表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/6

(第四篇)妖花

 メコンの大河をボーダーラインにして、二つの国は分かたれていた。彼岸のラオス・フェイサイから、此岸のタイ・チェンコーンへ、国境越えの旅客たちを乗せた渡し船が川を横切ってやって来るのが見えていた。チェンコーンはタイの最北部に位置する国境の小さな町だった。川を背景にして、目抜き通りの一本道が続いていた。

 彼はバスを降りて、宿探しの前に食堂に入った。奥の席で僧侶が二人、昼食を摂っていた。彼らは外出用の出立ちとして、両肩・両腕を小豆色の袈裟布で包んでいた。安食堂ではあるが、二人のテーブルの上には七、八品ものオカズの皿が所狭しと並んでいた。彼はひと夜、寺に泊めてもらったことがあった。ふだん寺での彼らの食卓には、信仰厚き仏教国の民の供養による主食に加えて、果物、ジュース、さらにはお菓子までもが供されて、日本の禅寺の「一汁一菜」の貧なる御膳のイメージとは、はなはだ趣を異にしていた。彼らがいま口に運ぶ、けっこう大きめの焼き魚は、すぐ側のメコンから水揚げされたものに違いなかった。

 大通りの川沿いのゲストハウスに泊まれば、当然「夕暮れ時、メコンの悠久の流れを眺めながら、旅人の旅情はいや増す」と、ガイドブックの常套句どおりになるわけだが……などと彼は思いながら通りを歩くうち、川を背にした通りの曲がり角に、ゲストハウスの小さな案内立て看板を見つけた。それは稚拙な手書きで書かれていた。彼は立ち止まり、御触書でも見るようにしてそれに目をやった。英文字のゲストハウスの「T」の字が抜けていた。そして、その脱字の箇所にビニールテープでTを補足したつもりが、頭の横線のテープが剥がれ落ちて「I」になってしまっていた。メイン通りのリッチなツーリスト相手の宿の看板にはないそのユルさに、どことなく風情を感じた彼は、看板の示す矢印の方向に歩いて行った。

 その名も無き宿は、緩い坂道の途中にあった。老夫婦らしき者が住まう民家の裏庭に、古材を用いた高床式の小屋四棟が横並びに建っていた。部屋代はたったの百バーツ(約三百円)にすぎなかった。けれど、トイレのみならず、簡易のホットシャワーまでが個別の部屋にセットされていた。


 滞在二日目の朝、彼は通りの銀行へ両替に行った。「両替を」で始まり、「ここにサインを」で終わる、客と担当者の一連のお約束のやり取りを交わした後、彼は受け取った千バーツ紙幣二枚を、「百バーツ紙幣に崩してほしい」と、三十前後であろう銀行員の男に頼んだ。男は客が立て込んでいたからか、ちょっと面倒臭そうな顔をしたように彼には見えた。が、それは通常の業務の一つに過ぎないはずだ。彼は、「寺めぐりの際のお布施のために」と、言う必要もないことを男に言った。その際「御布施」と言うに、英語の「ドネーション(献金)」ではなく、「タンブン(功徳を積む)」と、覚えたてのタイ仏教用語──というより庶民の口に親しい日常語を使った。すると男は、

「タンブン……」と小さく呟き、気取りのない微笑みを顔に浮かべて彼を見つめた。そしてその後すぐに、我に返ったように、お堅い銀行員の顔に戻り、百バーツ紙幣を素早く勘定し始めた。男は細面の、際立ってハンサムな顔立ちをしていた。が、男の口調や振る舞いは、見るからに艶かしく女っぽかった。男はたぶんゲイではないのか、と彼は思った。タイがゲイの天国であることは、よく知られていた。すでにゲイが市民権を得ていた。男性と女性の半身をくっ付けて一つにした、公衆トイレの絵文字があるくらいだった。別に女に限ったことでもないが、と彼は思いつつ、男の大きめの耳たぶにピアスの穴の跡でもないかと、ひとりよがりな目を凝らして見た。が、それらしきものは判別できなかった。

 宿へと戻る坂道は、南国の真夏の正午近くの陽射しに乾き切って、土の茶色をとことん薄くしていた。が、畑の作物や木立の葉群れは耐性があるのか、昼日中の熱射に減色されることもなく、もとの緑を色濃く保っていた。


 母屋の表玄関の土間に入ると、正面の板の間に、女主人の連れ合いらしき老男が横たわっていた。老男は、敷布団に重ねたゴザの上に、ランニングシャツにトランクスの姿で、痩せ細った体をくの字に曲げて寝ていた。この三日間、朝の宿賃の支払いのたびに彼が見る老男の姿は、まったく同じ右向きの、くの字の寝姿だった。いま老男は目を閉じて寝入っている様子だった。おそらく寝たきりなのだろう。玄関脇の井戸端に、老男のものらしき土色の排泄物が沁みた下着が、毎朝出されていた。

 この木造家屋の玄関には、そこはかとなく、日本の地方都市の町家に似た雰囲気があった。以前は何かの店屋だったのかもしれない、と彼は土間を見回して思った。老女は英語を話さなかったし、もちろん彼もタイ語を知らなかった。で、彼は「おはようございます」と、奥にいるのだろう老女に向かって、日本語で声を掛けた。やや間があって、白髪で皺深き面をうつむき加減にし、痩身を日焼けした細い足で運びながら、老女は奥の部屋から出てきた。投宿してから、彼は老女と一度も言葉を交わしたことがなかった。宿賃などは、英語で書いた紙が土間の壁に貼ってあった。老女は、身動き一つしない老男を背後にして板の間に立ち、彼がその日の宿賃として差し出す、タイ国王の肖像が刷られた百バーツ紙幣一枚を、無言、無表情で受け取った。

 裏庭の母屋の壁際に沿って、手入れのされていない横長の花壇があった。そこの短い草叢の中に、茎の長く伸びた一輪の真紅の花が、一本だけ咲いていた。「密生する草の葉は緑、一輪の花の色は紅……、つまりは紅一点ということになるな。けっこう、咲き姿がサマになっているじゃないか」と彼は、いささか芝居じみた心持ちで、この宿に滞在中、しばしばそれを見やって目を遊ばせた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ