめた。
「それより、昨日の刀はどこにやったんですか」
「預けた」
「どこに」
「白き壁のところに置いてきた」
「病院に?」
「たぶん、しかるべき者の手に渡ったであろう」
そこはちょっと安心した。少なくとも今ここで刀を抜かれる心配はない。抜かれても困るし、抜かなくても困るけど、ないよりはあったほうがいい。いや逆だ。なかったほうがいい。
「じゃあなおさら戻ってくださいよ」
「……おぬしがそう言うなら」
その返事が思ったより素直で、私は少しだけ拍子抜けした。
「ほんとに?」
「ほんとに、とは」
「いや、また途中で逃げないですよね」
「逃げぬ」
「約束できます?」
「約束する」
その言い方に、妙な重みがあった。軽く「はいはい」って流す感じじゃない。昔の人みたいな、約束そのものに重さを置く発音だった。
だからなのか、一瞬だけ信じそうになった。
そこで店の中から、お母さんの声が飛んだ。
「鈴香ー? 帰ったなら手ぇ洗って降りてきなさいよー!」
終わった。
見つかった。
いや、見つかってはいないかもしれないけど、すぐそこに家族がいるという現実が、急に目の前へ戻ってきた。
私は玄之介を見た。
玄之介も店のほうを見た。
嫌な沈黙が流れる。
「……頼むから、静かにしてくださいね」
私は小声で言った。
何で私が犯罪者みたいな指示を出してるんだろう。
玄之介はこくりとうなずいた。
「心得た」
今度こそ本当に心得ていてほしい。
私は急いで店の戸を少し開けて、「今行く!」と中へ返した。そのまま閉める直前、玄之介のほうを振り返る。
まだいる。
当たり前だけどいる。
この人を路地に置いたまま中に入るの、すごく嫌だ。
でも、店の手伝いを放り出すわけにもいかない。頭の中で警報みたいにいろいろ鳴っているのに、現実は容赦なくいつもの時間を進めてくる。
「絶対、そこ動かないでください」
私が言うと、玄之介は真面目な顔で答えた。
「承知した」
「勝手に消えないで」
「承知した」
「誰か来ても変なこと言わないで」
「……努める」
「そこは断言して!」
もう本当に嫌な予感しかしない。
私は戸を閉めて、背中を預けるみたいに一瞬だけその場に立った。心臓が変な打ち方をしている。昨日の騒ぎがまだ終わっていなかったどころか、たぶん今から本番なのかもしれない、というとても嫌な確信が胸のあたりで膨らんでいた。
店の奥からお母さんが顔を出す。
「何してるの」
「……ちょっと、外に問題が」
「また?」
「またって言わないで」
お母さんが眉をひそめた。
「何なの」
私は少しだけ迷った。迷ったけど、ここで黙っていてもどうせすぐバレる。隠しきれる相手じゃない。匂いに引かれて再来店した病院脱走ホームレス侍なんて、隠せるスケールを超えている。
私はゆっくり言った。
「昨日の人が、戻ってきた」
お母さんの顔が止まった。
「……は?」
「しかも病院、抜け出してきたっぽい」
「はあ!?」
店の奥から、お父さんの「何だって?」という声まで飛んでくる。
私は目を閉じたくなった。
ああもう。
今日の営業、絶対に普通じゃ終わらない。




