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(第三篇)満天の星

 バスはナーン川に架かる橋を渡って、タイ北部のピッサヌロークの市街に入って行こうとしていた。橋の欄干には西洋風の球形の外灯が設置されていた。眼下の川の水は、雨が運んだ土砂に濁って赤茶けた色をして流れていた。川岸には、筏にトタン屋根造りの粗末なハウス・ボートがいく艘も繋留されて浮かんでいた。彼はガイドブックを開き、今夜の安宿の目星をつけた。

 宿はナーン川に近いゲストハウスに決めた。部屋に荷物を置き、空腹の彼はさっそく昼食に出かけた。宿の受付には二十五、六に見えるタイの娘がいた。彼が鍵を預ける時、彼女は、

「夜にね、あなたは部屋でビューティフルな星を見るよ」と英語で彼に言った。

 ピッサヌロークは、南のバンコクから北のチェンマイまでの主要幹線道路のほぼ中間点にあった。ここは山間部でも郊外の緑野でもなかった。泊まった部屋は三百バーツ(約九百円)の安部屋だったが、小さなベランダが付いていた。彼女が言うのは、そこからビューティフルな夜の星空が眺められるということか……、と彼は解した。それで、

「この町は星空で有名なの」と娘に訊いた。すると彼女は、

「違う、違う、あなたはそれを、シィー──に見る」と笑いながら言った。

「…………」彼は彼女の英語がよく聞き取れなかった。が、とにかく夜の星空ウオッチングを楽しみにして宿を出た。


 町歩きの後、ナーン川沿いの夜市の屋台で食事しての帰り道、仰ぎ見る夜空はもう真っ暗だった。空に星は出ていた。けれど彼が期待して想像したほどの満天の星というのでは全然なかった。彼は大通りを外れて脇道を宿へと歩いた。通りの数軒の小商いの店は軒並みシャッターを下ろしていた。間遠に外灯はあったが辺りはほの暗かった。道筋の先の方に店内の余光で店前の局所を明るく照らす、まだ営業中の一軒の店が見えていた。近づくと店の壁には「SONY」の大きな看板が掛かっていた。代理店のそのまた代理店といった趣の、小ぢんまりした電気屋の店構えだった。彼は店前で立ち止まってウインドウの中を覗き込んだ。

 陳列された七、八台の横長の薄いボディのテレビがデモ映像を流していた。一台は、澄み切った青空を背景にして、原野の一本の枯れ枝に止まる一羽の鳥を、ローアングルからクローズアップして映し出していた。カラフルな羽根の色は不自然なほどに鮮やかな原色だった。別の一台では、緑の草原に咲き乱れる花々が、そよ風の戯れの息吹を受けて、赤・黄・紫色などの花びらを小刻みに震わせていた。いかにもハイビジョンといった感じに、花の色とかたちをクリアーに画面上に甦らせていた。日暮れてモノクロームの通りには、昼間の汗っぽい温気がまだ残っていた。が、ウインドウの中のテレビの映像は、乾いていかにも涼しげだった。


 宿のフロントは、夜勤の無愛想な中年の女に代わっていた。女は英語を話さなかった。彼は鍵を受け取って、三階に上がった。ドアを開けて一歩部屋の中に入った時、その暗闇の内に彼が見たのは、蛍のように群れる満天の星だった。白い天井の全面に点描された蓄光塗料の星々が輝いていた。ああこれか、あの受付の娘がいっていたのは、と彼は合点がいった。「空にではなく、部屋の天井にね」とあの時娘は、謎かけをしたのではなく、すでに種明かしをしてくれていた。そうか……、聞き取れなかった英単語は「シーリング(天井)」だったのか。これは、どうと言うこともないありふれた室内装飾のひとつなんだろう……、が、まあ、天上のリアルな星であれ、天井のバーチャルな星であれ、一応星は星だからな、と彼は独りごちた。そして灯りを点けないでドアの側に立ったまましばらく天井を見ていた。


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