エピソード024:灰色の日常とブドウ糖の甘さ
次元漏洩騒ぎから数日が過ぎた。テルティウス市には、巨大な祭りの後のような、気だるい静けさと山積みの事後処理が残されていた。街の喧騒から切り離された市役所の応接室で、俺は王都から派遣された監査官、リヴィア・コルネリアと向き合っていた。
「――以上が、今回の『次元漏洩案件』に関する報告書の最終稿です」
彼女は分厚い羊皮紙の束をテーブルに置き、淡々とした口調で告げた。その横顔は、数日前の厳格な表情とは少しだけ違う、複雑な色を浮かべているように見えた。
「公式記録として、原因は『古代魔力施設の経年劣化による、軽微な魔力漏出』。対応は『テルティウス市職員による、迅速かつ的確な応急処置』。これにより、被害は最小限に食い止められた、と」
その内容は、事実を巧みに捻じ曲げた、俺たちにとって非常に都合の良いものだった。俺の封印指定の儀式魔法も、ゼノンの規格外の協力も、すべてが当たり障りのない行政用語の迷宮に隠されている。
「いいのか? これでは、王都への報告としては、あまりに事実と異なる」
「問題ありません」リヴィアは即答した。「規定と現場の現実には、常に乖離があるものです。その差を埋め、より大きな利益に繋がるよう調整するのも、監査官の重要な職務ですから」
彼女はペンを置き、窓の外に広がる灰色の空を見つめた。
「私は、規定の番人としてここに来ました。ですが、この街で見たものは……規定だけでは測れない、人の力でした。あなたの、そして、あなたの仲間たちの」
ふっと、彼女の口元に自嘲と、ほんの少しの誇りが入り混じったような笑みが浮かぶ。
「規定外の措置です。……感謝、してくださいね、シルス・グリセウス」
最後に俺の名前を呼び、彼女は静かに立ち上がった。その背中は、来た時と同じように凛としていたが、去り際には確かな人間味を残して、応接室を後にした。
入れ替わるようにして現れたのは、もう一人の嵐、ゼノン・ヴァレリウスだった。彼は腕を組み、ふんぞり返るような態度で俺の前に立つと、高らかに宣言した。
「おい、グリセウス! 今回は貴様に華を持たせてやったが、勘違いするなよ!」
「……誰も頼んでないが」
「うるさい! 我がヴァレリウス家の魔法こそが至高であることに変わりはない! だが、貴様のあの奇妙な魔法……少しだけ、ほんの少しだけ、興味が湧いた。次に会う時までに、我が家の秘術でさらに上を行ってやる!」
彼の瞳には、以前の傲慢さとは質の違う、純粋な闘志が燃えていた。それは、己のプライドを賭けて好敵手に挑む、求道者の光だった。
「首を洗って待っているがいい! 次こそは、俺が勝つ!」
そう言い残し、彼は風のように去っていった。まったくもって、面倒くさいことこの上ない。だが、不思議と悪い気はしなかった。
こうして王都からの訪問者たちが去り、喧騒が嘘のように静まり返った。あれだけ大々的に掲げられた「魔力災害特別対策チーム」の看板も、リヴィアの報告書一行で正式に解散となり、俺たちの職場は「仮設執務室」から、見慣れた「市民安全課の執務室」へと戻っていた。いや、正確には、いつもの日常に「事後処理」という名の巨大な山が加わっただけなのだが。
「シルスくぅん……、災害復旧のための緊急予算会議、また差し戻されちゃったよぉ……」
課長のルキウスが、死人のような顔で書類の束を差し出してくる。彼の机の上には、空になった胃薬の瓶が墓標のように転がっていた。
「魔力インフラの老朽化対策を進言したんだが、『前例がない』『予算がない』の一点張りでねぇ……。結局、またスライムが湧いたら、その場しのぎで対応しろってことらしい……」
「……はあ」
魔法生物の生活害虫化。まさに、この国の縮図だ。根本治療より対症療法。未来への投資より、目先のコスト削減。鳴り響く電話のベルが、俺たちの憂鬱をさらに加速させる。
「はい、市民安全課!……ええ、はい。スライムがまだいる? マンホールの蓋の隙間から?……はあ、鋭意対応しておりますので……」
受話器を置いた俺は、天を仰いだ。終わらない。この手の苦情は、あと半年は続くだろう。
そんな俺たちの部署に、意外な訪問者があった。清掃業者のガイウスだ。彼は大きな革袋を手に、俺の机までやってきた。
「よう、役人さん。今回の件、あんたには世話になったな。これは市から出た清掃費用の一部だ。迷惑料だと思って、取っといてくれ」
「いえ、これは受け取れません。仕事ですから」
「固いこと言うなよ。あんたがいなきゃ、今頃この街はススの塊だったんだ。ま、気が向いたら、その金で美味い酒でも飲んでくれ」
ガイウスはそう言うと、革袋を俺の机に押し付け、豪快に笑って去っていった。中からは、ずしりとした金属の感触が伝わってくる。
その一部始終を見ていたのだろう、総務課のクラウディアが、わざとらしく大きなため息をつきながら俺に近づいてきた。
「まったく……あの脳筋も、あなたみたいなのがいるから調子に乗るのよ。今回の報告書、読ませてもらったわ。……まあ、及第点、ってとこかしらね。あの状況で、よくやった方なんじゃないの」
彼女はそっぽを向きながら、小さな声で付け加えた。そのツンとした態度の裏に、確かな安堵と、ほんの少しの賞賛が滲んでいるのを、俺は見逃さなかった。
そして、終業の鐘が鳴り響き、空が茜色から深い藍色に変わる頃。俺の机の上には、エベレストのごとき書類の山が、まだそびえ立っていた。
ああ、そうだ。これが俺の日常だ。世界を救っても、残業はなくならない。
だが、その日常は、以前とはほんの少しだけ違っていた。
以前はただ面倒事を避けることだけを考えていた。だが今は、この街を、そして隣にいる仲間たちを守ることも、自分の責任なのだと、そう思えるようになっていた。
「シルスさん、お疲れ様です」
ふと、隣から声がした。見ると、フェリクラが、そっと何かを差し出している。彼女の白い掌の上には、きらきらと光る、黄色いブドウ糖キャンディが一つ。
「どうぞ。新しい味、レモンです」
彼女は、はにかむように微笑んだ。その笑顔が、残業でささくれだった俺の心に、じんわりと染み渡っていく。俺たちの間には、あの夜を越えた者だけが共有できる、静かで確かな信頼関係が生まれていた。
俺は、そのキャンディを受け取ると、口の中に放り込んだ。甘酸っぱい味が、疲れた脳に染み渡る。
相変わらず、目の前には山のような書類と、終わらない残業が待っている。胃の痛みも、まだ完全には消えていない。
だが、俺の隣には、こうしてそっとキャンディを差し出してくれる共犯者がいる。
この、少しだけ変化した灰色の日常も、まあ、悪くないのかもしれない。
俺は、そんなことを考えながら、次なる書類の山へと手を伸ばした。物語は、まだ始まったばかりだ。
どうも、シルスです。
長かったような短かったような第二章も、これにて閉幕です。最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました。
王都からの嵐は去りましたが、俺の日常には相変わらず書類の山と胃痛の種が尽きません。でも、隣で差し出されるブドウ糖の甘さが、以前より少しだけ心強い。
さて、第三章ではどんな面倒事が待っているのやら。平穏な日々を願う俺の明日はどっちだ。
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