エピソード002:書類の不備とブドウ糖キャンディ
毎日朝6時投稿予定です。
昼休みを返上して、俺は合同庁舎の別棟にあるキウィタス魔術相談所のカウンターに立っていた。
天井の魔力灯はいくつかの球が寿命なのかチカチカと明滅を繰り返し、壁には「スライム転倒被害の保険金請求はこちら」「魔力線からの異音に関するご相談」といった、生活に密着しすぎたポスターが所狭しと貼られている。空気は、市民の細々とした不満と、古紙の匂いで満ちていた。魔法の神秘性など、ここには微塵も存在しない。
「――それで、お待たせいたしました。グリセウスさん」
カウンターの向こう側から、鈴の鳴るような、しかし感情の乗らない声がした。
声の主は、受付担当のフェリクラ・ミヌタ。糊のきいた制服に身を包み、完璧なまでの事務スマイルを浮かべている。
「課長から預かってきた書類だ。保険金請求手続きに関するものだと聞いている」
俺はルキウス課長から押し付けられた書類の束を、カウンターに置いた。これで午前の仕事は一段落、とはいかないのが役所仕事の常だ。
フェリクラは、その書類の束を手に取ると、指サックをつけた人差し指で一枚一枚、驚くべき速さで確認し始めた。その目は、獲物を狙う鷹のように鋭く、書類の隅々までスキャンしていく。
「……はい、確認いたしました。グリセウスさん」
数分後、彼女は顔を上げ、完璧な笑顔を崩さないまま、しかし有無を言わせぬ口調で言った。
「こちらの書類、3ページ目の申請者押印欄の枠線が、旧様式のものになっております。また、5ページ目の添付資料リストですが、最新の通達で追加された『発生現場の簡易見取り図』が添付されておりません」
「……は?」
「規定ですので」
彼女はにっこりと微笑むと、書類の束を俺の前にそっと押し返した。その動きは、川の流れのように自然で、一切の反論を許さない。
「悪いが、この書式を作ったのは俺じゃない。課長から渡されたものをそのまま持ってきただけだ」
「承知しております。ですが、このままでは受理できかねます。規定ですので」
(出た、伝家の宝刀「規定ですので」。これさえ唱えれば、思考を停止し、相手の心を的確に抉ることができる、古代より伝わる禁断の呪文だ)
俺は内心で天を仰いだ。この問答に意味はない。彼女はマニュアルという名の結界に守られており、俺の言葉など届きはしないのだ。
「……わかった。課長に伝えて修正させる」
「はい、よろしくお願いいたします」
俺が降参すると、フェリクラは満足げに頷いた。その瞬間、彼女の体がわずかにぐらりと揺れたのを、俺は見逃さなかった。
「おい、大丈夫か?」
「え? あ、はい。申し訳ありません。少し、魔力が……」
彼女はそう言うと、慌てて制服のポケットから何かを取り出した。カラフルな包み紙。それは、子供向けの安価なブドウ糖キャンディだった。彼女は器用に包み紙を破ると、小さな一粒を口の中に放り込んだ。
その姿に、俺は今朝の光景を思い出していた。
魔力循環促進儀式で、一人だけワンテンポずれて、よろけていた彼女の姿。
なるほど、魔力効率が悪いのか。だから、簡易な鑑定魔法を数回使っただけで、こうして糖分を補給しないといけない、と。
「……お前、いつもそれを?」
「はい。これがないと、午後の業務に差し支えますので」
彼女は少し恥ずかしそうに笑った。その笑顔は、さっきまでの完璧な事務スマイルとは違い、どこか人間味があった。
(……調子狂うな)
そう思った。
書類の不備を指摘する手強さも、すぐに魔力切れを起こす燃費の悪さも、全部ひっくるめて。
恋愛感情だなんて、そんな高尚なものじゃない。ただ、なんとなく、目が離せない。放っておけない。そんな、厄介な感情。
結局、俺は徒労感だけを抱えて、自分のデスクへと戻ることになった。
席に着き、修正箇所を記した付箋を書類に貼り付けながら、ふと自分のPC画面に表示されたスライム発生件数の集計データに目をやる。
「……なんだ、この数字は」
グラフの折れ線が、ここ数日で異常な角度で跳ね上がっていた。
過去のどの統計データとも比較にならない、爆発的な増加。
それは、いつもの「迷惑な日常」が、質の違う「都市問題」へと変貌しつつあることを、静かに、しかし明確に示していた。
どうも、シルスです。
書類は突き返されるし、気になる相手は面倒なタイプだしで、俺の疲労は溜まる一方です。
おまけに、スライムの様子がどうもおかしい。
ただでさえ忙しいのに、これ以上厄介事を持ってこないでほしいものです。
次回、この異常なスライム発生の原因を、少しだけ探ることになります。もちろん、残業で。
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