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エピソード013:王都からの監査官と所在不明の鍵

灰色の空気が、蛍光灯の白い光に溶けて市民安全課の執務室に澱んでいる。先のスライム騒動が過ぎ去ってからというもの、市民安全課の時計は深夜零時を指したまま壊れてしまったかのようだった。俺、シルス・グリセウスは、積み上がった書類の山と睨み合いながら、本日何度目か分からないため息を吐き出す。胃のあたりが、またしくりと痛んだ。


そもそも、この残業地獄の発端は、先日のスライム異常発生事件の後処理の一環で新設された「地下封印室の鍵」に遡る。いかにも厄介事の匂いがプンプンするその鍵の管理責任を、どの部署も押し付け合ったのだ。設備管理課は「管轄外だ」と言い、魔力管理局は「物理的な鍵は専門外」と主張し、我らが市民安全課は「これ以上面倒事を増やすな」と全力で抵抗した。結果、その鍵は宙に浮き、いつの間にか誰もその在処を知らない、という典型的なお役所仕事の産物と化していた。そんな都合の悪い事実など、書類の山に埋もれて忘れ去られるはずだった。今日までは。


「シルスさん、これ、新しい報告書です」

「……見なかったことにしてもいいか?」

「ダメです」


フェリクラ・ミヌタが、その手に抱えた紙の束を俺の机にそっと置く。彼女の気遣わしげな視線が、俺の胃にさらに追い打ちをかけた。彼女を面倒事に巻き込みたくない。その一心で儀式魔法を使った結果が、この終わりの見えない残業だ。本末転倒とはこのことだろう。


その時だった。市民安全課の執務室の扉が、何の予告もなく開かれた。そこに立っていたのは、見慣れない女だった。仕立ての良い、しかし一切の装飾を排した黒いスーツ。氷のように冷たい光を宿した紫色の瞳が、室内を睥睨する。


「テルティウス市役所、市民安全課ですね。私は王都中央監察局、特別監査官のリヴィア・コルネリアと申します」


リヴィアと名乗った女は、抑揚のない声でそう告げた。その場の空気が、ぴしりと凍てつく。王都。中央監察局。特別監査官。どれもこれも、俺たち地方公務員にとっては天敵のような単語のオンパレードだ。


「先日報告のあったスライム異常発生事案について、公式調査を開始します。提出された魔力収支報告書に、数値上ありえない変動が確認されましたので」


淡々と告げられる言葉に、課の全員が顔を見合わせ、そして静かに胃を押さえた。また、面倒事のお出ましだ。


その凍りついた空気を破ったのは、意外な人物だった。


「やあ、諸君。大変なことになったようだね」


ひょっこりと姿を現したのは、我らがルキウス課長だった。その手には、見慣れた胃薬の小瓶が握られている。彼はリヴィア監査官に軽く会釈すると、室内を見渡し、ことさらに重々しく頷いた。


「王都中央監察局の介入は、想定外の事態だ。これはもはや、市民安全課だけの一案件ではない。よって、たった今より、本件を『魔力災害緊急対応案件』と位置づける!」


課長は芝居がかった口調で宣言すると、一枚の辞令を掲げてみせた。


「本日この時をもって、市民安全課、設備管理課、魔力管理局の三課合同による『魔力災害特別対策チーム』の結成を命じる! 拠点はこの執務室を使用。諸君、これは戦争だ! 総力戦で乗り切るぞ!」


言うだけ言って満足したのか、課長は「なお、チームの指揮はシルス君、君に一任する。リヴィア監査官、調査への協力は、このチームが責任を持って行いますので」と、満面の笑みで俺の肩を叩き、リヴィアにぺこりと頭を下げた。


なし崩し的に設立された、特別対策チーム。そして、その拠点と化した、ただの執務室。いや、今日からここは「仮設執務室」と呼ぶべきか。俺は天を仰ぎ、フェリクラは呆れ果てたように肩をすくめた。



リヴィアの調査は、彼女の見た目通り、冷徹で容赦のないものだった。会議室の長机に市の提出した被害報告書と魔力計測ログを並べ、その矛盾点を指先で一つ一つ弾いていく。


「この期間、魔力消費量が三パーセント低下しているにも関わらず、スライムの発生数は七パーセント増加。誤差の範囲を超えています。説明を」

「それは、その……記録機器の経年劣化によるものでは……」

「全ての機器が同一個体差で劣化すると? 統計的にありえません。次」


俺の苦し紛れの言い訳は、完璧な理論武装の前では紙くず同然だった。リヴィアの紫の瞳が、俺の胃を的確に貫いてくる。痛い。


「シルスさん、これ……」


見かねたフェリクラが、そっとブドウ糖キャンディの包みを差し出してきた。彼女特製のレモン味。その心遣いが、荒んだ心に染み渡る。だが、その小さな希望の光すら、監査官は見逃さなかった。


「監査中の糖分摂取は、任務効率の改善に寄与するというデータはありません。規定外の行動は慎みなさい」


氷点下の声が、フェリクラの善意を切り捨てる。会議室の空気は、もはや絶対零度だ。


「ちょっと、あんた! こっちの慣例ってものがあるのよ!」


沈黙を破ったのは、設備管理課のクラウディアだった。彼女は腕を組み、ふてぶてしい態度でリヴィアを睨みつける。

「この役所にはな、昔から“灰色エラー”って欄があんのよ。白黒つけられない、面倒くさい案件を放り込んでおくためのな!」

「灰色も黒です。規定にないものは認められません」

「んだと、てめぇ!」


一触即発。だが、リヴィアは動じない。彼女はクラウディアを一瞥すると、再び俺に視線を戻した。

「調査の過程で、地下に未登録の施設が存在する可能性が浮上しました。地下封印室の鍵を提示してください」


リヴィアのその言葉は、静かだが有無を言わせぬ響きを持っていた。その場にいた職員たちの間に、さっと緊張が走る。地下封印室の鍵。その存在を知る者は、皆一様に青ざめ、視線を泳がせた。誰もが「自分は知らない」「自分の管轄ではない」と無言で主張している。責任のなすりつけ合いの末に所在不明となった、触れてはならない爆弾。その信管に、王都から来た監査官が、今まさに火をつけようとしていた。


このままでは、俺が儀式魔法を使ったことまで暴かれかねない。


「……承知しました。探してみましょう」


俺は、平静を装ってそう答えた。省エネ主義の俺が、自ら動く。それは、守るべき平穏のためか、それとも隣で心配そうに俺を見つめる彼女のためか。



リヴィアは「翌朝までに鍵の提示がなければ、強制捜査に移行します」という最後通告を残し、足音もなく去っていった。途端に、俺の胃は抗議の声を上げる。キリキリと、万力で締め上げられるような痛み。全庁内胃痛チャートがあるならば、間違いなく今、俺は新記録を樹立しただろう。


今夜も、長い夜になりそうだ。俺は決意を固め、誰もいない深夜の文書倉庫へと、足音を忍ばせる計画を練り始めた。

どうも、シルスです。

王都から来た監査官の冷たい視線で、俺の胃は早くも悲鳴を上げています。鍵は見つからないし残業は増える一方。頼むから夢であってくれ。

次回「監査官の追及と胃痛の悪化」では、さらに強烈な尋問が待っている予定です。胃薬装備で付き合ってください。

面白かったら、評価やブックマーク、感想、いいねで応援頼みます。あなたの一票が俺の残業を乗り切るブドウ糖になります。

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