エピソード012:灰色の日常と、ブドウ糖の甘さ
2025/07/02 本エピソードを含め、第一章を大幅に加筆修正しました。
あれから数日。テルティウス地区合同庁舎は、何事もなかったかのような、退屈な平穏を取り戻していた。あれほど市民を悩ませたスライムの発生件数も、ようやく例年並みの数値に落ち着き、俺の胃痛も課長から貰った胃薬のおかげで、なんとか鈍痛レベルにまで回復していた。
だが、俺の日常は何も変わらない。いや、むしろ悪化している。
俺の机の上には、今回の「原因不明の魔力設備暴走事案」に関する、膨大な量の書類が、新たな山脈を築いていた。報告書、始末書、議会への説明資料……。事件を解決したというのに、俺の残業時間はむしろ増えている始末だ。世の中は理不尽にできている。
俺は死んだ魚のような目で、ペンを走らせていた。
報告書の「原因」の欄には、こう記入する。『経年劣化による旧式魔力調整設備の一時的な機能不全と、それに伴う魔力供給圧の異常と推定』。完璧だ。誰も悪くない。悪いのは時間だけだ。
これが、この役所で「事実」として記録され、書庫の奥で埃をかぶっていく、もう一つの歴史だった。
カリカリとペンを走らせていると、ふと、視線を感じて顔を上げた。いつの間にか、フェリクラ・ミヌタが、俺の机の前に立っていた。何か言いたそうに、しかし躊躇して、自分の制服の裾を指でいじっている。
「……どうかしたのか、フェリクラ」
俺が声をかけると、彼女はびくりと肩を震わせ、それから意を決したように、口を開いた。
「あの、先日は……その、本当に、ありがとうございました」
彼女は、深々と頭を下げた。その言葉が、地下での出来事全体を指しているのか、それとも表向きの救助活動だけを指しているのか、俺には判断がつかなかった。
「いえ、職務ですから」
俺は、あくまで知らないふりをして、素っ気なく答える。
すると、彼女は少しだけ顔を上げ、俺の目をじっと見つめて言った。
「……シルスさんも、大変でしたでしょうから。魔力、たくさん使われたと思いますので」
その言葉に、俺はペンを走らせる手を止めた。彼女は、やはり、気づいている。俺が力を使い、消耗していることに。そして、俺がそれを隠そうとしていることにも。
「……これ、よかったら」
彼女は、小さな紙の包みを、俺の書類の山の、雪崩が起きない絶妙なポイントにそっと置いた。
「わたくしがいつも食べているものより、少しだけ、回復効率がいいそうです」
俺が何か言う前に、彼女は「お仕事、頑張ってください!」と小さな声で言い残し、顔を赤らめながら、足早に自分の職場へと戻っていった。
後に残されたのは、書類の山と、その上にちょこんと乗った、小さな包みだけ。
包みを開けてみると、中から出てきたのは、見覚えのあるブドウ糖キャンディが数粒。だが、それはいつもの安物とは違う、少しだけ高級な、専門店で売っているやつだった。
俺は、その小さなキャンディをしばらく無言で眺めていた。
世界を救ったわけじゃない。伝説になったわけでもない。給料が上がったわけでも、残業が減ったわけでもない。
だが、俺の秘密を、その秘密を守ろうとする俺の意図を、黙って理解してくれる人間が、一人だけいる。
俺は、書類の山に再び目を落とす。その中の一粒を、無造作に口に放り込んだ。
口の中に広がる、少しだけ上質で、優しい甘さ。
その甘さが、なぜか疲れ果てた心と、まだ少しだけ痛む胃に、じんわりと染み渡っていくような気がした。
窓の外は、いつもと同じ灰色の空。俺の灰色の日常は、これからも続いていく。
まあ、悪くはない。たぶん。
ここまでお付き合いいただき、誠にありがとうございました。
これにて、「【悲報】スライムのせいで今日も残業。俺、伝説級の魔法使い(ただし儀式が恥ずかしいので封印中)」の第一章は完結となります。
世界を救うこともなく、英雄になることもなく、ただひたすらに地味な仕事をこなし、ささやかな報酬に心を慰められる。そんな、どこにでもいる(かもしれない)公務員の物語でした。
シルス君の胃痛と残業が、少しでも減ることを祈って。
もし、この物語を少しでも楽しんでいただけたなら、評価や感想をいただけると、作者が次の物語を書くためのブドウ糖になります。
本当に、ありがとうございました。