第3話
浪花食い倒れ歳時記:梅の屋・三月(弥生)の章
―― 芽吹きの喜び、桜鯛と「若牛蒡」の邂逅、そして再生の物語 ――
三月は、大阪の街が「色」を取り戻す月。
凍てついていた東横堀川の川面が温かな光を跳ね返し、船場の軒先には、どこからともなく飛んできた沈丁花の香りが漂い始めます。
そして何より、草木がいよいよ生い茂ることを意味する「いやおい」から転じた、生命の力そのものを表す名。
梅の屋の三月、その厨房を支配するのは、厳しい冬を乗り越えた者だけが手にできる「再生の歓喜」にございます。
指南の第一は、海からの使い、浪花の王・桜鯛との対峙。
信吉が雑喉場から運んできたのは、産卵を控え、その身に桜の花びらを散らしたような美しい紅を宿した、不屈の鯛。
「梅子、この鯛の目を見てごらん。冬の荒波に揉まれながらも、春を信じて泳ぎ抜いた誇りが宿っている。この命を頂くときは、私たちもその誇りに応えなきゃいけないんだ」
源蔵の言葉を受け、私は信吉からもらった、今や針のように鋭くなったあの包丁を手に取ります。
三月の鯛は、身を殺してはいけません。
包丁を入れるというより、鱗の一枚一枚、身の一筋一筋に、春の光を通していくように。
透き通るような白身を引き、そこに道修町の清らかな水で晒した「若牛蒡」を合わせるのです。
指南の第二は、土からの叫び「若牛蒡(葉ごぼう)」の目覚め。
大阪の春を告げるこの野菜は、根も茎も葉も、すべてを頂く「始末」の結晶。
「三月の料理は、土の香りを忘れないこと。若牛蒡の独特の苦味は、冬の間に眠っていた身体の血を、一気に巡らせるための『目覚め薬』なのです」
お菊の指南通り、私たちは若牛蒡を丁寧に洗い、その瑞々しい香りを逃さぬよう、手早く刻みます。
若牛蒡のシャキシャキとした食感と、桜鯛のねっとりとした甘み。
この相反する二つが出会うとき、厨房には、雪解け水が岩を叩くような、清冽な生命の音が響き渡るのです。
指南の第三は、火と出汁の「呼吸」。
三月の出汁は、一月の厳格さとも、二月の重厚さとも違います。
ふわりと鼻を抜けるような、軽やかな「春の香出汁」。
真昆布の底に、ほんの少しだけ、昨年の春に塩漬けにしておいた桜の花びらを沈めます。
そこに桜鯛の身をくぐらせ、若牛蒡と共にさっと炊き上げる。
煮込みすぎてはいけません。
素材が「私は今、一番輝いている」と叫ぶ瞬間に、火を止めるのです。
その繊細な火加減を司るのは、松子と竹子の、阿吽の呼吸。
やがて、お椀の中に、薄紅色の鯛と、鮮やかな緑の若牛蒡が、春の庭園のように美しく整えられます。
そして、指南の極み、梅の屋・三月の「魂の仕上げ」。
完成した一椀の真ん中に、私は、春の嵐を鎮める祈りの如く、ひと際 鮮やかに刻んだ「紅生姜」を添えます。
この紅は、三月の桜をより一層引き立てる、大阪の女の「情熱の赤」。
一口啜れば、桜鯛の誇りが舌を包み、二口啜れば、若牛蒡の苦味が魂を揺さぶり、三口啜れば、紅生姜の香りが、「瑞々しき春」を、身体の隅々にまで届けてくれる。
「……ああ、今年も春が来た。また、ここから始められるわ」
そう言って、店の暖簾を見上げる人々の顔が、桜色に染まる瞬間。
それこそが、梅の屋が三月に捧げる、至高の「再生の儀式」にございます。
三月は、冬への別れを告げ、未知なる明日へと漕ぎ出す月。
凍えていたすべてが解け出し、新しい花が咲き始めます。
もし、歩む道に迷い、心が萎れそうになったときは、この三月の書を紐解いてください。
桜鯛の矜持と、若牛蒡の逞しさが、貴方の背中を押し、輝かしい未来へと誘ってくれるはずです。
大阪の空は、どこまでも青く、高く。
貴方の歩む一歩一歩に、満開の桜が舞い落ち、祝福の出汁が降り注いでいます。
弥生の光輝く一頁、ここに完結いたしました。




