ヤマトコード - 隠された神々の暗号
はじめまして、東雲 比呂志と申します。
本作『ヤマトコード』は、現代の日本を舞台に、封じられた神々の記憶と“真実の神話”を巡る旅を描いたファンタジーです。
神話や古事記に詳しくなくても、ミステリーや冒険譚として楽しめるよう構成していますので、歴史が苦手な方でもご安心ください。
もし物語の中に、「知っているはずの世界の裏側」を感じてもらえたら嬉しいです。
どうぞ、お楽しみください。
プロローグ
天照大神の御神影が、鏡の奥から白石遥を見つめていた。
その日、彼女は島根県出雲市の山奥にある、誰も知らない古社の奥宮に足を踏み入れた。神職ですら立ち入りを許されない禁足地。その床下から見つかったのは、煤けた桐箱に収められた一枚の銅鏡だった。
「これは……八咫鏡?」
遥が指先で鏡面に触れたとき、鏡の縁に刻まれた奇妙な記号が、彼女の瞳に焼きついた。
それは神代文字とも象形ともつかぬ、けれどどこか見覚えのある形。遥の脳裏に、一冊の書がよぎった――太安万侶の「古事記」。
だが、そこには載っていない何かが、確かに記されている。
「……これ、本当に記録された歴史なの?」
呟きは誰にも届かない。だが、空気は確かに震えていた。まるで、はるか昔の神々が目覚めたかのように。
第1幕:天津神の末裔
都心から車で二時間。多摩川沿いの高台に建つ、私立・天陽学園の図書館は、築百年を越える石造りの洋館だった。
白石遥はその地下書庫にこもっていた。机の上には複製された写本と、資料から抜き出した神代文字の写し。それを照らすのは、暖色のランプの灯だけ。
「またこの文字……やっぱり“天津文字”に似てる」
遥は鉛筆の先で、記号のひとつをなぞる。十字と渦、そして円。日本語でも漢文でもなく、しかしどこかで見た覚えがある。最近発見された、縄文期の土器に似た模様を思い出した。
だがそれ以上に気になったのは、出雲の鏡とこの文様の位置関係だった。図案に沿って線を引いた瞬間、それが「星図」――あるいは「地図」に見えてきた。
「……これは、示してる。どこかを。何かを」
そのときだった。図書館の木製扉が静かに開いた。
振り返ると、背広姿の男がひとり立っていた。三十代半ば、黒いスーツに無表情の目。右手には、懐かしさを感じさせる“紙の身分証”が握られていた。
「白石遥博士ですね。私は内閣情報調査室、文化遺産特務課の安倍と申します」
「内調?……文化遺産の特務課?」
遥が驚く間もなく、安倍は言葉を続けた。
「あなたが見つけた鏡、それに刻まれた模様。我々は“天津コード”と呼んでいます。今からお連れするのは、現代に残る“天津神の末裔”です」
沈黙が落ちた。遥は、椅子から立ち上がり、ゆっくりと安倍に近づいた。
「天津神の……末裔? 本気で言ってるんですか?」
「あなたももう気づいているはずだ。神話はただの物語ではない。我々の記憶に封じられた“真実の履歴書”だと」
安倍は身分証を机の上に置くと、懐から一枚の古い写真を差し出した。
それは、戦前の白黒写真。満洲で発掘されたという古墳の内部を撮ったものだった。中心には、遥が見つけた鏡と酷似した文様が浮かび上がっていた。
「この鏡は、1937年に関東軍の特務機関が発掘し、その後GHQの手で回収された。そして、戦後の混乱の中で忽然と姿を消した」
「……でも、なぜ今になって出雲で見つかったの?」
「誰かが、封印を解いたのです。あなたが鏡に触れた瞬間、我々の探知網に“反応”がありました」
「探知……?」
安倍は静かに頷くと、最後の一言を告げた。
「白石遥博士、あなたの家系もまた――天津神の血を引いています」
その言葉に、遥の視界がわずかに歪んだ。心の奥に、子供の頃に祖母から聞いた“祓い”の唄が蘇る。
《かむながら たまちはえませ みそぎする はらへのうた》
まるで血が記憶しているように。
第2幕:封印された富士
東海道新幹線が静岡県を通過する頃、白石遥は車窓から富士山を見つめていた。
裾野から山頂まで、完璧な円錐形。だがその山容に、遥はどこか“人工的な違和感”を覚えていた。
「富士山は、なぜ古事記に出てこないのか?」
それが、彼女の胸に引っかかり続けていた疑問だった。
「大和政権が語る“正史”にとって、富士は都合の悪い存在だったのかもしれません」
隣の席で安倍隼人が口を開いた。彼はノートPCを開き、衛星写真を見せる。
「これは陸自の偵察機が撮影した富士山地下の熱反応データです」
画像には、山腹から地下へ伸びる奇妙な“管状の構造”が赤く浮かび上がっていた。
「地熱帯……?」
「違います。これは“人工トンネル”の痕跡と考えられています。そしてここに、もうひとつの“八咫鏡”があると推測されている」
遥は息を呑んだ。富士山が神話から“消された”理由。
それは、そこに天津神とは異なる“原初の神”――つまり、出雲系以前の神々が封じられていたからではないのか?
「あなたの祖母は、富士の麓に住んでいたと聞きました」
「はい。でも、昔から“富士山の神さまには逆らってはいけない”としか言われなかった」
「その神さまこそ、古事記が語ることを避けた“影の神”。我々はそれを“カグツチ”と呼んでいます」
遥の脳裏に浮かんだのは、イザナミを焼き殺した火の神。殺され、封印された“破壊と再生”の化身。
もしかすると、富士山とは、ただの火山ではなかったのかもしれない。
「目的地は、富士宮市にある“鏡池神社”。封印の鍵が、そこにある」
第3幕:鏡池の神託
富士宮市の市街を抜け、霧に包まれた山道を登ると、鬱蒼とした杉林の中にひっそりと佇む社が現れた。鏡池神社――地元の人間すら近づかない“結界の地”だった。
社殿の奥、苔むした岩の下に湧く小さな泉。それが「鏡池」と呼ばれる神域だった。水面は風もないのに揺らめき、まるで呼吸をしているかのようだった。
「この池に映るのは、ただの風景ではありません。時に“過去”を、時に“まだ起きていないこと”を映すことがある」
安倍はそう言うと、木製の小さな祭壇に向かって祝詞を唱えた。
遥は無意識に池のほとりに跪いた。鏡のような水面に、ゆらりと何かが現れた。
――炎。
――裂ける大地。
――空に浮かぶ黒い鏡。
その中心に、遥は自分自身の姿を見た。だがそれは今の彼女ではなかった。白い衣をまとい、額に金の紋様を刻んだ“誰か”の姿。
「これは……未来?」
「それは記憶だ。あなたの血が受け継いだ、神の記録だ」
安倍が、まるで確信に満ちた声で答えた。
「遥さん、あなたは“天津神”ではありません。
あなたこそ、かつて封じられた“国津神の巫女”――カグツチの鍵なのです」
瞬間、池が波立ち、水柱が天へと立ち上った。周囲の空気が逆巻き、木々がざわめく。遥の背後で、誰かが呼吸をしているような気配がした。
「起きるぞ、“再臨”が――」
第4幕:黄泉の門へ
神託を受けたその夜、遥と安倍は静岡県東部の山中にある廃鉱跡へ向かっていた。
戦前、地元では“開いてはいけない穴”と呼ばれ、口伝だけで場所が伝えられてきたという。地図にも載っていない谷底の洞穴――そこが、「黄泉の門」とされる場所だった。
「これが……?」
遥がヘッドライトを照らすと、そこには岩肌に穿たれた巨大な洞口が現れた。まるで地中深くへと吸い込まれるように、真っ黒な闇が口を開けている。
「古事記では、イザナギが黄泉の国から逃げ出したとき、“千引きの岩”で道を塞いだとある」
安倍は洞口脇の、不自然に円形を描いた岩盤を指差した。
「だが実際は、完全に封じられてはいなかった。祭祀が絶えた瞬間、扉はわずかに“開いた”」
遥の胸が締めつけられるように高鳴る。――奥に“何か”がいる。理屈ではない、本能がそう告げていた。
「ここには何が?」
「黄泉比良坂に封じられた、“記憶の断片”です。
古事記に書かれなかった神々、異端とされた巫女たち、出雲以前の“最初の神話”が、そこにある」
洞内に入ると、空気が変わった。湿り気と鉄の匂い、そして何か古い祈りの声が、岩壁にこだまする。
「この先に……」
遥が足を踏み出した瞬間、背後の地面が揺れた。
「来たか」
安倍が短剣を構えた。洞の入り口に、白い装束をまとった女が立っていた。顔は見えない。だが、その身に纏う気配は明らかに“人ではない”。
「天津盟団の者です。奴らも“門”の開放を狙っている」
その瞬間、女の額に現れたのは――三日月形の金の紋章。
「白石遥。ようやくあなたに会えましたね。巫女の器よ。黄泉の記憶を継ぐ者よ」
洞の奥から、ゆっくりと“何か”が目を覚まし始めていた。
第5幕:封印の三神器
「黄泉の記憶を継ぐ者よ」と告げた女は、白装束を翻すと、洞の奥へと消えた。
遥と安倍は追いかけようとしたが、空間そのものが揺らぎ、岩壁が音もなく閉じた。
「……試されたんだ」
安倍は静かに言った。「今のは“天津盟団”の巫女。だが、彼女自身も操られている」
「操られている?」
「“三神器”が揃えば、封印は完全に解かれる。だが、それを最も恐れているのは、かつて天界を掌握した天津神の側……いや、彼らに“神の座”を譲らせた旧き存在だ」
遥の脳裏に浮かんだのは、アマテラスに献上されたとされる三種の神器――八咫鏡、草薙剣、八尺瓊勾玉。
「まさか、それが……本当に存在しているの?」
「存在する。そして、君はその“鍵”の一部を持って生まれてきた」
安倍は遥の首元を指差す。
彼女の胸元に、幼いころから身につけていた勾玉が、淡く青白く光り始めていた。
「これ……おばあちゃんが“お守り”だって……」
「その勾玉こそ、“八尺瓊”だ。天津神の血をひかぬ者が所持しているなど、正史ではありえない。だが――“正史”とは、書き換えられた真実だ」
安倍はバックから巻物状の古文書を取り出した。それは、太安万侶の“失われた第二記”と呼ばれるもので、明治初期に一部の宮内省関係者が極秘で複写したとされるものだった。
「この文書によれば、本来、神器は“黄泉”を鎮めるための封印具であり、天皇権威の象徴ではなかった。
アマテラスは、それを“奪った”のです」
遥の勾玉が、より強く輝き出す。洞内に響く、低く重い鼓動のような音。
「次は、草薙剣。静岡を出て、伊勢へ向かいます。剣は、“天照大神の社”の奥、“誰も見てはいけない場所”に封じられています」
遥は頷いた。自分の中の何かが、目覚め始めていた。
歴史の外側にある“真実の神話”を、いま自分が辿ろうとしていることを、深く理解し始めていた。
第6幕:伊勢内宮の禁域
伊勢市に到着した頃、空は鈍色の雲に覆われていた。
白石遥と安倍隼人は、観光客で賑わう伊勢神宮・内宮の正殿を遠巻きに見つめていた。
「この奥に、誰も立ち入れない“禁域”がある」
安倍の声は低かった。「八咫鏡が祀られているとされる正殿――だが、それとは別に、記録にも残らぬ“もうひとつの社”が存在する」
遥は鳥居の向こうを見つめた。白い御幌がかかった正殿。その背後に、わずかに小さな丘が見える。
「ここが、アマテラスによる“封印の中心”――剣の眠る場所です」
安倍は袖口から小さな石製の印籠を取り出した。表面には、古い神代文字が彫られていた。
「これは、太安万侶の家系にのみ伝わる“参入の印”。これがあれば、内宮の奥――天岩戸神域に入る資格がある」
日が傾きはじめた頃、二人は社務所の裏手から静かに境内の奥へと向かった。御垣内と呼ばれる神域のさらに奥。
数千年の風が積もったような静寂の中、遥は、空気そのものが重くなるのを感じていた。
「ここが、封印の間です」
安倍が足を止めたのは、苔むした岩壁の前だった。岩の中央には、明らかに人工的に削られた“裂け目”があった。
その瞬間――
「……やはり来ましたか」
静寂を破って現れたのは、白装束の巫女。富士で遥に語りかけた、あの女だった。今は顔がはっきり見える。端正だが無機質な美貌。その瞳には、底知れぬ“空虚”が宿っていた。
「草薙剣は、天津神に再び捧げられるべきです。
あなたのような“国津の残り火”に持たれる資格はない」
「いいえ……違う」遥は声を震わせながら言った。
「剣は、封じるためにある。権威の象徴ではなく、“祟りを鎮めるため”に」
その言葉に、岩の裂け目がかすかに開いた。眩い光の中、金色に輝く直刀が浮かび上がる。
それはまるで、遥の声に応えるかのように――。
「剣があなたを選んだ。……これで、二つ目が揃いました」
第7幕:神剣の目覚め
草薙剣を手にした瞬間、遥の視界が一瞬白く染まった。
意識がどこか遠くへ引きずられる。――いや、何かが“入ってくる”感覚。
風が逆巻く。伊勢の神域全体が、刃に呼応して震えている。
「遥、剣を鞘に戻せ! いまはまだ、完全には目覚めていない!」
安倍の叫びに、遥ははっと我に返る。だが彼女の手は、剣を握るその感覚に逆らえなかった。
剣は、語っていた。
――これは、天照が封じた“裁きの火”。
――この刃は、天と地の均衡を保つ“審判”そのもの。
「……この剣、戦うためじゃない。壊すためでもない。
バランスを戻す……“神と人との、約束の刃”」
遥はゆっくりと鞘へ戻した。剣が収まると同時に、空気が落ち着き、周囲の風音が止んだ。
「完全に“目覚めた”ようですね」
巫女が静かに言った。だがその目に、これまでとは違う感情――わずかな“畏れ”が宿っていた。
「あなたには……まだ理解できないでしょう。
なぜ天照が、神器を“奪った”のか。その理由を知るためには、最後の地、“勾玉の座”へ向かわねばなりません」
「最後の神器……八咫鏡はすでに封印の地にある。
だとすれば、残る八尺瓊勾玉の真実が、鍵になる」
安倍が言葉を継いだ。
遥は、胸元の勾玉に手を当てた。微かに脈打つそれは、まるで次の道を示しているかのように温かかった。
「次の地は……?」
「熊野です。八咫烏の地にして、神武東征の始まりの地。
そこに、“誓約の祭壇”が残されている」
第8幕:熊野誓約
紀伊半島を南へ下る山道。霧の深い早朝、白石遥と安倍隼人は熊野本宮大社の裏手にある、一般には非公開とされる“奥院”へと向かっていた。
熊野は古来より「よみがえりの地」とされ、神と死者が交差する聖域。
そこには、記紀の神話にすら明確に記されなかった“誓約の祭壇”――天照とスサノオが血を交わした、神の契約の場所があるとされた。
「誓約とは、本来“神の座”を継ぐ者を決める儀式だった」
安倍が言う。「だが記録では、あの場で“誓った”のは神々だけだとされている。
本当は……人と神の間にも、ひとつの契約があったんだ」
遥は、祭壇の前に立った。石で囲まれた古代の環状列石。その中央には、赤黒く風化した一本の石柱が立っていた。
彼女が勾玉に手を添えた瞬間、空間が微かに軋んだ。風が止み、森の音すら消える。
――視界が揺れる。
遥の中に、“記憶ではない映像”が流れ込んできた。
遥か昔の熊野、夜明け前。天照とスサノオが向かい合い、それぞれの神器を交わす場面。だがその後ろに、第三の存在――白い衣をまとった“巫女”がいた。
「これは……私?」
巫女は、勾玉を掲げ、二神の契約を見届けると、静かに微笑んだ。そして――消えた。
「君はただの末裔じゃない」
安倍が言った。「君は“その時代”にも、いた。何らかの方法で……生まれ変わり、“鍵”として呼び戻されたんだ」
遥は膝をついた。胸元の勾玉が、今にも砕けそうなほど振動していた。
彼女の内に、かつての“契約”が再び目覚め始めていた。
そして、天空にひとすじの光。雷光が熊野の空を裂き、天地が鳴動する。
それは、眠れる“最後の神”が目覚める前触れだった。
第9幕:天津盟団の正体
熊野の誓約の儀が終わったその夜、遥は宿坊の一室で一人、身を清めていた。
勾玉の脈動は治まっていたが、身体の奥に、別の“声”が眠っている気がした。
そこへ、安倍が部屋を訪れた。だが、その表情は今までと違っていた。硬い。何かをためらうような気配。
「遥さん……知っておかなくてはならないことがあります」
安倍は手元の封筒を差し出した。中にあったのは、戦前の写真数枚と、一通の文書。そこには――「天津盟団 最高評議議事録 1943年・甲戌会談」とあった。
「これは……?」
「天津盟団――それは、単なる宗教団体ではない。
明治以降、国家神道を支える裏側で動いてきた“天皇家直轄の情報組織”です。だが彼らの本当の目的は、神器を揃え、“黄泉の封印”を完全に解き放つことだった」
遥の手が止まる。
「なぜそんなことを……封印を解けば、災厄が起きるってわかってるはずでしょ?」
「彼らは“天津神の系譜を唯一とし、国津神を滅ぼす”という思想に支配されている。
本来、天地創造は両者の均衡で成り立っていた。だが、盟団は天津神の“純血”こそが真の統治だと信じている」
安倍は視線を落とした。
「そして……かつてその中心にいたのが、私の祖父です」
「……!」
「私はその贖罪として、あなたを守るためにここにいる」
「それじゃあ……あなたは……」
「はい。私もまた、“天津の血”を引く者です。
でも今の私は、あの思想を否定する側にいる」
遥は目を閉じた。天津盟団が追い求めてきたもの。
それは、神の力を独占することで“人間すら神に作り変える”という、危険な超越思想だった。
「彼らはすでに、最後の神器“八咫鏡”の封印に手をかけようとしている。
止められるのは、今この瞬間だけです」
遥は頷いた。過去と現在、天津と国津、神と人。そのすべての運命が、交差する時が来た。
第10幕:八咫鏡と偽られた太陽
伊勢神宮・内宮の最奥、一般には決して公開されない“御神体の間”。
天津盟団はすでにその内部へ侵入し、八咫鏡を解放する準備を進めていた。
遥と安倍は、宮内庁の古文書庫に記された“裏参道”を使い、夜明け前に神宮の地下に潜入した。
幾重にも張られた結界を、勾玉と剣が震えながら押し返していく。
「……八咫鏡は、“真実を映す鏡”などではない」
安倍が呟いた。「それは、“太陽の記憶”を封じた容器。
天照が封印したのは、光ではない。“本当の自分”だった」
地下神殿に足を踏み入れた瞬間、空気が一変する。
そこには、天井のない石室。中心に、直径一メートルを超える、黒曜石のような“鏡”が鎮座していた。
「……黒い鏡?」
「そう、“八咫”とは八尺の意ではない。本来は“八つの目”――八方向の時空を映す“裏の太陽”だった」
遥が鏡に近づくと、表面が脈動し、像を映し出し始める。
そこに現れたのは、遥自身――だが、金の瞳と紅の衣を纏った“もう一人の遥”だった。
『ようやくここまで来たわね。巫女――いや、“私”』
鏡の中の遥が言う。
『あなたがこの三つの神器を揃えたとき、封印は内側から解ける。
そして、“記憶”ではなく、“力”があなたの中に戻る』
遥は息を呑んだ。
「私が……八咫鏡そのものなの?」
『そう。あなたは“器”。天津神も国津神も、争うために生まれたんじゃない。
均衡を保つ“光と影の管理者”なのよ』
その瞬間、鏡が砕け、まばゆい光が地下空間を満たした。
遥の背後で、安倍が膝をつく。
「……始まった。封印の崩壊が」
「いいえ――これは、再構築の始まり。偽りの太陽が落ち、本当の神話が戻るの」
遥は立ち上がる。剣を腰に、勾玉を胸に、そして“鏡の力”を己の中に抱いて――。
第11幕:黄泉返し(よみがえし)の刻
八咫鏡の解放とともに、日本列島全域に“異変”が走った。
霧が立ちこめ、時間が歪む。地中深くに封じられていた“神域”が、次々と姿を現し始める。
京都・鞍馬山、長野・戸隠、そして島根・出雲。
それは、古の国津神たちの“復位”であり、世界の均衡を揺さぶる兆しだった。
一方、遥の内面にも異変が起きていた。
鏡を通じて統合された記憶が、彼女に“神代の視点”を与えていた。天照とスサノオの確執、イザナギの嘆き、黄泉の悲劇。
それらすべてが、人の記憶としてではなく、“自身の経験”としてよみがえる。
「これが……“黄泉返し”……」
遥は、静かに目を閉じた。あらゆる死者の魂が、自身を通して世界に帰還しようとしているのがわかる。
だがその時、天津盟団が動いた。
「巫女の魂を封じよ! 八咫鏡の力を“天座”へ捧げよ!」
鏡の間に現れたのは、あの白装束の巫女――その正体は、遥と同じ“巫女の器”にして、鏡の力を“分断するために生まれた影”だった。
「私があなたの影……? いいえ、違う」
遥は剣を抜いた。「あなたは、“選ばれなかったもう一つの可能性”。私の“拒絶”そのもの」
二人の巫女が鏡の力を媒介に激突したとき、周囲の時空が裂けた。
空が歪み、死者たちの記憶が奔流のように流れ込む。
「安倍さん!」
遥が叫ぶと、安倍は己の短剣を鏡の中心へと突き立てた。
「天と地の均衡は、“人の意志”でこそ守られるべきだ――!」
刹那、光が爆ぜ、音もなく闇が消えた。
遥が目を開けたとき、彼女は“ただの人間”として地に立っていた。
鏡は砕け、勾玉は彼女の胸の奥へと溶け込んでいた。
「もう……神ではない。でも、私は……私だ」
空に日が昇る。真の“太陽”が戻ってきたことを告げるように。
最終幕:神なき世の祈り
それから数日後。日本列島を覆っていた異常な現象は、嘘のように消えた。
空は澄み、地は静まり返り、人々は何も知らぬまま日常に戻っていった。
白石遥は、出雲の海辺に佇んでいた。
草薙剣は伊勢に戻され、勾玉はもはや彼女の身体の一部となっていた。八咫鏡は砕け、そのかけらすら世界から消え去った。
「神がいなくなった世界……それでも、私たちは祈る」
彼女はそう呟いた。
かつて、神は人の中にいた。
だが、権力の道具として語られ、封じられ、歪められた。
遥が見たのは、天津も国津も、同じく“生きようとした存在”に過ぎなかったという真実だった。
安倍隼人は、かつての組織を離れ、姿を消した。
「本当に必要なのは、血でも神器でもない。信じる力だ」
そう言い残して去っていった。
遥は今、ひとりの研究者として、“真実の古事記”を記している。
それは過去ではなく、未来に向けた“神話の再構築”。
神が語る時代は終わった。
だが、人が“語り続ける限り”、神はいつか、また物語の中に宿る。
風が吹いた。潮の香りが彼女の髪を撫で、どこからともなく、あの懐かしい祓詞が聞こえてくる。
《かむながら たまちはえませ――》
遥は静かに目を閉じ、祈った。
それは、神なき時代に生きる、すべての人々への祈りだった。
― 完 ―
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
本作では「神話とは、記憶を封じる容器である」という仮説のもと、日本各地の聖地をめぐる旅を描きました。
実際の地名・伝承を下敷きにしていますが、物語はあくまでフィクションです。
いつか、物語の続きを書けたら――そう思っています。
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