エピソード009:孤独な戦いと不本意な儀式
2025/07/02 本エピソードを含め、第一章を大幅に加筆修正しました。
(ああ、最悪だ。定時で帰るためとはいえ、まさか、これをやる羽目になるとは……)
(ああ、最悪だ。定時で帰るためとはいえ、まさか、これをやる羽目になるとは……)
大事な事なので2回(ry
俺は懐から、使い古されてプラスチックが黄ばんだ職員証を取り出す。それを恭しく胸に当て、誰もいないはずの空間に向かって、深々と、九十度に頭を下げた。
「――偉大なる初代庁舎長にして、万物の秩序の守護者様。不肖の孫、シルス・グリセウス、謹んでお願い申し上げます」
あまりに古風で、芝居がかった口上。遠くの瓦礫の陰から、三人が唖然としてこちらを見ている気配がする。恥ずかしさで、いっそこのまま魔力の奔流に身を投げてしまいたい。
だが、止めるわけにはいかない。俺はさらに、学生時代以来となる「正規の魔力循環促進儀式」を開始した。
まず、両腕をゆっくりと天に掲げ、深く息を吸い込む。第一の姿勢、「天への感謝」。
次に、片足立ちになり、もう片方の足をバレリーナのように奇妙な角度に曲げる。第二の姿勢、「大地の脈動」。
そして、荘厳な(しかし、第三者には全く意味不明な)古代語の呪文を、真剣な表情で、しかし顔を真っ赤にしながら唱え始める。
「《古き風よ、我が声に応え、大気の震えを力と為せ……!》」
儀式が本格的に始まると、俺の周囲の魔力が、異常な密度で渦を巻き始めた。
「なっ……!?」
遠くから、クラウディアの悲鳴が聞こえた。彼女が持つ魔力測定器が、これまで測定したことのない数値を叩き出し、パチン、と乾いた音を立てて壊れたのが見えた。
そして、フェリクラは――。
彼女はただ、呆然と、目の前の光景を見つめていた。いつもは書類の山に埋もれ、疲れた顔で自分の窓口を訪れていた、あの先輩。その彼が今、世界の法則を書き換えるかのような、圧倒的な力の中心に立っている。その信じがたい光景に、彼女は言葉を失っていた。
(ああ、もう最悪だ……特にフェリクラに見られているのが、一番最悪だ……!)
俺は、顔を真っ赤にしながらも、儀式の詠唱を続ける。胃が痛い。残業よりも、報告書よりも、この状況の方がよっぽど最悪だ。
第三の姿勢、「魔力循環の啓示」。両手で大きくハートマークを作り、それを頭上に掲げる。指先から「きゃるん☆」という、断じて自分の意志ではない効果音と共に魔力の粒子がこぼれ落ちた。死にたい。
第四の姿勢、「存在証明の刻印」。腰をキレッキレに左右に振りながら、まるで戦隊ヒーローが悪の組織を名指しするかのように、片方の腕をびしっと前方に突き出す。「《我が名はシルス! 秩序の守護者にして定時退勤の使徒!》」。ああ、もう駄目だ。先祖を呪う。
そして最後の仕上げ。投げキッスと共に、空中に複雑な魔法陣をアイドルの振り付けのような滑らかさで描き上げ、最後の呪文を唱える。ウィンクは必須だ。顔の筋肉が引き攣るのがわかる。
「《――故に命ず! 万象よ、我が行政指導に従い、正常なる秩序を回復せよ!》」
数分間にわたる死闘――その大半は、俺自身の羞恥心との戦いだった――の末、ついに儀式は完了した。俺の全身から、普段の灰色の公務員の姿からは到底想像もつかないほどの、青白い高密度の魔力が立ち上っていた。
「はぁ……っ、はぁ……!」
汗だくになりながら、俺はその凝縮された魔力を両手に集中させる。そして、暴走するコアの中心へ、慎重に、かつ大胆に、その全てを流し込んだ。
眩い光と轟音の代わりに、奇妙な静寂が訪れた。暴走していた魔力が、まるで排水溝に吸い込まれる水のように、コアの中心に生まれた小さな黒い一点に引きずり込まれていく。空間がそこだけ切り取られたかのように歪み、コアから溢れ出ていた青い光が、その一点に吸い込まれる軌跡を描いて消失していく。やがて、最後の光が吸い尽くされると、黒い点は瞬時に消滅し、後には静寂と、安定した魔力循環を取り戻したコアだけが残された。床には、次元転送の副作用で発生した、正体不明の黒いススが薄らと積もっていた。
全ての力を使い果たした俺は、その場にへたり込む。遠くからその一部始終を見ていた仲間たちが、恐る恐るこちらに近づいてくる。クラウディアは、疲れ果てた俺の背中を見つめながら、呆然と呟いた。
「……あいつ、一体何者なの……?」
その隣で、フェリクラは、ただ黙って、力なく座り込む俺の姿を、その目に焼き付けていた。
お読みいただきありがとうございます。
ついにシルスが、その封印されし力(と恥ずかしい儀式)の一端を現しました。
彼の動機はあくまで「定時退勤」と「後輩(?)の安全確保」。そのあまりに切実な願いは、果たして届くのでしょうか。
次回、儀式を終えたシルスを待っていた、さらなる面倒事とは。
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