エピソード021:不本意な共同戦線と専門家の矜持
空気が悪い。物理的にも、精神的にも。
市役所の大会議室を急遽転用した災害対策室は、窓という窓が固く閉め切られ、ひっきりなしに出入りする職員たちの汗と、床にこびりついた黒いススの微粒子が混じり合った、澱んだ空気に満たされていた。壁に貼られた巨大な地図には、被害区域を示す赤いピンが無数に突き立てられ、まるで街が原因不明の発疹にでも罹ったかのようだ。
「――というわけで、現状、原因は依然として不明。ただし、旧市街第七区画を中心に、微弱な空間歪曲反応が確認されています。便宜上、これを『次元漏洩』と呼称します」
ホワイトボードの前で説明しているのは、王都から派遣された監査官、リヴィア・コルネリア。彼女の涼やかな声だけが、この混沌とした空間で唯一、秩序を保っているように聞こえた。
「次元漏洩、か。そんなものでは……」
腕を組んで忌々しげに呟いたのは、これまた王都からの専門家、ゼノン・ヴァレリウス。彼は、リヴィアが用意したデータを鼻で笑うように一瞥すると、自らが持ち込んだ水晶板を操作し始めた。
「我がヴァレリウス家に伝わる空間観測術によれば、これは漏洩などという生易しいものではない。むしろ、異界からの『侵食』と呼ぶべき現象だ」
「侵食だろうが漏洩だろうが、どっちでもいい。要は、あの黒いススをどうにかしろって話だろ」
今度は、設備管理課のクラウディアが、油の染みた指で自身の額を叩きながら吐き捨てた。
俺、シルス・グリセウスは、この三者三様の専門家(と、その隣でオロオロしている俺の共犯者、フェリクラ)を眺めながら、本日何度目か分からない深いため息をついた。胃が痛い。課長から拝借した胃薬は、もう底をつきそうだ。
事の発端は数時間前。街のあちこちで発生した黒いススは、やがて旧市街の一角に集中し、ついには空中に微かな亀裂を生じさせた。俺の使った応急処置魔法の副作用が、最悪の形で具現化した瞬間だった。この未曾有の事態に、偶然居合わせた王都組と、俺たち地元の職員が、なし崩し的に協力することになったのだ。
「私の調査は一時中断します」リヴィアは冷静に宣言すると、一同を見渡した。「王国危機管理法第十七条第二項に基づき、カテゴリーA災害発生時における現場指揮権の臨時移譲を宣言します。これより、本件の対処は私が執り行う。テルティウス市の職員、およびゼノン殿にも、正式に協力を要請します」
「フン、当然だ。このような田舎役場の連中だけに任せてはおけんだろう。俺の魔法の有用性を示す、またとない機会でもある」ゼノンは尊大に頷いた。
こうして、俺、フェリクラ、クラウディアの地元組に、リヴィアとゼノンの王都組が加わった、即席の共同戦線が張られた。後方支援と住民避難は、ガイウスさん率いる清掃チームと市の警備班が担当してくれている。問題は、この最前線にいる俺たちのチームワークが、絶望的に終わっていることだった。
「だから、ヴァレリウス家の観測術が絶対だと言っている!」
「水晶玉を覗くだけの占術と、実測データを元にした分析を混同しないでいただきたい」
「そもそも、あんたらのせいで話が進まないんだよ!こっちは検知器の調整で手一杯だってのに!」
誰もが自らの正しさを主張し、誰もが相手を見下している。まるで、プライドだけを燃料にして回る、壊れかけの風車だ。
「……なあ!」
俺は、少しだけ声を張った。ようやく、全員の視線がこちらを向く。
「喧嘩はそのくらいにして、情報を整理しないか。リヴィアさんのデータと、ゼノンの観測、それにクラウディアの検知器のログ。全部、少しずつ違う角度から同じものを見てるだけだ」
俺はテーブルに広げられた羊皮紙と水晶板を指さす。「リヴィアさんの言う『漏洩』は裂け目の規模とエネルギー放出量。ゼノンの『侵食』はその性質。クラウディアの検知器が拾ってるのは、その結果生じた魔力インフラへの影響だ。目的は同じはずだ。あの裂け目をどうにかする。そのために、今は互いのプライドより、互いの知識を出し合うべきじゃないのか」
俺の言葉に、三人は押し黙った。互いの顔を見合わせ、バツが悪そうに視線を逸らす。
「……よろしい。あなたの提案を受け入れましょう」リヴィアが折れた。「ですが、シルス・グリセウス。あなたには、この事態を収拾する具体的な策があるのですか?なければ、ただの理想論ですよ」
「ああ、一つだけな」俺は覚悟を決めた。「俺が、あの裂け目を閉じる。ただし、儀式魔法の準備に時間がかかる。最低でも三十分。その間、前線の維持と、儀式の準備を手伝ってもらいたい」
「儀式だと?またあのふざけた踊りでも見せるつもりか」ゼノンが嘲笑う。
「ふざけてるかどうかは、結果で判断してくれ。あんたには、その自慢の魔法で、裂け目から漏れ出てくるエネルギーを防ぐ壁を張ってもらいたい。できるか?」
「……造作もないことだ」
専門家としての矜持を刺激されたのか、ゼノンは渋々頷いた。
「クラウディア」
「はいよ。で、あたしは何をすりゃいいんだい?」
「儀式に必要な魔力伝導路の確保だ。現場のインフラ網から、儀式用のラインを一本、俺の指示通りに繋いでほしい。それと、魔力検知器で周囲のエネルギー変動をリアルタイムで監視してくれ」
「了解。……けど、この旧式センサー、さっきからノイズが酷くてね。ちょっと待ってな」
クラウディアは工具を手に取ると、検知器の蓋を再びこじ開けた。細い指が内部の水晶回路をなぞり、時折、舌打ちをしながら調整を加えていく。「ったく、こんなガラクタで精密作業させんじゃないよ。……よし、こんなもんか。これでさっきよりはマシな数字が出るはずだ。壊れたらあんたのツケだからな、覚えとけよ」
彼女の毒舌は健在だが、その瞳には職人の光が宿っていた。
「ガイウスさんには、儀式場の設営をお願いしたい。瓦礫を撤去して、俺が魔法陣を描くためのスペースを確保してくれ」
無線機から、威勢のいい返事が返ってくる。『おう、任せとけ!こういうのは俺たちの専門だ!』
現場にいるガイウスさんは、瓦礫の一つを軽々と持ち上げると、安全な場所へと放り投げた。その腕力に、ゼノンが鼻を鳴らす。「フン、筋肉だけが取り柄の蛮族か」
『ああん?なんか言ったか、そこのモヤシっ子!』
「誰がモヤシだ、この脳筋ゴリラが!」
小競り合いが始まりそうになるのを、俺は慌てて咳払いで制した。
「フェリクラは、俺の助手を頼む。儀式に必要な道具の準備と、……その、なんだ、色々だ」
「は、はい!お任せください!」
フェリクラは、俺の曖昧な指示に、しかし力強く頷いた。彼女は俺が何を恥ずかしがっているのか、正確に理解している。そう、あの儀式には、準備運動が不可欠なのだ。しかも、傍から見れば、それはただの奇妙な体操にしか見えない。
俺は物陰に隠れ、こっそりと屈伸や伸脚を始めた。フェリクラは、どこからか持ってきた大きなタオルを広げ、まるで壁のように俺の姿を周囲の視線から遮ってくれる。完璧なサポートだった。
その時だった。じゅっ、と肉の焼けるような音と共に、甘ったるい匂いが鼻をついた。裂け目から漏れ出た高熱のススが、床にこびりついていたスライムの残骸をカラメル状に変質させたのだ。
「……なんか、腹減る匂いだな。無性に焼きプリンが食いたくなってきた」
誰かが呟いた一言で、張り詰めていた空気が一瞬だけ緩んだ。
だが、その平穏は長くは続かない。
「シルス!第二次反応、来るぞ!」
クラウディアの絶叫が響き渡る。検知器の針が、危険領域を振り切って激しく震えていた。壁に映し出された裂け目が、不気味な光を放ちながら、先ほどよりも明確にその輪郭を広げ始めている。空気が軋むような圧迫感が、部屋全体を包み込んだ。黒いススが、今度は濁流となってこちらへ押し寄せてくる。
「全員、配置につけ!これより、テルティウス市災害対策本部、総力戦を開始する!」
リヴィアの号令が、混沌の只中に響き渡った。
どうも、シルスです。
不本意ながらも、王都組と地元組の即席チームが動き出しました。専門家たちのプライドがぶつかり合う中、なんとか作戦開始です。筋肉ゴリラだのモヤシっ子だの、小学生みたいな喧嘩してる場合じゃないんですが。
いよいよ全員が持ち場につき、準備は整いました。次話、俺の恥ずかしい儀式が火を噴きます。……いろんな意味で。
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