エピソード019:黒いススと失くした銀貨
市庁舎の第二会議室は、重苦しい沈黙に支配されていた。壁掛け時計の真鍮の針が、カチリと音を立てて午前八時十五分を指し示す。その音だけが、やけに大きく響いた。
「――中央監察局特別令状、発効まで残り四十五分」
氷のように冷たい声で、監査官リヴィア・コルネリアが告げた。彼女の視線は、テーブルの一点に固定されたまま、俺たち市職員の誰にも向けられていない。だが、その言葉は鉛のように重く、俺の胃を直接締め上げた。キリキリとした痛みに耐えながら、俺は無意識に制服のポケットに手を入れる。いつもそこにあるはずの、硬くて冷たい感触がない。指先が虚しく布地を撫でるだけだった。血の気が引く。あの銀貨がない。
その瞬間、庁舎全体を揺るがすように、けたたましい洪水警報のベルが鳴り響いた。
「……なんですか、この警報は」
リヴィアが細い眉をひそめた。その直後、執務室のドアが勢いよく開かれ、息を切らした係員が駆け込んできた。
「リヴィア監査官! 緊急事態です! 市街地各所で黒いススが大量発生、住民への健康被害が懸念されます!」
リヴィアの表情が一瞬で変わった。彼女は懐中時計を確認すると、舌打ちをする。
「……中央監察局の権限では、進行中の災害対応を優先せざるを得ません。令状の執行は、この緊急事態が収束するまで延期とします」
俺は内心でガッツポーズを取りそうになったが、表情は必死に抑えた。
「ただし」リヴィアは冷たい視線を俺たちに向ける。「この事態の収束後、必ず立ち入り調査を実施します。逃げられると思わないことです」
会議は中断され、俺たちは現場へと急行することになった。
乾いたアスファルトに、黒い染みがじわりと広がっていく。まるで悪性の腫瘍だ。市庁舎前の広場から聞こえる市民の声には、日増しに苛立ちが滲んでいた。
「おい、まただぞ! 一時間おきにマンホールから黒いススが噴き上げやがる!」
「うちの店の看板、ススで真っ黒だ。どうしてくれるんだ、税金泥棒!」
俺、シルス・グリセウスは、その罵声を背中で受け流しながら、新たに設置された「臨時通行止め」の立て看板を眺めていた。スライムの粘液と黒いススが化学反応を起こし、アスファルトをじわじわと溶解させる。そのせいで、俺のデスクには「道路補修予算の臨時支出申請書」という、見たくもない書類が山積みになっていた。またしてもスライム。迷惑極まりない。
庁舎の窓から外を見れば、ガイウスが路面電車の高架線路にぶら下がり、噴出したススで溶断しかけた鉄骨を必死に冷却しているのが見えた。高熱で陽炎が立ち上り、その下では避難誘導された市民たちが不安げに空を見上げている。
「シルス! 第三地区の避難誘導はどうなってる!?」
ルキウス課長の怒鳴り声が飛んできた。普段は責任回避に徹する彼も、この緊急事態には流石に焦っているようだ。俺は慌てて書類を掴み上げる。
「あ、はい! 今すぐ確認を……」
書類を確認しようとして、無意識にポケットに手を突っ込む。銀貨がない。その事実に気を取られ、手元の書類を派手にぶちまけてしまった。
「何やってんだシルス! 緊急事態だぞ!」
「す、すみません!」
慌てて書類を拾い集める。だが頭の中は銀貨のことでいっぱいだった。いつ落としたんだ? 朝の会議で転んだ時か? それとも……
「シルスさん、旧市街の第7地区、魔力供給が不安定で街灯が軒並み消灯したそうです! 住民がロウソクを求めて雑貨店に長蛇の列を……」
フェリクラが息を切らして報告に飛び込んできた。黒いススが持つ魔力吸収の性質が、街のインフラを確実に蝕んでいる。俺はこめかみを押さえた。頭痛と胃痛の二重奏だ。
「……分かってる。第七地区の件は、えーと……」
俺は慌てて机の上の書類を探る。だが、目に入るのは別の書類ばかり。集中できない。ポケットの中身がないことが気になって仕方ない。
「シルスさん? 大丈夫ですか?」
フェリクラが心配そうに俺を見つめる。その視線が痛い。彼女からもらった大切な銀貨を失くしたなんて、言えるわけがない。
「あ、ああ。ちょっと書類が多すぎて……第七地区の件は、ガイウスのチームに回してくれ」
「でも、それはシルスさんの担当では……」
「頼む! 今は手が回らない!」
俺は苛立ちを隠せずに声を荒げてしまった。フェリクラは驚いたように目を見開き、そして小さく頷いて立ち去った。最悪だ。八つ当たりしてしまった。
午後になっても事態は収束しない。黒いススの被害報告は増える一方で、俺は書類処理に追われた。だが、まともに仕事が手につかない。
「シルス、この避難所の配置図、間違ってるぞ」
ガイウスが俺の作成した資料を持ってきた。見れば、第五地区と第六地区の位置を完全に取り違えていた。
「あ、すまない……」
「どうした? らしくないミスだな。体調でも悪いのか?」
「いや、大丈夫だ。ちょっと疲れてるだけで……」
嘘だ。銀貨のことで頭がいっぱいで、まともに仕事に集中できない。このままじゃ、市民の安全にも関わる。だが、今は探しに行く時間もない。
「無理するなよ。緊急事態だからこそ、冷静さが必要だ」
ガイウスはそう言って去っていった。その言葉が胸に突き刺さる。
夕方。ようやく定時のチャイムが鳴り、職員たちが次々と帰路につく。緊急対応は一段落し、明日以降の対策会議も終わった。俺は書類の山に埋もれたデスクで、残業を装っていた。
「シルスさん、まだ帰らないんですか?」
フェリクラが心配そうに覗き込んでくる。
「ああ、この報告書を仕上げないと……」
嘘だ。本当は銀貨を探したいだけだ。だが、そんなことは言えない。
「無理しないでくださいね。あ、これ差し入れです」
彼女はコーヒーとブドウ糖キャンディを置いて帰っていった。
俺は庁舎が静まり返るのを待った。午後七時、最後の職員が帰るのを確認してから、ようやく本格的な捜索を開始する。
「よし、今なら……」
朝の会議室から始めて、転んだ廊下、そして執務室への経路を辿る。床に這いつくばり、机の下、椅子の隙間、ゴミ箱の中まで確認した。
「くそっ、どこに転がったんだ……」
制服の膝は埃まみれになり、手には小さな擦り傷ができた。それでも見つからない。三階の資料庫、二階の会議室、一階のロビー。考えられる場所は全て探した。時計は既に午後八時を回っていた。
日中のミスの連続が頭をよぎる。避難所の配置図の間違い、書類の提出遅れ、フェリクラへの八つ当たり。全て、この銀貨のせいだ。いや、違う。銀貨を失くした俺のせいだ。
その時、ガイウスから簡潔な連絡が入った。
『シルス、現場の初期対応が終わった。黒いススの詳しい分析は明日からだ。とりあえず住民の避難は完了した』
「おつかれさま。ゆっくり休んでくれ。」
『それより、お前の方は大丈夫か? さっきから妙にそわそわしてるように見えたが』
「ああ、問題ない。ありがとう。」
俺は短く答えて通信を切った。ガイウスの鋭い観察眼は厄介だ。銀貨を失くしていままで探していたことなど、知られるわけにはいかない。
俺を苦しめるのは、フェリクラからもらった大切な銀貨を失くしてしまったという事実だった。そして、そのせいで今日一日、市民の安全を守るべき仕事でミスを連発したこと。
庁舎はとっくに静まり返り、廊下を歩く足音だけが虚しく響く。
「もう一度、朝の会議室を……」
俺は諦めきれずに会議室に戻る。テーブルの下を這いずり回り、椅子の脚の隙間まで確認する。だが、やはり見つからない。あの銀貨は、フェリクラが俺を信頼してくれた証だ。それを失くしたなんて、どう説明すればいい?
だが、どれだけ探しても見つからない。庁舎前の側溝は、雨水排水のために旧市街の地下水路に繋がっている。もし銀貨が側溝に落ちていたら、今頃は地下の奥深くまで流されているかもしれない。
「まさか……」
俺は絶望的な可能性を考えた。今頃は地下トンネルに、銀貨が流れ着いているかもしれない。だが、今の状況では近づくことすらできない。
黒いススの災害対応と、失くした銀貨の捜索。俺は二重の苦境に立たされていた。胃が、キリキリと痛む。明日になれば、リヴィアの立ち入り調査が再開される。時間がない。何もかもが、俺の手の中で崩れ落ちていく。
夜が更けても、俺の捜索は続いた。
どうも、シルスです。
黒いススの緊急対応中に、フェリクラからもらった大切な銀貨を失くしてしまいました。気が散って仕事でミスを連発し、周囲に迷惑をかけ、挙句の果てにフェリクラに八つ当たり。最悪の一日でした。
残業時間を使って必死に探しましたが、結局見つからず。明日にはリヴィアの立ち入り調査も再開されます。
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