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エピソード020:燻炭化の恐怖と最後の覚悟

ギシ、ギシ……。メキメキッ!

乾いた断末魔のような音が、荘厳な静寂を支配していた市庁図書館に響き渡る。音の発生源は、天井まで届く巨大な書架だ。歴史の重みをその身に刻んできたはずのオーク材が、まるで呪われたかのように黒く変色し、その表面に無数の亀裂を走らせていた。燻炭化。接触した物質から魔力を根こそぎ奪い取り、その構造を破壊する、悪夢のような現象。


パチリ、と最後の魔力灯が消え、頼りないガス灯の光だけが室内を照らす。その光に照らされて、黒いススが雪のように舞い、床に、本に、そして俺の肩に静かに降り積もっていく。


「……嘘だろ」


俺の口から漏れたのは、あまりに現実感のない光景に対する、乾ききった呟きだった。目の前で、分厚い装丁の歴史書が、ページを開かれることなく黒い灰の塊へと変わっていく。パラパラと音を立てて崩れ、床に黒い染みを作った。焦げ付くような、それでいて冷たい匂いが鼻をつく。知識が、歴史が、人類の叡智が、ただの炭素の塊になっていく。


「シルス様! あちらの書架が……!」


フェリクラの悲鳴に振り返る。視線の先、図書館の奥まった一角で、巨大な書架がスローモーションのように傾ぎ、やがて轟音と共に崩れ落ちた。舞い上がる大量の黒い灰が、まるで黒い吹雪のように視界を覆う。俺は、その光景に声もなく立ち尽くすしかなかった。あまりの無力さに、握りしめた拳がわなわなと震える。


街の混乱は、もはやパニックと呼ぶにふさわしい段階に移行していた。魔力インフラの停止は、市民生活の根幹を揺るがした。照明を失った家々から人々が溢れ出し、わずかな光を求めてロウソクやランプオイルを扱う店に殺到。奪い合いに近い騒動が各地で頻発していた。「スライムのせいでシチューが焦げた!」「洗濯物がススだらけだ!」といった苦情電話は、もはや可愛い部類だ。高熱を発するスライムが発する異臭は街中に充満し、清掃員のガイウスが「ちくしょう、この粉もタダじゃねえんだぞ!」とぼやきながら消臭剤を撒き散らしているが、焼け石に水、いや、焼けスライムに粉だった。


「このままでは、街が……」


フェリクラが青ざめた顔で呟く。その時、俺の懐で通信機がけたたましく震えた。クラウディアからだ。ノイズ混じりの音声が、切迫した状況を物語っている。


『シルス! とんでもないことになってる! ススの数値が計器の限界を超えた! 90分前の測定値と比べて、もう桁が違う!』


『空間の裂け目も拡大してる。古い文献にある『次元の歪み』ってやつかもしれないが……正直、理論は分からん。ただ、このままだと街全体が巻き込まれる』


『対処法? そんなもの、設備管理課のマニュアルにあるわけないだろう!』


次元漏洩。その言葉が、俺の脳天を殴りつけた。燻炭化による物理的破壊など、前菜に過ぎない。メインディッシュは、街の存在そのものの消滅。俺の胃が、抗議の声を上げるようにキリキリと痛み始めた。


「……胃が、痛い……」


「シルス、これを」


ふと、目の前に差し出されたのは、一枚の古い羊皮紙だった。フェリクラが、真剣な眼差しで俺を見つめている。


「図書館の奥で見つけた『次元の歪み』に関しての古代文献の写しです。この古代ルーン文字の解読ですが……文脈から判断するに、これは『失われた秩序を、原初の静寂へ還す』ための道標。つまり、この暴走した魔力を、発生源である裂け目に強制的に送り返すための……」


「……座標指示器、か」


彼女の言葉を引き継ぎながら、俺は思考を巡らせる。黒いススは〈魂位シグナル〉のノイズ。俺が中途半端に処理した「汚染」の逆流。そして、その汚染を完全に相殺できるのは、汚染そのものを「受け入れる」ことを前提に設計された、あの儀式魔法だけ。古代文献の座標指示方法を応用すれば、魔力をより正確に裂け目の中心へ送り込めるはずだ。


胃痛ごときで、この街を見捨てるのか? 省エネだ、残業はごめんだと嘯いて、目の前の危機から逃げるのか? 俺の脳裏に、かつて守れなかった者たちの顔が浮かぶ。もう、あんな思いはたくさんだ。


「……ああ、クソ。分かってるよ」


俺は天を仰ぎ、深く息を吐いた。省エネ上等、定時退庁万歳。だが、その信条は、守るべき日常があってこそだ。その日常が根こそぎ奪われようとしている今、俺が取るべき選択は、一つしかない。


「……決めた」


俺は静かに立ち上がった。その目には、諦観と、そして微かな決意の色が宿っていた。


「なあ、フェリクラ。危機的状況だってのに、喉がカラカラで死にそうだ。地下には古代の自動販売機が眠ってて、キンキンに冷えたサイダーが飲み放題だって話……信じるか?」


「し、シルス様? 何を……? 今、そんな場合では……」


「だよな。分かってる。……少し、準備運動をしてくる」


俺は短く告げると、書架の陰へと姿を消した。人目がないことを確認し、大きく伸びをしてから、屈伸、伸脚、アキレス腱伸ばし――忌まわしき儀式魔法の準備運動を始める。一つ一つの動作が、空間の法則に干渉するためのトリガーとなっているのだが、傍から見ればただのストレッチだ。しかも、なぜか妙に情けない動きが多い。


「両手を広げて、宇宙のエネルギーを……」


「……あの、グリセウス様? その、奇妙な踊りは一体……?」


振り返ると、そこには目を丸くした年配の司書が立っていた。見られた。この街で最も知的な人物の一人に、この最も知性の欠片もない準備運動を。俺の顔から、サッと血の気が引いていくのが分かった。


「ち、違う! これは腰痛予防のための最新式エクササイズで、その、古代から伝わる由緒正しい……」


我ながら支離滅裂な言い訳を並べ立てながら、俺は最後の覚悟を決めた。羞恥心など、街の消滅に比べれば塵芥に等しい。


「フェリクラ! クラウディアに通信! 裂け目の精確な座標を測定させろ! ガイウスには市民の最終避難ラインの構築を指示! 俺は現場に突っ込む!」


仲間たちへ最後の指示を飛ばす。もう後戻りはできない。覚悟すべきは、これから始まる過酷な残業と、そして、避けようのない極大の羞恥心。俺は、黒い灰が舞う図書館の闇へと、一人静かに踏み出した。

どうも、シルスです。

街の崩壊までのカウントダウンという、ブラック企業も裸足で逃げ出すレベルの残業が確定しました。おまけに、人生最大の恥を司書さんに見られる始末。もう私の胃は限界です。

しかし、覚悟は決めました。儀式の準備は万端です。次回「不本意な共同戦線と専門家の矜持」では、あの気に食わない監査官やエリート様と、まさかの共闘……? 考えるだけで胃痛が再発しそうです。

皆様の応援(評価、ブックマーク、感想、いいね)が、私の唯一にして最強の胃薬です。何卒、よろしくお願いいたします!

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