(第五篇)蓮華のララバイ
境内に蓮の花咲く池があった。水面上に茎を一メートル以上にも伸ばし、密生して重なり合う立ち葉に、池の全面が覆われていた。境内の風物から、寺院はタイ華僑による建立と思われた。彼は芝生に座り、宿近くのセブンイレブンで買った菓子パンを食べ、パックの豆乳を飲んだ。目の前を、映画「戦場にかける橋」で知られるクウェー川が流れていた。ときおり観光客を乗せた細長いスピードボートが川を上り、下りしていた。
彼から七、八メートルぐらい離れて、さきほどからタイの中年男女が芝生に座っていた。彼らは、「あんたは、日本人か」を挨拶句に、彼に近づいて来てそばに座った。彼は男と互いにカタコト英語で雑談を交わした。「タイは初めてか」「いや、何度か」──「観光で来たのか」「そうだけど」──とたあいのない会話をいくつか交わしてすぐに話しは尽きた。「何か飲み物でも」と男は女を残して一人離れて行った。
女は三十五歳前後に見えた。ローライズのブルージーンズに、若い女たちがピタTと言いならわす、オレンジ色のTシャツを着て、彼の前に横坐りしていた。ひっつめの黒い長髪がキリッとしてよく似合っていた。女は英語が上手かった。聞く彼にはおおかた不分明の長いフレーズ、あるいはセンテンスを澱みなく数珠つなぎにして口にした。先ほどの男とのやり取りで、彼の英語レベルはおおよそわかりそうなものなのに、女は一方的にしばらく早口で喋り続けた。彼は、さして化粧っ気を感じさせない女の顔に、せわしなく開き閉じする唇をじっと見つめながら聞いていた。
──「彼は東京から来た」「彼はバンコクのコンドミニアムに一年間いた」「彼は店に来るときいつも一人だった」「日本の長期滞在ビザを取るのは難しい」── 聞き取れた断片を繋ぐと、どうやら女は、ある一人の日本人男性とのなれ初めについて語っているらしく思えた。で、彼が、
「つまりは、その日本人の男はとてもリッチでナイスガイだった、ってことだ」と言うと、女は、「ははは。うん、もちろん、そう、そう」と笑って応えた。
女は前フリ話に一段落をつけると、あらためて聞くけど、といった感じで、
「ところで今夜は何時に寝るの」とおもむろに切り出した。
「…………」
女の言わんとすることは、世界に名だたるバンコクなどの歓楽街の路上ではなくとも、男ならおおよそ察しがつくはず。彼はその引っかけ文句を、今回の旅行中すでに二度タイの男から聞いていた。一度はメーソートのホテルのエレベーターの中で、二度目は場所柄もわきまえず、スコータイのタイ仏教寺院の境内でだった。が、彼は二度ともとぼけて「人の就寝時刻なんか知ってどうするの」と聞き返した。彼らの答えはいずれも「レディ、どうか」だった。その際彼らがウーマンではなく、なべてレディと言ったのが何かしら彼の印象に残った。ここはカンチャナブリの中国寺院の境内、またしてものバチ当たりなお誘いだった。しかも今回は直接に女人の口から──。
「今夜は何時に寝るの」と女がもう一度彼に訊いた。
「さあ、日によって違うけど」
「じゃあ、今日は何時になりそうなの」
「安宿のわたしの部屋には小さな窓しかない。エアコンもない」
「それなら、安くて良いホテル知ってるわよ。エアコン付きの」
「タイの夜はとても蒸し暑い」
「…………」
「だから毎晩すんなりとは寝付かれない」
「だったら、ララバイが必要なんじゃないの」と女が言った。
「ララバイって」……ああ、子守唄か、
「何言ってんの。赤ちゃんでもあるまいし」のつもりで彼は、
「ノー。ノー・ニード・フォー・ザット。アイ・アム・ノット・ア・ベイビー」と女に幼い英語で言った。
「ははは」女は面白そうに笑った。
庫裡と見える建物の裏手に、華僑の子弟が通うのだろう幼稚園らしき施設があった。遊び時間なのか、円陣を組み、束なり、また解ける感じに子供たちのはしゃぎ声が聞こえてきていた。陽は中天高くにあった。けれど川っぷちの木陰は涼しかった。
「英語、ハイレベルに上手いね」と彼が女に言った。
「それほどでもない、日常会話だけ」と女は謙遜した。
「どこで覚えたの。スクール、それともワークで」
「バンコクで、ファラン(外国人)に」
「ああ、ネイティブに習ったのか」
「うん、プライベート・レッスンでね。二年半くらい」
「どうりで。でもレッスン料高かったでしょ」
「そんなの払わない。ギブ・アンド・テイクだから」
「……ああ、たがいにフリーで」
「そう、そう」女はくったくなげに笑って肯いた。
タイスタイルの、ビニール袋に入れてストローを挿し込んだコーラかコーヒーを指に提げて、男が門内に入って来るのが見えていた。
「あの人はあなたのダンナさんなの」と彼は男を見やりながら女に訊いた。
「ちがう、ちがう」あんなの、冗談じゃない、といった口調で女は否定した。それからちょっと間をおいて、
「あんたさっきパンを食べながらなに考えてたの。ずいぶんシリアスな顔してたけど」と彼をまっすぐに見て言った。
「えっ、べつになにも……」彼は不意をつかれた感じで少しうろたえた。彼は蓮池の方へ目をやった。つられるように女もそちらへ顔を向けた。
「タイはどこに行っても蓮池を見るね」と彼が女に言った。
「タイは仏教国だからね……」と女は蓮池の方を見たままで、細い吐息に想い乗せるような感じに小声でそう言った。
帰り着いた男が女と彼に一袋ずつ飲み物を渡した。コーヒーだった。彼は礼を言って、ストローに口をつけていちおう飲むマネだけをした。男が彼に煙草をねだった。彼は残りの半分ほどの五、六本をつまんで男に与えた。「そんなにいらない」と女が言った。
若い中国人僧が彼らの前を横切って行った。立木の側に二本の短い竹竿が一メートル間隔ぐらいに立ててあった。張り渡したヒモに玉すだれのように爆竹がいくつも吊り下げられていた。僧がライターで次々に着火した。爆竹は下から上へとけたたましく爆ぜながら昇っていった。時鐘の代わりなんだろうな、と彼は思った。それをしおに、「宿へ帰るから」と彼は二人に言って立ち上がった。
「今夜は一人で寝るのか」と男が含み笑いして言った。
「まあね。シングルベッドなもんで」と彼は応えた。
「ふふっ」と女が小さく笑った。




