エピソード014:監査官の追及と胃痛の悪化
深夜の文書倉庫への潜入は、結局のところ、空振りに終わった。地下封印室の鍵に関する記述は、まるで最初から存在しなかったかのように、どこにも見当たらなかったのだ。おかげで俺の胃は、昨日の最高記録をあっさりと更新する羽目になった。仮設執務室の床では今日もスライムがぬめり、昨夜俺が貼り直したはずの転倒注意の警告テープが、またしても無惨に剥がれかけている。ああ、また残業か。
そして翌日。約束の時間きっかりに、特別監査官リヴィア・コルネリアは再び特別対策チームに姿を現した。その手には、昨日俺たちが提出した追加資料が握られている。
「おはようございます。早速ですが、調査を再開します」
感情の読めない声が、仮設執務室の重い空気をさらに沈ませる。リヴィアは長机の中央に陣取ると、資料を扇状に広げ、昨日と同じように、その矛盾点を一つ、また一つと指摘し始めた。
「こちらの〈魔力収支ログ〉ですが、午前三時から五時にかけて、管轄区画で異常なスパイクが観測されています。にもかかわらず、対応するインシデント報告が一件も上がっていません。これはどういうことでしょう?」
「……それは、夜間の自動メンテナンスによるものでは。定期的な魔力槽の洗浄かと」俺は当たり障りのない言い訳を口にする。
「その洗浄スケジュールは、市の規定では月曜の早朝のはず。昨日は火曜です。規定外の作業があったのであれば、なぜ事前申請書が出ていないのですか?」
「メーターの誤作動という可能性も。この地区の設備は老朽化が激しいので」
俺はここぞとばかりに、用意していた証拠物件を提示した。
「これをご覧ください。先週撮影した、問題の区画の魔力メーターです。そしてこちらが、同時刻に職員が手計算で記録した魔力収支ログ。数値に乖離があるのは日常茶飯事でして」
くたびれた羊皮紙に焼き付けられた写真と、インクの染みが痛々しい手書きのログ。我ながら見事な「生活に疲弊した現場」の演出だ。
リヴィアは紫の瞳をすっと細め、二つの資料を指先でつまむようにして見比べた。
「なるほど。確かに数値は一致しませんね。ですが、奇妙です。メーターの記録では魔力消費が『減少』しているのに、手計算ログでは『増加』している。メーターが故障で数値を低く誤表示するならまだしも、高く表示される上に、消費の増減まで反転するとは。これは単なる老朽化ではなく、外部からの魔力干渉……あるいは、意図的な記録改竄を疑うべき事案では?」
冷や汗が背中を伝う。まずい、墓穴を掘ったか。その時、沈黙を破ったのは意外な人物だった。
「その現象、説明できるよ」
壁に寄りかかっていたクラウディアが、腕を組んだまま静かに口を開いた。
「この地区の魔力配管には、希少金属『響銀』が使われています。経年劣化で配管内にスライムの粘液が付着すると、粘液中の微量な酸性成分が響銀と反応し、一種のコンデンサ効果が発生するんです。結果、魔力が一時的に配管内に蓄積され、メーター上では消費が減少したように見える。その後、粘液が剥がれると蓄積された魔力が一気に放出され、スパイクが発生する。いわゆる『スライム結露』現象です」
淀みない技術解説。俺もフェリクラも、ただ呆然と彼女を見つめるしかない。
「……ほう。興味深い仮説ですね」リヴィアが初めて、わずかに眉を動かした。「ですが、あくまで仮説。それを証明できますか?」
「ええ、簡易的になら」クラウディアは顎で仮設執務室の隅を指した。「そこの予備の魔力ランタンと、床に残ったスライムの粘液を少々お借りします」
指示を受けた係員が、おずおずとランタンを運び、床に溜まった粘液を木べらで少量すくい取り、その配管に塗りつける。クラウディアが指を鳴らすと、ランタンがぼんやりと灯った。そして数秒後、光がふっと弱まり、次の瞬間、眩いばかりに強く明滅した。
「このように、魔力供給が不安定になる。これが誤作動の正体です」
「おお……!」フェリクラが感嘆の声を漏らす。
その時だった。デモンストレーションを終えて戻ろうとした係員が、足元に残っていたスライムの粘液にツルリと滑り――
「うわっ!?」
派手な音とともに前のめりに転倒。衝撃で木べらから“ぷるん”と弾けた粘液が宙を舞い、近くの書類タワーへスローモーションで落下した。
ゼリー状の飛沫が着地した瞬間、封蝋の赤とインクの黒がじわりと滲んでいく。被害は半径二メートルほど。致命傷とは言えないが、「重要案件」と朱書きされた書類が淡いミントグリーンに染まり、仮設執務室に気まずい沈黙が流れた。
リヴィアは紫の瞳でその一部始終を黙って見つめていたが、やがて深々と、これみよがしにため息をついた。
「……茶番はもう結構です。仮にその現象が事実だとしても、根本的な管理体制の不備を証明しているに過ぎない。庁舎の魔力メーターは、万一の故障に備え、手計算による紙の帳簿との二重管理が義務付けられているはずです。昨年度一年分の帳簿を、今すぐここに」
結局、話はそこに戻るのか。俺たちは顔を見合わせ、絶望的な気分で書庫へと走り、埃まみれの帳簿の束を机に運び込む。インクは滲み、ところどころ計算も合わない、素人目にもずさんな記録の山。魔法インフラの不便さが、今、俺たちの首を真綿で締め上げていた。
リヴィアは数冊をパラパラとめくると、興味を失ったようにそれを脇に置いた。
「話になりませんね。次の議題に移ります。この地下施設の構造図ですが、旧市街第7区の地下配管の記述が、市の基幹台帳と一致しません。台帳では『大規模地盤沈下により放棄』とされている区画に、なぜか現行の魔力配管が接続されている。その先は空白です。隠蔽された区画があると考えるのが妥当ですが、見解を」
核心に、じりじりと迫ってくる。俺が、そして俺たちが隠蔽した、あの忌まわしい魔力コアの存在。
「それは……例の地盤沈下で旧図面が使い物にならなくなり、現行の配管図は暫定的なものです。旧図面は資料室の奥深くにあるはずですが……」
「その『はず』では困ります」リヴィアは即座に切り返す。「なぜ正式な図面の再作成申請が出ていないのですか?市の重要資産の管理体制として、あまりに杜撰です」
「最近、その周辺のセンサーが時々、原因不明の微弱な魔力振動を拾うんです」再びクラウディアが助け舟を出した。今度は、より深刻な響きを声に含ませて。「地盤が不安定で正確な測量が難しいというのもありますが、それ以上に……旧時代の遺棄された魔力線からの干渉波の可能性が捨てきれない状況です」
「遺棄された魔力線からの干渉波……?」リヴィアの紫の瞳が、わずかに細められた。「市の台帳では、当該区画の旧魔力線は全て撤去済みと記録されていますが」
「ええ、公式には。ですが、あの地盤沈下で図面が混乱し、未回収の残骸が地下に残っている可能性は否定できません。それが現行の配管に干渉し、ノイズを発生させている。原因が特定できない以上、下手に手が出せない状況でして。まずは高精度の測定器による再調査から申請すべきかと……」
クラウディアの助け舟は、ありそうな話で調査を遅延させる苦肉の策だったが、リヴィアは数秒の沈黙の後、ふっと表情を消した。
「憶測で語るのはやめていただきたい。事実として、図面に不備がある。それだけです」
ぐうの音も出ない。小手先の言い訳では、この鉄壁の監査官を乗り切ることは不可能だ。もっと根本的な何か……この状況を覆す、起死回生の一手が必要だ。だが、そんなものが、今の俺にあるだろうか。
リヴィアは、俺たちの沈黙を肯定と受け取ったのか、一度だけ小さく頷いた。
「本日のところは、ここまでとします。ですが、明日までに追加資料の提出、並びに地下封印室の鍵の提示を求めます。ご協力、感謝します」
彼女はそう言い残すと、昨日と同じように、音もなく仮設執務室を去っていった。嵐が過ぎ去ったあとの静寂。だが、俺の胃の中は、未だ暴風雨の真っ只中だった。
その日の残業は、監査対応で荒れ果てた仮設執務室の片付けと、床に散らばったスライムの清掃から始まった。そして、例の警告テープの貼り直しだ。
「シルスさん、ここ、また剥がれてます」
「ああ、分かってる。安物はダメだな、すぐ粘着力がなくなる」
俺は新しいテープを手に、床に這いつくばる。フェリクラも隣で、粘液を雑巾で拭き取りながら手伝ってくれていた。彼女はこういう地味な作業も嫌な顔一つせずやってくれる。本当に頭が下がる。
「端が浮かないように、しっかり押さえないと……うーん、くっつかない……」
フェリクラが小さな指でテープの端を必死に押さえているが、粘液のせいでうまく貼り付かないらしい。その健気な姿が、やけに心に染みた。
「シルスさん、これ……その、糖分が足りないと、判断力が鈍りますから……」
片付けが一段落した頃、フェリクラが自分のポーチから取り出した小袋入りのブドウ糖キャンディを差し出してくる。その気遣いが、今はただ、胃に染みるようで痛かった。
どうも、シルスです。
監査官の追及は厳しく、書類の山と図面の謎に完全に追い詰められました。クラウディアの機転で一時しのぎはできたものの、状況は悪化する一方。胃痛スコアは自己ベストを大幅更新中です。誰か、この状況を打開する画期的な言い訳と、よく効く胃薬をください。
書類の不備、メーターの誤作動、そして図面の空白地帯。八方塞がりの状況で、救いといえばフェリクラが差し出してくれたブドウ糖キャンディくらいなものです。しかし、彼女のその優しさが、やがて俺たちをただの同僚から、秘密を共有する「共犯者」へと変えていくとは、この時の俺はまだ知らない。
次回「共犯者の秘密と古代銀貨」。一枚の古い銀貨に隠された暗号は、果たして俺たちを地下封印室の鍵へと導いてくれるのか。それとも、俺の胃が限界を迎えて砕け散るのが先か。
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