(第八篇)朝靄の食堂
広い敷地内には五棟の古民家が建っていた。たぶん以前は農家であったかのような佇まいに見えた。片田舎のここには地元の男僧三人と尼僧一人が暮らしていた。それに彼らの他に、英語の達者な日本人の幸田が一人長期滞在していた。
彼は、五日ほど前、サイゴンのデタム通りの旅行代理店で出会った幸田に誘われて、昨日ハノイ方面への長距離バスでの道すがら、途中下車して一人この地を訪れた。ここはツーリスト向けのゲストハウスを兼ねているというのではなかった。が、二日間気安く泊めてくれた。
早朝、敷地内の離れ屋で数人の村人とともに僧侶の読経を聴き、次いでどれほどかの黙想の時を過ごし、六時前に彼が食堂へ行くと、若いベトナム人尼僧は、すでに朝食のしたくに取り掛かっていた。流しの真横の格子のガラス窓はすでに仄白く明るんでいた。が、納屋といった趣の食堂内はまだ薄暗かった。裸電球の明かりが、薄ねず色の筒袖服を着て立ち働く尼僧の影を、凸凹した土間の赤土に淡く這わせていた。
「あれっ、朝食は七時半からだけど」と入口に立つ彼に気づいた尼僧が英語で言った。
「幸田さんと待ち合わせて朝市に行きます」と彼はわけを言って中に入った。その日、近くの田舎道沿いに大きな市が立つと聞いていた。
「ああ、そうなの。じゃあ何か飲む、コーヒーもあるわよ。ふふっ、コーラはないけどね」と尼僧はユーモラスに言った。
短髪はことさらに歳をあいまいするとはいえ、彼女はまだ三十前に見えた。
「ありがとう、では、ジャスミン茶を。昨日いただいたウエルカムティーがとてもおいしかった」と彼は言って椅子に腰かけた。
ほどなくして寝起き早々の感じの幸田がやって来た。「幸田さんは、もちろんコーヒーを欲っするわよね」と尼僧は、なぜか彼の向かいではなく、彼の脇の椅子を引いた幸田に、英語のウォンツを大仰に発音して言った。「もちろん、もちろん、わたしは、コンデンスミルクたっぷりなモーニング・コーヒーを欲っします」と幸田も立ったまま、尼僧に調子を合わせて親しげな物言いで応えた。彼女は愉快そうに笑った。それから二人に背を向け、流しでポットから湯を注いで幸田にコーヒーをつくり、彼にはジャスミン茶のお代わりを淹れてくれた
煤けた天井に張り渡した太い梁から、丸い傘の裸電球が吊り下げられていた。カップに口寄せる二人の頭影が、白木のテーブルの端に落ちては、また外れた。彼はふと思い立って幸田に問うた。
「昨日宿泊の挨拶のおりにお坊さんは、光源が揺れれば、影もまた揺れる、とか言ってませんでしたか。聞き取れただけの英語から察するに」
「ああ、それと似たようなことを言ってたな。直訳すると、影にはローソクの炎を揺らめかせられない。風や息でなくては──だけど」と幸田は早起きの眠気に弛んだ目を彼に向けて、「それが、どうかしたの」と続けた。
「いえ、べつにどうと言うことは……」と彼は言って頭上の裸電球の赫い灯を上目遣いにぼんやりと眺めた。そして、
「そうか、あのとき坊さんがチラ見したのは、書棚の燭台に立てたローソクだったのか……」と一人頷き、それからなんとなく二人の正面の尼僧を見た。後ろ姿の彼女は野菜を刻んでいた。たぶん、ベトナム人の定番朝食、フォー(麺)か何かの下準備なのだろう。「気さくな尼さんですね」と彼が言うと、幸田は、「それにべっぴんだしね」と受けて笑った。その笑い声につられたのか、尼僧が振り向いて、笑み顔でちらっと二人を見た。それから炊事場の窓辺の明かりを消した。そして窓外にしばし顔を向けたままでいた。早朝の薄い朝霧を浮かべた川面と、雨上がりの曇り空が窓ガラス越しに見えていた。幸田も二人の頭上の裸電球のスイッチをひねった。天井近くの丸窓から侵入する薄い朝の光の中に、埃のようなものが帯状に群れて浮かび、白くたゆたっていた。
「ところで、あなた、フエに行くんでしたね」と幸田が彼に言った。
「ええ、そこからバスでラオスに抜けようかな、と」
「フエへ行くなら慈孝寺にも寄ってみるといいですよ。ティク・ナット・ハンが出家した寺でね。観光名所という感じじゃないけど、あなたはたぶん気に入ると思う」
「ああ、彼はフエの禅寺出身でしたね。ガイドブックで読みました」
「うん、今はフランスにいるけどね」
「コミューンの名前は、たしか〈プラム・ビレッジ〉でしたか」
「そう、そう」と幸田は頷いて、尼僧の方に顔を向けた。コンロにかけられた大きめの鍋が湯気立っていた。
「彼女、彼の大ファンでね。フランスに行きたいらしいんだが……」と幸田が尼僧に目をやったまま低い声で言った。
「なぜ行かないんです。旅費か何かのことで」
「いや、そんなのはたかがしれてる。まあ、彼女にもいろいろあってね。それに行けば行きっぱなしになるんだろうし……」
「…………」
「彼はもう高齢だし、彼女としたらすぐにでも飛んで行きたいところなのだろうが……」と幸田は尼僧を見やりながら低く呟き、それから彼女に視線を向けたままでちょっと間をおき、次いで高い声で、「そろそろ行きますか」と英語で続けて言って立ち上がった。振り向いた尼僧がにこやかに「ゆっくり行ってらっしゃい。朝食時間に少しぐらい遅れてもかまわないから」と言った。そうして彼女はまた朝食のしたくを続け、二人は朝市へ出かけた。




