エピソード001:灰色の公務員と始業前の憂鬱
2025/07/02 本エピソードを含め、第一章を大幅に加筆修正しました。
古都アウレア・ステーション・テルティウスの朝は、灰色だ。
かつて「黄金の都」と謳われた時代の壮麗な石造りの建物は、長年の雨風と予算不足によって煤け、その威厳をすり減らしている。空飛ぶ船が発着したという伝説の塔は、今や魔力受信式のラジオアンテナが乱立するだけのコンクリートの塊と化した。歴史の教科書が語る栄光と、目の前に広がるくたびれた現実とのギャップ。それが、俺の住む街の素顔だった。
そして、その灰色を一層濃くするのが、毎朝恒例の「アレ」だ。
「――では、これより、始業前の魔力循環促進儀式を執り行う! 各員、号令に合わせよ!」
合同庁舎前の広場に、俺、シルス・グリセウスの間の抜けた号令が響き渡る。運悪く、今週の号令係は俺だった。集まった職員たちは、眠たげな顔でだらだらと列をなし、一様に気の乗らない表情で天を仰いでいる。無理もない。これから始まるのは、古代の偉大な魔法使いが健康法として考案した体操――それがどういうわけか「魔法発動に必須のプロセス」として誤って伝承されてしまった、滑稽でしかない一連の動作なのだから。
「右足にて大地を踏みしめ、左腕にて天を仰ぎ、森の賢者の如く鳴け! クルッポー、クルッポー!」
俺の号令に合わせ、広場に集った百名以上の公務員たちが、片足立ちでふらつきながら、腕を大きく回し、申し訳程度の声量で鳥の鳴き真似をする。シュールレアリスムの絵画が現実に出てきたら、きっとこんな光景だろう。真面目にやればやるほど、その姿は哀愁を帯びていく。
ぐらり、と隣の列でひときわ大きくバランスを崩す者がいる。ああ、まただ。キウィタス魔術相談所の受付嬢、フェリクラ・ミヌタ。彼女はいつもワンテンポ遅れて、そして必ずよろける。そのたびに、周囲から微かな笑いが漏れるが、本人は至って真剣な顔で体勢を立て直そうと奮闘している。その姿は、まあ、なんだ。小動物を見ているようで、少しだけ目の保養には、なる。
(……こんな茶番を律儀にやらなくても、脳内で直接魔力回路に干渉すれば、もっと効率的に励起できるというのに。まあ、それをやろうものなら、今度は両手両足を高らかに掲げて『我こそは世界の理を識る者なり!』とか叫び出す羽目になるから、結局どっちもどっちだが)
儀式という名の精神的苦行を終え、俺は自席である市民安全課第二係のデスクにたどり着く。そこには既に、今日の分の「敵」――「都市型スライム発生報告書」が山をなしていた。
都市の魔力インフラから漏れ出た魔力が、塵や水分と結合して生まれる半透明の厄介者。それ自体に害はないが、踏むと驚異的な滑りやすさで歩行者を転倒させる。市民の安全を守る、と言えば聞こえはいいが、要はスライムのせいで増え続ける事務処理と、駆除業者への発注業務に忙殺される毎日だ。
俺は手際良く書類の山を分類し、旧式の魔力駆動式PCにデータを打ち込んでいく。カタカタと軽快な音を立てるキータッチは、我ながら芸術の域に達していると思う。無駄な動きの一切を排除し、最短ルートで情報を脳から指先へと伝達させる。俺の唯一の特技であり、省エネ生活のための必須スキルだ。
「ん……?」
統計ソフトが弾き出した地域別発生件数の一覧を眺めていた俺の指が、ふと止まる。旧市街第7区。先週比で、3.2%の増加。微々たる数字だ。統計ソフトも「誤差の範囲内」と判断し、警告表示は出していない。
(……気のせいか。この地区は古い配管が多いからな)
俺は小さく首を振り、思考を中断した。面倒の種は、芽吹く前に摘むに限る。俺は「異常なし」の判子をデータシートに押し、次の作業へと意識を切り替えた。
――終業時刻、午後五時まで、あと五分。
完璧な仕事配分。滞りない事務処理。俺のデスクの上には、書類の山は跡形もなく消え去っていた。引き出しから私物のカバンを取り出し、ストラップに手をかける。今日こそ、今日こそは定時で帰れる。灰色の日常に差し込む、一筋の光明。
その時だった。
「シルスくぅんっ!」
課の入り口から、胃を押さえたルキウス・フォルムナ課長が、悲鳴のような声を上げながら駆け込んできた。その切羽詰まった表情は、世界の終わりでも見てきたかのようだ。
「か、課長? どうかしましたか。また胃ですか?」
「それどころじゃないんだ! 大変なことになった!」
課長は俺のデスクに突進してくると、両手で机に手をつき、ぜえぜえと息を切らした。
「有力市議会議員の、遠い親戚の、そのまた隣人の飼い犬が! スライムを踏んで転んで、左前足を捻挫したそうだ!」
「はあ……それは、お気の毒に……」
犬には同情するが、それが一体なんだというのか。俺の眉間に、無意識に皺が寄る。
「お気の毒に、じゃないんだよ! その市議がカンカンでね!『我が市の治安はどうなっているんだ!』と議会に乗り込んできそうな勢いなんだ! これは政治問題だ!」
「……」
「そこでだ、シルス君。君を信頼している」
出た。課長の必殺技、「信頼しているから」という名の業務丸投げ。
「急いで『都市型スライムの潜在的危険性と、今後の対策に関する緊急レポート』を作成してくれたまえ! 明日の朝イチで、私が議員の先生に説明しに行く!」
俺の定時退勤というささやかな夢は、スライムと、犬と、市議と、そして目の前の上司によって、無慈悲に、木っ端微塵に打ち砕かれた。俺は掴みかけたカバンのストラップから力なく手を離し、ゆっくりと椅子に座り直す。
「……承知、いたしました」
俺がそう答えると、課長は「さすがだ!」と満面の笑みで俺の肩を叩き、風のように去っていった。静まり返ったオフィスに、俺は一人取り残される。
キリリ。
静寂の中、俺の胃が、確かにそう鳴った。まるで、敬愛する上司の痛みを引き継いだかのように。
窓の外は、いつの間にか夕闇に染まり始めていた。灰色の公務員の、長い長い夜が、今まさに始まろうとしていた。
はじめまして。本作の主人公、シルス・グリセウスです。
ご覧の通り、俺の日常は地味で、面倒事で溢れています。
定時退勤は夢のまた夢。有力者の飼い犬の捻挫のために、緊急レポートを作る羽目になりました。
次回、この絶望的な残業をどう乗り切るのか。まあ、期待しないでください。どうせもっと面倒なことになるだけでしょうから。
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