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第七章

東京地方裁判所に小型護送車が到着する。




日産NV350キャラバンをベースにした車体は、一見すると普通のワンボックスカーだったが、窓にはスモークフィルムが貼られ、内側には鉄格子が取り付けられていた。




一人の男が二人の警官に両脇を固められながら、ゆっくりと車両に近づいてきた。




彼が須田優司、彼は笑みを浮かべたままだった。




僕は後部ドアを開け、須田を招き入れる。




「乗ってください。」




須田は従順に従い、車内へと足を踏み入れた。




車内は予想以上に狭く、運転席と後部座席は強化プラスチックの仕切りで完全に遮断されていた。




須田が座るやいなや、僕は手際よく彼の手錠をシートに固定した。




ドアが閉まり、エンジンが始動する。




車両が動き出した瞬間、かすかに車体が揺れた。




僕は少し不安を覚えるも、すぐに口を開いた。




「久しぶりですね。」




その言葉に、須田は微笑みを絶やさずに首を傾げた。




「失礼、お会いしたことがありましたか?」




「お会いするのは初めてです。」




と、僕は赤縁のメガネのブリッジを持ち上げ答える。




やはり少し緊張してしまう。




ヘッドセット越しに聞いたあの声の主。




そんな彼が今、目の前にいる。




手のひらの汗が、あの時の記憶の冷たさと重なるようだった。




須田が首を傾げるも僕は続ける。




「110番の通報を受けた者です。」




須田の目が驚きで見開かれた。




「まさか…。」




さすがに声色が変わる。




僕は自己紹介をした。




「宇野健太といいます。元々護送担当から110センターに異動していたんです。上司に頼んで護送担当に戻してもらいました。」




須田は笑顔を取り戻し、




「なぜですか?」




と静かに尋ねた。




僕は真剣な表情で答えた。




「どうしても、あなたと話したかったんです。」




声に抱えていた思いを込めた。




須田は呆れたようにため息をついた。




「なるほど、それで佐藤警部補が代わりに出廷したんですね。」




「はい、裁判の証人が被告人の護送をするのは流石にまずいので。」




須田が納得したように頷く。




「いや、通報を受けたというのも中々グレーゾーンですがね。」




その表情には、諦めと興味が入り混じっているようだった。




「何を聞きたいのですか?」




一瞬躊躇したが、すぐに決意を固めたかのように口を開いた。




「なぜ自分で通報したのか、なぜ通報したのに逃げたのか、何故逃げたのに自首したのか。」




僕は矢継ぎ早に質問した。




抱えていた疑問をようやく口にできた、そんな安堵が含まれていた。




須田は一瞬目を閉じ、深呼吸をした。




その胸の上下に、何かを決意したような緊張感が漂う。




「私は自分のことを話すつもりは微塵もありませんよ。」




といつもの笑顔で冷たく言い放った。




思わず肩を落とす、期待していたものが得られなかった失望が頭を占める。




上司に無茶言って強行人事をゴリ押ししてもらったのにこれでは浮かばれない。




須田は僕の様子を見て、再び深く息を吐いた。




「ですが…。」




それを聞き、僕は再び顔を上げる。




「知人の話なら、少しばかりお話しできるかもしれません。」




須田は覚悟を決めたように、静かに語り始めた。




「これから話すのは私ではなく知人の話です。」




車内の空気が、須田の言葉とともに重くなっていく。




僕は息を呑んで聞いている。




須田の『知人』の過去が、この狭い空間に満ちていくかのようだった。




そして、再び車体が微かに揺れた。




僕は一瞬不安になったが、須田の話に集中するように、その揺れを無視した。




遠くで地鳴りのような音が聞こえたが、二人とも気にする様子はなかった。




須田の声は静かだが、その中に秘められた感情の波が感じられた。




「その知人には最低の母親がいたんです。よくわからない男と不倫して彼を孕んだらしいのですが、夫にその事実を隠して托卵し、夫の子として育てさせたと。」




酷い話だな、気にせず須田は淡々と続ける。




「ある日、その父…いや、父だと思っていた人が職場で遺伝子検査について話題になり、それを機に検査した結果、自分との血縁関係がないことに気づいたそうです。そして離婚へと至りました。」




須田は深呼吸をし、少し考え込むような表情を見せた。




そして、静かな声で続けた。




「その時、その知人は人生で大切な教訓を学んだそうです。この世に絶対と言えるものなんて無いんだと。家族の絆も、友情も...道徳や科学、常識ですら絶対ではないと、嫌というほど思い知らされたと。」




須田は一瞬言葉を切り、遠くを見つめるような目つきになりました。




「その人が父…いえ、父だと思っていた人は弟と妹を引き取り、その知人は母親に引き取られることになったようです。」




須田の目は遠くを見ているようでした。




そして、ほとんど独り言のように付け加えました。




「不思議ですよね。私たちが揺るぎないと信じていたものが、実は脆くて儚いものだったりする。その人の人生は、まさにそんな経験の連続だったんでしょうね。」




須田の目は遠くを見ているようだった。




「その後、その知人の母親は別の男と事実婚状態になり3人で暮らしたようです。しかし、母親は事あるごとにその知人を虐待したらしいです。義父は多少は庇ってくれたようですが、根本的な解決には至らなかったようで。」




須田の声に僅かな苦さが混じる。




心のなかで同情と驚きが入り混じっている。




思わず、僕は口を開いた。




「待ってください。その…彼の母親は、なぜそこまで彼を虐待したんでしょうか?」




須田は一瞬言葉を詰まらせ、




「…それを確認する術はもう無いんですよ。」




と答えた。




僕は困惑した表情を浮かべ、




「でも、何か理由があったはずです。そこまでひどい虐待には…。」




「そうですね。でも、人間の感情は単純ではありません。」




須田は静かに言った。




「その知人自身、母親の本当の気持ちを理解することはできなかったのでしょう。ただ…。」




「ただ?」




須田は深呼吸をして続けた。




「その知人の母親からの虐待は、些細なことから始まったそうです。最初は、叱られた時に見せる目つきに対して、母親が『その目で私を見るな』と言う程度だったらしいです。」




須田は変わらず笑顔のまま、ただ声が少し震えていた。




「しかし、次第に母親はその知人の目つきに異常に拘るようになっていったそうです。些細なことで叱る時も、まず『その目で私を見るな』と言い、それから暴力を振るうようになったと…。」




「ただ、殴ったあとは母親の態度が一変したそうです。泣きながらその知人に縋りつき、『ごめんね、私どうかしてた』と何度も謝りながら抱きしめたそうです。」




須田は淡々と続けた。




「ただその知人が笑顔を見せると、母親の態度が少し和らぐように見えたそうです。」




だからか…?




この貼り付けたような笑顔は。




母親の機嫌を取るための、生き延びるための処世術だったのか…?




ぞくりと背筋が寒くなるのを感じた。




須田は続けた。




「見かねた母親の妹…その知人の叔母が引き取ってくれて、しばらくは幸せな日々を送れたそうです。」




須田の声が柔らかくなったように感じた。




「でも…。」




突然、その声が震えた。




「その知人の叔母が震災で亡くなり、また母親と義父との3人暮らしに戻ったそうです。そして虐待も再び始まったと聞いています。」




僕は息を呑んだ。車内の空気が一層重くなる。




「その知人が17歳の時、高校2年生だった頃、良く2人の男女の同級生と一緒にいました。ある時、同級生の男子が彼の体の青あざに気づいたそうです。その同級生が担任の先生に伝えてくれて、その先生は本当に優しい先生でした。その先生と2人の同級生も動いてくれて、それを受けて児童相談所が調査を始めました。」




須田の声が少し明るくなったように感じた。




「調査の結果、その知人は母親と別居することになりました。」




「周囲に恵まれたんだな。」




僕の言葉に、須田は一瞬言葉を詰まらせた。




「ある時、同級生の男子が亡くなります。白血病でした。彼は高校に入る前からの親友でした。」




言葉を失った。




「高校卒業後にはまた母親との同居生活に戻ることになったそうです。」




なぜ?とは聞けなかった。




「後に母親は病死してその知人は義父と2人で暮らすことになり、それなりに平穏な日々を送れるようになったと。」




須田は一瞬言葉を切り、深く息を吐いた。




「しかしある日、義父から話があると言われ…。」




須田の目が僕をじっと見つめた。




その重苦しい空気だけが車内いっぱいに満ちていく。




車体が再び揺れる、今度は少し強めだった。




僕は不安になって窓の外を見たが、須田の話に引き込まれ、すぐに視線を戻した。




須田の声が低くなる。




「そしてその知人は…。」




彼は変わらず笑顔だったが、その目に冷たい光が宿ったように見えた。




「口論の末、義父を滅多刺しにして殺したそうです。何故あの女を最低な母親のままでいさせてくれなかったのかと。」




僕の顔が青ざめた。車内の空気が凍りつくようだった。




須田は淡々と語り続けた。




「その後、自分も死のうかと思ったらしいのですが。」




彼の声に感情の起伏はない。




「その前に、最低なクズ野郎を道連れにしてやろうと考えたそうです。」




僕は息を呑んで続きを待つ。




須田の冷静さが、逆に恐ろしく感じられた。




「そいつは親の地位を利用して好き放題していたらしいです。パワハラセクハラを繰り返し、本当に最低のクズ野郎だったそうです。しかもある日、酒に酔った勢いで昔、飲酒運転で子供を轢き殺したことを親の権力で握りつぶしたこと、他にも恐喝・暴行・強姦・監禁・強盗など何やっても俺は裁かれなかったなんて自慢げに話していたそうです。」




確かに久留島は酷い男だったのかもしれない。




だが、だからといって殺していい理由にはならないだろう。




心の内で反論する自分がいた。




しかし須田の語る苦しみを前に、その声はかき消されそうになる。




「知人は何度か金属バットで思い切り殴ったあと、自ら捕まるつもりで、クズの前で警察に電話をしたそうです。『今からこいつを殺す』とね。そして電話を切った後も殴り続けたそうですが、警察が来るまで耐えれば助かる、藁にも縋る思いだったことでしょう。」




須田は更に続けた。




須田の過去、その苦しみと怒り、そして悲しみが、まるで目の前で再現されているかのようだった。




「通報後、警察が来る前に不意に墓参りをしたくなったそうです。そしてクズを捨て置いてその場を立ち去りました。」




須田は言葉を続けた。




「まず、その知人を引き取ってくれた叔母の墓を訪れ、そして白血病で亡くなった親友の墓にも足を運んだそうです。」




須田の目が遠くを見つめる。




「親友の墓前で、その知人は長い間黙っていたそうです。そしてふと、親友がよくハンバーガーショップに誘ってくれたことを思い出したと言いました。その知人がお金がないからと断ろうとすると、親友はいつも『俺が食べたいんだよ』と言って。結局、ほとんどおごってもらってばかりだったそうです。」




彼の声にはかすかな温もりが混じる。




「墓参りの帰り、その知人はハンバーガーショップに立ち寄ったそうです。久しぶりに食べたハンバーガーは、親友と一緒に食べた時のように温かくて、でも味は変わってしまっていたそうです。」




僕は黙って聞いていたが、須田の言葉に胸が締め付けられる思いだった。




「そして。」




須田は最後の言葉を紡ぐ。




「その知人は自宅で義父の遺体の隣で寝たそうです。」




須田は皆原の遺体を滅多刺しにし、部屋は血だらけだったらしい。




須田の声が低くなり、まるでその場面を目の当たりにしているかのように語り始めた。




「強い鉄の匂いが部屋中に漂っていたそうです。遺体に寄り添った時、その冷たさに震えたと言っていました。かつてその体から感じた温もりは、もうどこにもなかったそうです。」




須田は一瞬言葉を詰まらせ、深呼吸をしてから続けた。




「その知人は義父の顔を見ようとしましたが、自分の行為によってずたずたになった顔面を直視することができなかったそうです。それでも、かろうじて残った特徴から、義父の面影を探そうとしたと…。」




僕は息を呑んで聞いている。




須田の声には、かすかな感情の揺らぎが感じられた。




「その知人は義父との思い出を一つずつ思い出していったそうです。口下手だった義父が、実は気を配ってくれていたこと。例えば、その知人が学校から帰ってくると、さりげなくホットミルクを用意してくれるとか。」




須田は続けた。




「母親に何度も苦言を呈し、その知人を守ろうとしてくれていたこと。母親が暴力を振るおうとすると、自分の体を盾にして庇ってくれたこともあったそうです。傷の手当てをしながら、申し訳なさそうに『俺がもっと強ければ、お前をこんな目に遭わせずに済んだのに』と、涙ぐみながら消毒液を塗ってくれたそうです。」




「特に、その知人が母親と別居する話が出た時、義父が母親を強く説得してくれたことを思い出していたそうです。『このままじゃダメだ。子供のためにも、お前自身のためにも、一度離れて暮らすべきだ』と、声を震わせながらも毅然と母親に告げたそうです。その時の義父の必死な表情が、その知人の脳裏に焼き付いていたと…。」




須田は一瞬黙り、そして静かに言葉を続けた。




「そんな義父の冷たくなった体に寄り添いながら、その知人は何も言葉を発することができなかったそうです。義父の手を握りしめると、その知人は義父の遺体の隣で一晩を過ごし、翌朝自首したそうです。」




当然ながら異常だ、異常でしかない。




ただ。




周囲の環境や大人たちによって彼という人間は大きく歪められた。




そう考えると、歪んでしまうのは当然だという気もした。




普通だったからこそ、異常な環境に大きく歪んだ。




もし彼がそもそも異常であれば、そもそもここまで歪まなかった。




そんな気すらしてしまう。




車内に重い沈黙が落ちた。




「少し喋りすぎましたね。」




須田はおどけて微笑む。




目から涙が止めどなく流れ落ちる。




「そうか…。」




僕はボロボロと泣きながらつぶやいた。




声には同情と理解、そして何か言葉にできない感情が混ざっていた。




「ふふっ、即興にしては良くできた話だと思いませんか?」




そんな須田の言葉にも、僕は何も言わずに涙を拭っていた。




「…知人のために泣いてくれて、ありがとうございます。」




須田は僕にそう言って微笑んだ。




そうじゃないことはわかりきっていた、ただこれはお前の話だろうとは言えなかった。




代わりに別の質問をぶつける。




「もう一つだけ、義父の話とは結局何だったんだ?」




「…。」




須田は黙り込むが、意を決したように口を開く。




ようやく核心に触れられる。




「義父は...いや、その人は義父から1つの事実と1つの可能性を伝えられました。それらは全ての前提を簡単にひっくり返してしまった。」




須田の声には感情を抑え込むような震えが混じっていた。




少し、聞くのが怖くなる。




突然、下から突き上げるような激しい揺れが車体を襲った。




体が大きく跳ね上がり、頭が天井に打ち付けられる。




死ぬのか?という恐怖が迫ってくる、なぜよりによって今なのか。




窓の外を見ると、電柱や建物が大きく揺れているのが見えた。




運転手は必死にハンドルを握りしめているが、車は左右に大きく揺れ、制御を失っている。




次の瞬間、けたたましい金属音と共に、激しい衝撃が全身を襲った。




視界が真っ白になり、意識が遠のいていく。




…。




…ん?




ここは、どこだ…?




体が痛い。




頭が割れるように痛い。




薄れていく意識の中、誰かの声が聞こえる…。




「…まさか、こんな場所…。」




…須田の声…?




「…くづく地震に…。」




「…肉な巡り合わ…。」




…何を言っているんだ…?




「…なたも運がない…。」




…僕のこと…?




…。




…だめだ…意識が…。

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