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(第二篇)一服しようや

 同室のモンクットはまだ寝ていた。彼は早朝四時半に起き、懐中電灯の明かりをたよりに、本堂への草叢の細道を下った。

 堂内奥の仏壇は、一対になった長短、太さ、さまざまなローソクによってライトアップされていた。ローソクの胴はみなオレンジ色で、なかには丈が一メートルぐらいのもあった。そのスポットライトの中心に、金色の仏の坐像が据えてあった。仏の頭上高くの天井から、小ぶりのシャンデリアが吊るされていた。が、それは点灯されなかった。いま堂内にはローソクのみあかしだけがあった。外はまだ暗かった。仏壇周りに集約された、計十数本ものロウソクの灯りは、すこぶるムーディーな色合いで、堂内を濃く薄く染めていた。灯明のお裾分けにあずかる堂内に座する人や、物の影像が、壁面に並ぶ幅広のガラス窓に縮小されてぼーっと浮かんでいた。

 読経は、近所の村人十人くらいと、三人の僧侶を仏前にしてとり行われた。かわるがわる僧侶たちの唱える経文は、古代パーリ語で編まれている、ということだった。もちろん彼は聴くだけだった。いくつかのお経に関しては、堂内の地元の者たちのほとんどが、長いものでも経本も見ずに僧侶について暗唱していた。タイは国民の大半が仏教徒で、男子は生涯に数日、数ヶ月の出家が習わし、というほどの仏教国だった。読経の練習にも、幼少のころから馴れ親しむと聞いていた。

 読経と、そのあとの何十分かの瞑想は、朝の陽光で闇を払ったガラス窓に、庭前の芭蕉の大葉がくっきりと立ち現れるまで続けられた。



 彼はその丘の上に建つ仏寺に四日間泊めてもらった。男性参拝客が宿泊するための部屋は、寺裏の木立の中にあった。以前は僧侶のための衆寮として使われていた建物だった。滞在中、彼の他に外からの宿泊客はなかった。寺では日に二度食事が提供された。朝食は皆が食堂に集って、昼食は各自が自室で正午前に適当に摂った。

「ランチにしようや」とモンクットはいいながら、両手にビニール袋を提げて部屋に入って来た。袋の中身は村人たちのお供え物、それと僧侶の托鉢のお裾分けだった。モンクットは、主食の蒸したもち米や、副食の野菜の煮物や炒め物のおかずなどを、板床の上にずらっと並べた。それらは、一品ごとにビニールの小袋に入って、輪ゴムで口止めされてあった。加えて、異国人の彼にはもの珍しい南国のフルーツもあった。

 モンクットは、デザートにドラゴン・フルーツという龍の鱗に似た表皮のサボテンの実をナイフでカットしながら、浮かない顔をしてときおりため息などついていた。

「どうした、モンクット」と彼が訊いた。

「うん……、村のヤツらがおれのことを、寺男って呼んだ」とモンクットは、彼と同様の初級クラスの寸足らずの英語で、端折ったふうに言った。モンクットが補足して言うには、自分は長期滞在者ではあっても、下働きの寺男のつもりはない、そう呼ばれる筋合いはない、ということだった。

「おれはヤツらとは違う。ヤツらみたいにプアーじゃない」とモンクットは言った。その勇んだ語調に反して、モンクットの物言いは内実、「えらそうに、おれとヤツらとどこが違うんだ」との強がりにも彼には聞こえた。

「ならば坊さんになればいい」と彼は言った。タイでは仏門は広く開放されていて、よほどのことがない限り、タイ男子が出家を拒否されることはない、ということだった。

「うん……」とモンクット言って、これもお供物のパックジュースのストローを口にくわえるようにして、折ったり伸ばしたりしながら飲んだ。

「そしたら皆んなあんたにひざまずく」と、彼は続けて言いたかったが「ひざまずく」の英語を知らなかった。で、それを、「彼らは、あんたの前で、彼らの膝を、地面にタッチさせる」といったふうに回りくどく言った。タイでは常景の、路上での托鉢風景を脳裡に思い浮かべながら、彼はそう言った。

「いや、おれは……」とモンクットは、また端折って言って黙り、白の作務衣ズボンの上から、立膝の膝頭を手の平で丸くなぜた。そしてポケットから寺では御法度の煙草を取り出して、彼にも一本抜き取らせて、吸った。

「バンコクからこの寺へ流れて来てもう約二年になる。まだ三十過ぎなのにすでにリタイアだ」とモンクットは昨日の初対面のおりに言っていた。インド系タイ人にも見える、目の大きな彫りの深い面立ちに似合わぬ、ヤワな挨拶句だった。モンクットは心ここにあらず、といった面持ちで黙って煙草を吹かし続けていたが、ふと思い出したように、

「なあ……、あんたら日本人はこう言うんだってな。『悲しみは、たくさんのアクションを生む』って」と言った。

「さあ……、知らないな。誰に聞いたのか」

「タニヤで日本人の客に教えてもらった」

 タニヤはもっぱら日本人男性観光客なり、駐在の者が集うバンコクの歓楽街だった。

「どういう意味か」と彼は話をつないだ。

「おれが思うには、悲しみからランナ・ウエイしようとしてあれこれ忙しくする、ということじゃあないのかな」

「ふーん、その日本人うまいこと言うな」

「あいつはナイス・ガイだった。それにタイ語を話した。まだバンコクにいるかもしれん……そろそろバンコクへ帰るかな」

「なにここにいればいいじゃないか。なんたって、食に事欠くことがない」

「うん、だが、あいつはこうも言ってた。ハッピーはスリープだって」とモンクットは言って、二本目のタバコに火をつけた。

「言われてみればそうかもな、ハッピーに言葉はいらんからな。つまりはスリーピィ。だが悲しみはなんやかんやでよくしゃべる」と彼が言った。

「うん、だから悲しみの時、人はいつもより腹が減る」

「はははっ。いつか悲しみ太りなんて言ったヤツもいたな」

「言える。だから悲しい時は腹一杯飯を食うことだ。さすれば眠くなる。そしてハッピーになるってわけさ」

 とモンクットは痩身に似合わぬ軽口を叩いて笑い、くわえ煙草で立ち上がりベランダに下りた。コンクリートの床には、背後の木立からの落葉が厚く堆積して、腐葉土みたいになっていた。モンクットはしゃがんで葉っぱをより分けながら、いくつかの芽吹いた木の実を手の平に乗せると、彼のそばにきて見せた。そして、それを愛おしむような手つきで土を入れた紙コップに移植した。



 彼は広い境内を散歩していて、礼拝堂の前で足を止めた。数段の入口階段の、龍を象った手すりの上に、子猫が横臥の体勢で横たわっていた。子猫はちょっと見には龍の背中で眠っているようでもあった。けれど伸びきった四肢には、猫特有の小さな物音にも瞬時に跳ね起きる、といった気配があきらかに失せていた。彼は指先でそっと子猫の胴体に触れてみた。微動だにしなかった。「どういう事なのだろうか」と彼はいぶかしく思った。仏寺の礼拝堂の入り口まで来て力尽きて命絶える、というのはありえなくはないが、それはいささかでき過ぎた場面設定にも思えた。「どうしようか、モンクットを呼んでこようか」と彼は思案しながら、どれほどかその死骸から目を離せないでいた。

 彼が人の気配にふと後ろを振り向くと、五才くらいのこの寺の少年僧が立っていた。片肌脱ぎにオレンジの袈裟を纏った少年僧がいつそばに来たのか、彼はまったく気がつかなかった。ひょっとして子猫をここに置いたのは、この少年僧か、と彼は一瞬思った。少年僧は、彼にはチンプンカンプンのタイ語で何かいった。察するに「どうするの」とでもいっているかのように彼には思えた。剃られた両眉の下のつぶらな瞳が、大人の決断を促がす、といったふうに彼を見上げ見つめていた。

 彼はつかのま思いをめぐらせた後、「よし、こうしよう」と先ず、境内の隅の草地を指差した。少年僧もつられるようにそちらを見た。そして「うん、それから」といったようにコクンと頷いた。次に彼はしゃがんで、園芸用のスコップを持ったつもりで、足下の土に穴を掘るマネをした。少年僧は、「うん、うん」と二度頷いた。さらに彼は、しゃがんだまま身振りだけで、子猫をからっぽの両の掌に乗せ、それを穴に入れた。そして最後に、土を被せて合掌する仕草をした。すると少年僧はホッと安堵したように、小さな顔に小さな笑みを浮かべ、なにか短く言い残して僧坊の方へと向かって走り去って行った。

 彼は、よそ者が勝手なマネを、と思わないでもなかったが、地に落ちた太目の枯木を拾って折り、境内の隅の植木のそばに穴を掘った。そこからは眺めよく、丘の麓向こうの町並みが眼下に一望できた。スコールのあととはいえ、なかほどの土は意外に固かった。が、子猫の亡骸は小さかった。埋葬は蚊の大群にジャマされながらも、さほどの時間はかからなかった。



 出立の日、早朝のお勤めを終えて、彼はモンクットと共に長箒片手に境内の掃除に出た。昨夜は一時篠つく雨が降った。あたりは菩提樹の落葉に散り敷かれていた。雨に濡れた落葉は地面に貼りついていて掃きづらかった。昨日彼がつくった子猫の墓の土まんじゅうの上にも、迷彩を施すかのように緑や黄色、さらには茶色の落葉が重なっていた。

 丘の上部に建つ本堂の屋根の頂きに、歩行姿をした仏陀の遊行像が一体据え付けられてあった。その金色の像は、早朝の青空だけを背景にして、全身に朝陽を浴びてキラめいて見えていた。彼は掃除の手を休めて、しばしそれを眺めやった。モンクットも彼のそばに来て、見慣れた光景をあらためて見る、そんな感じに遊行像のほうを見上げた。そして、「あれな……」と遊行像を指差した。

「空に道はない。だが、ブッダは……」とモンクットは、いささか大仰に言って、いったん口をつぐんだ。モンクットは遊行像を見据えたまま、次のセリフを考える、というよりも、タイ語の翻訳英語を脳裡にまさぐる、といった感じに間合いをとった。互いに異国語である英語の、しかも初級者同士の会話のおもむきは、素人の演じる村芝居の掛け合いセリフのようにも彼には思えた。

「だが、ブッダはどうなのか」と彼はモンクットに先を促した。

「まあ……あれだ、見てのとおりだ」とモンクットは彼を見てごくシンプルに応え、また遊行像に視線を戻した。そして、

「その道のない道を、ブッダはただ一人で歩いて行く」とモンクットはこのさいの決め文句ように言った。

「そうか、そうあってこそリアルなブッディスト(仏教徒)なんだな」と彼は言った。

「そのとおり」

「あんたようにな」

「いや、いや、それはツー・マッチだ。おれは、そんなにリアルじゃない」とモンクットはちょっと自嘲にもとれる苦笑いをして言って、草履の足元に視線を落とした。そして顔を上げて彼を見て、

「出立は朝食のあとなんだろ、一服しようや」と二本指でタバコの吸いマネをして言い、彼を礼拝堂の裏の木陰に誘った。


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