第六章後編
東雲裁判長が入廷し、証人尋問の再開を告げた。
次の証人はその須田さんを診た医師だ。
青木修二医師が証言台に立つ、ボサボサの髪を掻いている。
私は質問を始めた。
「青木さん、7年前に須田さんを診察されたとのことですが、その時の状況を教えてください。」
「はい。須田さんの診察時、身体的虐待の明確な痕跡が見られました。具体的には、腕や背中に複数の青あざ、肋骨の軽度の打撲、古い傷跡などです。」
「精神的な影響については、いかがでしたか?」
「慢性的なストレスによる精神的影響が顕著でした。PTSDの初期症状や解離性障害の兆候が見られました。これらの症状は、長期的に見て感情制御や対人関係に影響を及ぼす可能性があります。」
「虐待が青年期の精神発達にどのような影響を与える可能性があるか、説明していただけますか?」
「虐待を受けた青年は、感情を抑圧し、表面上は問題がないように見えることがよくあります。これは適応のメカニズムですが、内面では深刻な問題を抱えている可能性があります。長期的には、対人関係の困難、感情制御の問題、自尊心の低下などが現れることがあります。」
「須田さんの症状は、将来的にどのような行動につながる可能性があったでしょうか?」
「虐待の影響は個人差が大きいですが、一般的には対人関係の問題、感情制御の困難、うつや不安障害などの精神疾患のリスクが高まります。極端な場合、自傷行為や攻撃的行動につながることもあります。ただし、これらの影響は環境や個人の努力によって軽減される可能性もあります。」
私は少し考えてから、さらに質問を続けた。
「先生、虐待の影響を判断する上で、遺伝的要因は考慮されるのでしょうか?」
青木医師は真剣な表情で答えた。
「はい、精神疾患のリスクを評価する際には、環境要因だけでなく遺伝的要因も考慮します。ただし、遺伝と環境の相互作用は非常に複雑です。」
「その場合、DNA鑑定などは行われるのでしょうか?」
「通常の診療では行いません。ただ、研究目的で行われることはあります。DNA解析技術の進歩により、以前は見過ごされていた遺伝的特徴が明らかになることもあります。」
青木医師の言葉に、須田さんがわずかに体を強張らせるのが見えた。
「須田さん、今の医師の発言に何か心当たりがありますか?」
私は思わず尋ねた。
須田さんは一瞬驚いたような表情を見せ、
「いえ、ただDNA鑑定のことを…。」
と言いかけて口をつぐんだ。
「DNA鑑定ですか?それについて…。」
「弁護人。」
裁判長の声が鋭く響いた。
「被告人への不規則な質問は控えてください。」
当たり前の指摘だった。
だがその当たり前のルールが、真実へと伸ばす手を阻んでいる気がしてならなかった。
「申し訳ありません、裁判長。」
私は深く頭を下げた。
「では、青木さんに質問を続けさせていただきます。」
青木医師に向き直り、私は質問を続けた。
「青木さん、DNA鑑定について、もう少し詳しくお聞かせいただけますか?また、須田さんのDNA鑑定をされたことはありますか?」
青木医師は少し困惑した表情を見せた。
「DNA鑑定については、先ほど申し上げた通りです。須田さんの件については、申し訳ありませんが、守秘義務がありますので回答は控えさせていただきます。」
私は青木医師の言葉に頷きながら、一瞬須田さんの方を見た。
須田さんの表情は既に普段の穏やかな笑顔に戻っていたが、その目には微かな安堵の色が浮かんでいるように見えた。
まぁ五十島さんと須田さんのDNA鑑定については触れられないか。
そう納得しつつも須田さんの反応から、何か重要な情報を見逃しているような感覚が残った。
五十島さんの話、須田さん自身の出生に。
「わかりました。以上です。」
と言って席に戻った。
東雲裁判長は白浜検事の方を向いた。
「検察官、反対尋問はありますか?」
白浜検事が立ち上がった。
「青木さん、虐待の影響による精神的症状と、成人後の反社会的行動との関連性について、一般的な見解を教えていただけますか?」
「虐待経験と成人後の行動には複雑な関係があります。虐待を受けた青年の中には、成人後に様々な社会適応の問題を抱える可能性がありますが、多くの人は適切な支援や自身の努力によって健全な社会生活を送ることができます。直接的な因果関係を一概に述べることは困難です。」
「被告人のPTSDや解離性障害の症状が、8年後まで継続していた可能性はどの程度あるでしょうか?」
「症状の継続性は個人差が大きく、適切な治療や環境の変化によって改善することもありますが、長期化する場合もあります。8年後の状態については、現在の診断が必要です。」
白浜検事は深く考え込むような表情を見せた後、
「以上です。」
と言って席に戻った。
証言が終わると、東雲裁判長は青木医師に退廷を命じた
東雲裁判長は次の証人を呼び出した。
「次の証人、府内大輔さんを呼び込んでください。」
府内さんが証言台に立つと、私は質問を始めた。
「府内さん、須田さんとはどのような関係でしたか?」
「バイト先の同僚です。約2年間一緒に働いていました。」
「久留島さんはスタッフの間でどのような評判でしたか?」
府内は少し躊躇したが、やがて話し始めた。
「久留島店長は…バイトやパートにパワハラやセクハラばかりしていました。何人ものスタッフがそれを苦にやめてしまったんです。」
「具体的にはどのようなことがあったのですか?」
「例えば、女性スタッフに対して、『君は接客業に向いてないね。体を売った方がいいんじゃない?』なんて言うんです。男性スタッフには『お前みたいなのがいるから売上が上がらないんだ』と怒鳴ったり、金属バットで小突いたりして…。」
「須田さんは久留島さんの行動に対してどのように対応していましたか?」
「須田さんは店長の矛先を自分に向けて、他のスタッフを守っていたんです。例えば、女性スタッフがセクハラを受けそうになると、わざと間に入って話題を変えたり、店長の気を引いたりしていました。男性スタッフが怒鳴られそうになると、自分が責任を取るような形で店長の怒りを引き受けていました。」
「そのせいで、須田さんはより酷い扱いを受けていたということですね。」
「そうです、でも須田さんはいつも笑顔を絶やさなかった。『大丈夫、僕は平気だから』って…。」
私は頷き、以上ですと言って席に戻った。
この証言は、須田さんが周囲を気遣う優しい人間であることを示す重要な証拠となる。
東雲裁判長は白浜検事の方を向いた。
「検察官、反対尋問はありますか?」
白浜検事が立ち上がった。その目には鋭い光が宿っていた。
「府内さん、事件当日の状況について伺います。被告人は皆原さんを殺害した後、通常通りバイトに来ていたそうですね。」
「はい...そうです。」
「その時の被告人の様子はいかがでしたか?」
「普段と変わらず、笑顔で接客していました。むしろ、いつもより機嫌が良さそうでした。」
「機嫌が良さそうとは、具体的にどのような様子でしたか?」
やっぱり来るよな。こちらとしてはあまり触れてほしくない話題になってしまった。
「はい…須田さんが店長のモノマネをして、みんなを笑わせていたんです。普段はあまりしないことだったので、印象に残っています。」
その証言を聞き私は天を仰いだ。
府内さん、できればそのエピソードほあんまり詳しく話さないで欲しかった。
検察に利用される、須田さんの異常性を強調される恰好の材料になってしまう。
とは言え口止めはしていなかった、したくなかったのだから仕方がない。
「その後、被告人は久留島さんを外に呼び出して殺害しています。バイト中の被告人に何か異常な点はありませんでしたか?」
ちょっとそろそろ勘弁してほしい!
まるで言葉が出てこない。
「裁判長、証人は須田さんの心理状態を推測できる立場にありません。」
私は反論した。
「弁護人、証人の観察した事実を問う質問です。続けてください。」
まぁそうですよね、私もそう思います。
「府内さん、質問を繰り返します。バイト中の被告人に何か異常な点はありませんでしたか?」
「特に...ありませんでした。むしろ、いつも以上に活発に仕事をしているように見えました。」
「被告人が久留島さんを呼び出す直前、何か変化はありましたか?」
「須田さんが店長に『少し話があります』と声をかけたのを覚えています。その時の表情は…いつも通りの笑顔でした。」
白浜検事は証人府内さんに向き直り、鋭い視線を向けた。
「では最後の質問です。被告人は久留島さんを暴行し、通報後に再度暴行を加えましたが、とどめを刺さずに逃走しました。なぜだと思いますか?」
私は即座に立ち上がり、声を張り上げた。
「裁判長、証人は被告人の心理状態を推測できる立場にありません。この質問は不適切です。」
東雲裁判長は一瞬考え込み、静かに頷いた。
「弁護人の指摘の通りです。検察官、この質問は取り下げてください。」
しかし、白浜検事はすぐに切り返した。
「では、弁護人に伺いたいのですが、裁判長よろしいでしょうか?」
裁判長は私に目を向けた。
「弁護人、よろしいですか?」
私は一瞬迷ったが、毅然とした態度で答えた。
「構いません。」
白浜検事の目には鋭い光が宿っていた。
「では伺います。弁護人は被告人がとどめを刺さなかった理由についてどうお考えですか?」
私は深呼吸し、一瞬考えを巡らせた後、答えた。
「被告人には良心の呵責があったのではないかと考えています。」
白浜検事はすかさず反論する。
「それはどうでしょうか。被告人は先程の証言からカッターナイフを所持していました。とどめを刺さなかった理由として考えられるのは、いたぶることが目的だった可能性や、加減を誤りとどめを刺す前に警察が来てしまうと考え慌てて逃げ出した。いずれにしても、被告人の行動には悪質性が伴うと考えるべきではないでしょうか。」
その言葉には明確な攻撃性が含まれており、言い返せない自分がいた。
筋も通っている。
瞬間的に呆然としてしまった。
あ、どうしよう、反論が浮かばない。
勝算があるなんて啖呵を切っておいてこのザマか。
ふと、目の前でネイビーのスラックスが揺れる。
私はゆっくりと視線を上に向ける。
白浜検事が『以上です』と締めくくろうとした瞬間、私は立ち上がり声を張り上げた。
「勝手に終わらせないでいただきたい!」
体が勝手に動いていた。
考えなどない、知るか。
どうせ失うものなど何も無い、そんな事すら忘れていたのか。
法廷内がざわめく中、私は冷静さを装いながら続けた。
「私としてはそうではないと考えます。」
そう言いながら全速力で反論を纏め上げていく。
記憶の断片を繋ぎ合わせ、法的知識を総動員した。
「良いですか?考えてもみてください。」
私は胸を張る、こんなところで引き下がってたまるか!
「もし本当にいたぶることが目的ならば、カッターナイフでも致命傷を避けることは可能だったはずです。また、明確な殺意があるのであれば、最初からカッターナイフを使用する選択肢もあったでしょう。それにも関わらず、とどめを刺さずに現場から逃走した。いたぶることが目的というのも警察到着前に逃げるというのも的外れであると言わざるを得ない!」
「弁護人、発言は冷静にお願いします。」
東雲裁判長は淡々と告げる。
しかしその声音と目に、孫でも相手にするような少し温かいものを感じた。
「失礼しました。」
私は頭を下げるが、頭を上げたあと白浜検事に目を遣る。
彼女も私を見ている。
「検察官、よろしいでしょうか?」
東雲裁判長の問いかけに白浜検事は一瞬歯噛みしたが、すぐに冷静さを取り戻した。
「承知しました。以上で質問を終わります。」
証言が終わると、東雲裁判長は府内さんに退廷を命じた。
須田さんは相変わらず穏やかな表情を浮かべていたが、その目には何か言い知れない影が宿っているように見えた。
私は彼の心中を察しようと努めたが、何も掴めなかった。
「次の証人、里村久恵さんを呼び込んでください。」
里村先生が証言台に立つと、私は立ち上がった。
「里村さん、須田さんが高校生だった頃の様子を教えてください。」
「須田さんは真面目で優しい生徒でした。一緒に暮らしていた叔母さんを震災で亡くし、母親からの虐待もあったにもかかわらず、いつも笑顔を絶やさず明るく振る舞っていました。」
「須田さんの友人関係について何か印象に残っていることはありますか?」
「はい。須田さんには仲の良い友人がいましたが、その友人を病気で亡くしてしまいました。それでも須田さんは周りの人たちを気遣い、笑顔を絶やさなかったのです。」
「須田さんの家庭環境について、何か気になることはありましたか?」
「須田さんは母親との関係が複雑で、時々学校に青あざを作って来ることがありました。児童相談所が介入して親と別居することになりましたが、須田さんの内心は複雑だったのではないかと思います。」
「どのような点で複雑だったと感じましたか?」
「須田さんは常に笑顔を絶やさず明るく振る舞っていました。しかし、その笑顔の奥に何か複雑な思いを感じることがありました。母親との関係に悩みながらも、家族への思いを抱えていたように思います。ただ、それを表に出すことは一度もありませんでした。」
私は、
「以上です。」
と言って席に戻った。
東雲裁判長は白浜検事の方を向いた。
「検察官、反対尋問はありますか?」
白浜検事が立ち上がった。その目には鋭い光が宿っていた。
「里村さん、被告人の母親からの虐待について証言されましたが、具体的にどのような虐待を目撃されましたか?」
「直接目撃したことはありません。ただ、須田さんの体に時々あざがあったことは…。」
白浜検事はそれを遮る。
「つまり、推測に過ぎないということですね。」
里村先生は一瞬眉をひそめ、目を細めた。その表情には明確な嫌悪が浮かんでいた。
深呼吸をして冷静さを取り戻すと、毅然とした態度で答えた。
2人のやりとりを眺め強い違和感を感じた、随分らしくないことをする。
貰っていた資料からはこんな迂闊な質問をするような人物では無かった筈なのに。
「いいえ、推測ではありません。生徒たちから優司君の家から怒鳴り声や物を叩く音が聞こえたという話を聞いていました。また、優司君の体のあざについては、医師の診断書があり、警察にも被害届を提出しています。」
私は立ち上がった。
白浜検事、それは無理がありますよ。
「補足させていただきますが、今里村さんがおっしゃった医師の診断書と被害届の提出記録は、乙第1号証、医師の診断書と乙第2号証、里村さんが提出した被害届の写し、としてどちらも証拠品として既に提出しております。証拠調べ、お忘れですか?」
白浜検事の表情が一瞬歪んだ。
彼女は苛立ちを隠せない様子で、机の上の書類を乱暴にめくった。
なんなんだろう?
とは言えおかげで空気が変わったのを感じる。
「それでは、被告人が他の生徒に対して攻撃的な行動を取ったことはありますか?」
白浜検事の声には明らかな焦りが混じっていた。
「いいえ、そのようなことはありませんでした。むしろ、須田さんは常に周りの人を気遣う優しい生徒でした。」
里村先生は冷静に答えた。
白浜検事は歯噛みするように唇を噛み、次の質問を探るように書類に目を走らせた。
彼女の焦りは、法廷内の誰の目にも明らかだった
里村先生の証言が終わった後、検察側の論告が始まった。
白浜検事が静かに立ち上がった。
法廷内は、彼女の動きに呼応するかのように緊張感が走る。
彼女は一礼し、裁判官席を見据えた後、落ち着いた口調で語り始めた。
「本件は、極めて重大であり、残虐な事件です。被告人須田優司は、広至3年10月21日、自宅で皆原誠氏を包丁で刺し殺害し、その後、麹町区霞見町の旧七條商事ビルにおいて久留島秀一氏を金属バットで暴行し殺害しました。これらの行為は計画性こそ認められないものの、その残虐性と冷酷さにおいて極めて悪質です。」
白浜検事は資料に目を落としながら続けた。
「まず第一に、本件では二名もの尊い命が奪われました。そのうち皆原誠氏については、被告人の家庭内で発生した事件であり、被告人と被害者との間には複雑な関係性があったことが明らかになっています。しかし、それが殺人という結果を正当化する理由にはなりません。」
彼女は一呼吸置き、傍聴席にも視線を向けた。
「第二に、久留島秀一氏への暴行殺害についてですが、この事件では被告人が犯行後、自ら110番通報を行っています。一見すると、この行動には罪の意識や反省があったようにも見えます。しかし、その通報内容やその後の行動からは、被告人が自らの行為を軽視しているようにすら感じられます。被告人は通報中も冷静沈着であり、その声には緊張感や後悔の色が全く見受けられませんでした。」
白浜検事は証拠として提出された通報記録を指し示した。
「この録音からも明らかなように、被告人は犯行後も冷静さを保ち、自身の行為を淡々と説明しています。この態度は、反省や悔悟とは程遠いものです。」
彼女の声には徐々に力強さが増していく。
「さらに、本件では被害者久留島さんへの暴行についても、その手口が極めて残虐であることが指摘されています。金属バットによる執拗な暴行、その結果として生じた外傷性ショックによる死亡――これらはいずれも被告人の行為がいかに冷酷であったかを如実に物語っています。」
白浜検事は裁判官席へ視線を戻し、少し間を置いてから言葉を続けた。
「確かに、本件では被告人の生育環境や精神的な背景について考慮すべき点があることは否定できません。しかし、それらの事情があるからといって、このような残虐な犯行が許されるわけではありません。被告人自身も公判中、一切その動機について語ろうとはせず、自身の行為と向き合おうとする姿勢も見受けられませんでした。」
法廷内には重苦しい沈黙が広がっていた。
白浜検事は最後に一礼しながら締めくくった。
「以上の点から、本件において被告人須田優司には死刑以外の刑罰は相当ではないと考えます。当職は、被告人須田優司に対し死刑を求刑いたします。」
その言葉が響き渡ると、法廷内には再び静寂が訪れた。
傍聴席では何人かが息を呑む音すら聞こえる。
白浜検事は毅然とした態度で席へ戻り、その表情には一切の揺るぎも見られなかった。
私は白浜検事の言葉に重いものを感じた。
死刑、それは須田さんの人生の終わりを意味する。
何としても、それを阻止しなければならない。
続いて、弁護側の最終弁論だ。
法廷内は、検察官の力強い論告を受けて張り詰めた空気が漂っている。
私は立ち上がり一礼し、裁判長に向き直った。
「裁判長、そしてこの法廷にお集まりの皆さま。本件について、被告人須田優司が罪を犯したこと自体について争うものではありません。しかし、その背景や彼の生育環境を無視して、この事件を単純に『残虐で冷酷な行為』と断じることはできないと考えます。」
私は少し間を置き、言葉を選びながら続けた。
「須田さんは幼少期から母親による虐待を受けて育ちました。その影響で、彼は常に他者の顔色を伺い、自分の感情を押し殺して生きてきたのです。叔母である須田紗季さんが彼を引き取った時期だけが、彼にとって唯一心安らぐ時間だったと言えるでしょう。しかし、その叔母も震災で亡くなり、再び母親との生活を余儀なくされました。このような過酷な環境の中で、須田さんは『笑顔』という仮面を身につけ、自分自身を守ろうとしていたのです。」
私は裁判長の目を見据えながら、さらに言葉を重ねた。
「確かに、本件では二名もの命が失われました。その重みは決して軽視されるべきではありません。しかし、須田さんが犯行に至った背景には、長年の精神的な抑圧と孤独が存在していました。彼は突発的に暴力へと走ってしまったのです。」
法廷内の静寂がさらに深まる中、私は証人たちの証言に触れた。
「証人として出廷した青木医師も述べていたように、須田さんにはPTSDや解離性障害の兆候が見られました。これらは幼少期からの虐待やトラウマによるものです。また、バイト先の同僚である府内さんや元担任の里村先生も証言していたように、須田さんは周囲から『優しく思いやりのある人物』として評価されていました。彼が他者を守ろうとする姿勢は一貫しており、それが今回の事件と結びつくまでには複雑な経緯があったことをご理解いただきたいと思います。」
私は一呼吸置き、声に力を込めた。
「検察官は、本件犯行後も須田さんが冷静沈着であったことを指摘しました。しかし、それは彼がこれまで身につけてきた『仮面』そのものです。彼は自分自身すら制御できない状態でありながら、その仮面を崩すことなく振る舞おうとしていたに過ぎません。これを冷酷さと断じることは早計です。」
最後に私は裁判長へ向けて頭を下げた。
「須田さんには更生の可能性があります。彼自身も、自ら110番通報し、自首するという形で責任を取ろうとしました。その行動には、自分自身と向き合おうとする意志が感じられます。本件では被害者遺族のお気持ちにも十分配慮しつつも、被告人が再び社会で生き直す機会を与えるべきだと考えます。どうか極刑ではなく、更生への道筋となる判決をご検討いただけますようお願い申し上げます。」
どうか、どうか。
私は深く頭を下げ、席へ戻る。
この場で私にできることは全てやり切った――そう自分に言い聞かせながら、私は静かに息を整えた。
私は自分の言葉が須田さんに届くことを心から願っていた。
最後に須田さんに最終陳述の機会が与えられた。
彼はゆっくりと立ち上がり、法廷を見回した。
そして、
「特にありません。」
と短く答えるだけだった。
その表情は終始変わらぬ微笑みを浮かべていた。
実に、彼らしい。
そんな彼への親近感と、一抹の寂しさのようなものがふわりと胸を撫でた。
東雲裁判長は、
「では、判決言い渡しは一ヶ月後の12月18日午後2時からとします」
と告げ、この日の審理を終えた。
判決言い渡しまでの1ヶ月間、私は須田さんとの面会を重ねた。
ある日の面会で、私は意を決して須田さんに問いかけた。
「須田さん、裁判でもあなたの人柄や優しい性格が明らかになりました。なぜあなたのような人がこのような事件を起こしてしまったのですか?やはりあなたの辛い過去が関係しているのですか?」
須田さんは相変わらずの笑顔で私を見つめてくる。
やはり答えてくれないのか、と思った瞬間、須田さんが口を開いた。
「確かに私の生い立ちは人と比べると不幸なものかもしれません。」
須田さんは淡々と語り始めた。
「それでも、私より不幸な人生を歩んできたのに、歯を食いしばって真面目に生きてきた人なんていくらでもいるんですよ。」
その言葉に、私は思わず食い下がった。
「それなら尚更なぜこんなことを…。」
須田さんは私の目をまっすぐ見つめ、静かに答えた。
「高津さん、人は本当に追い詰められると2種類に分かれるそうです。自分を殺すか、人を殺すか。」
彼の声には不思議な静けさがあった。
「僕は人を殺す方だった、それだけです。」
そう言って、須田さんは晴れやかに微笑んだ。
「そしてもうすぐ正しく裁かれるのです、それで終わりです。」
違う、そうじゃない。
そんなはずはないと私の直感が叫んでいる。
須田さんの言葉に、私は強く反論せずにはいられなかった。
「何も終わりませんよ。裁判の後、賭けに負けたあなたから全てを聞くのを楽しみにしています。」
言いながら、思わず目頭に浮かんだ涙を拭った。
やはり私は変わらない、無力なままだと思い知る。
でもだからこそ、挑発的に応じたのだ。
須田さんは少し驚いたような表情を見せたが、すぐにいつもの穏やかな笑顔に戻った。
「…僕も楽しみですよ。」
と須田さんは返した。
須田さんは相変わらず寡黙で、私の話に耳を傾け、時折穏やかな笑みを浮かべるだけだった。
私は粘り強く須田さんと向き合い、時間を共にした。
彼の心の内を少しでも理解したかった。
一方白浜検事は判決に備えて資料を整理し、万が一の控訴に向けた準備を進めているらしい。
私は彼女の動きを注視していた。
メディアは連日のように須田裁判の特集を組み、専門家たちがさまざまな予想を立てていた。
傍聴券を求める人々の列は裁判所の外まで伸び、社会の注目は頂点に達していた。
私はこの裁判の重圧をひしひしと感じていた。
そして、運命の日が訪れた。
法廷内の緊張が最高潮に達する中、東雲裁判長は厳かに判決文の朗読を始めた。
「本件被告人須田優司に対する殺人被告事件について、当裁判所は以下のとおり判決する。理由、被告人は広至3年10月21日、被害者皆原誠を自宅の包丁を使って殺害し、その後、被害者久留島秀一を殺害した。被告人は皆原誠および久留島秀一という2名の命を奪った。これらの行為は極めて重大であり、被告人の刑事責任は誠に重い。特に久留島秀一への暴行では、金属バットによる執拗な攻撃によって被害者は死亡しており、その社会的影響も甚大である。」
主文後回しだ。
須田さんは静かに前を見据えていた。
口元には、いつもの穏やかな微笑みが浮かんでいる。
しかし、その瞳の奥には、底知れない深淵が広がっているようだった。
私は彼の表情から、真意を読み取ることができなかった。
「被告人は裁判中、自らの動機について明確な説明を行わなかったため、その詳細は不明である。しかしながら、被告人の行動やその結果から、感情的な衝動や複雑な背景が影響した可能性が高いと推測される。」
この言葉を聞いた瞬間、須田さんの表情に微かな変化が現れた。
眉間にわずかなしわが寄り、目が僅かに見開かれる。
その変化を見逃さなかった。
そして私は勝利を確信する。
心臓が高鳴っているのがわかった。
「被告人には冷静な態度や自首した事実から、更生可能性が完全には否定できない。一方で、その精神的背景や犯行内容から再犯リスクが完全には排除できず、更生には長期間の収容と適切な治療・指導が必要と判断される。」
裁判長の言葉が、静かに法廷に響き渡る。
その瞬間、須田さんの表情から、一切の感情が消え去った。
「本件では、更生可能性が完全には否定できないものの、2名という命が失われた結果の重大性、社会的影響、再犯防止など総合的に判断し、無期懲役刑を科すことが相当と判断した。」
須田さんは蝋人形のように固まったかと思うと、次の瞬間、体が小刻みに震え出した。
血の気が引いたように顔面は蒼白になり、口元がわなないていた。
さすがに心配になってくる。
「よって、主文のとおり判決する。主文、被告人を無期懲役に処する。」
東雲裁判長が判決文の朗読を終えると、法廷に衝撃が走った。
その瞬間、静寂が訪れた。
だが、それを破ったのは須田さんだった。
「無期懲役?」
須田さんの声が突如法廷に響き渡る。
「一体僕の何を理解して、何を斟酌しようと言うんだ!?」
須田さんが椅子を蹴倒し立ち上がる。
その顔は怒りに歪み、目は血走っている。
喉が張り裂けんばかりに叫んだ。
「僕を…僕を理解したつもりか!ふざけるな!一体何がわかる!?」
法廷は一瞬にして騒然となった。
警備の警察官たちが素早く須田さんに近づき、制止しようとする。
須田さんの口から発せられた言葉に、法廷の空気が一瞬にして凍りついた。
それまで微動だにしなかった彼の肩が大きく揺れ、握りしめられた拳が小刻みに震えている。
彼の表情は一変し、普段の微笑みは消え失せ、激しい怒りに歪んでいた。
目は血走り、拳を強く握りしめている。
傍聴席からはどよめきが起こり、記者たちはペンを走らせ始めた。
法廷警備の警官たちは必死で暴れる須田さんを押さえている。
東雲裁判長は厳しい表情で須田を見つめ、静かに口を開いた。
「被告人、このような行為は法廷侮辱罪に当たります。」
しかし、須田さんの激昂は収まらなかった。
「こんなものは茶番だ!」
東雲裁判官は刹那目を閉じ、深呼吸をした。
そして静かに、しかし毅然とした態度で話し始めた。
「被告人。」
その声は厳格でありながら、どこか悲痛な響きを含んでいた。
「判決に対する不服は控訴という正当な手続きを通じて表明すべきです。法廷での秩序を乱す行為は、新たな罪に問われる可能性があることを申し添えます。」
東雲裁判官は間を置いてさらに続けた。
「本法廷は、提示された全ての証拠と証言を慎重に検討した上で判断を下しました。被告人には黙秘権がありますが、もし伝えたいことがあるならば、それは適切な手続きを通じて行うべきです。あなたには全てを明かす権利も、等しく与えられているのですから。」
その言葉に、須田さんの表情が凍りついた。
法廷内は息を呑むような静寂に包まれた。
しかし、その静寂を破るように白浜検事が立ち上がった。
その声には緊迫感が漂っている。
「裁判長。ただいまの点について当職の意見をお伝えしてよろしいでしょうか?」
「どうぞ。」
白浜検事は毅然とした態度で言葉を続けた。
「被告人の突然の行動変化には精神状態に問題がある可能性があります。先程青木さんも現在の精神状態については、現在の診断が必要だと証言しておられました。当職は被告人の精神鑑定の実施と留置所への移送を提案いたします。」
東雲裁判長は白浜検事と須田さんを見比べ、一瞬考え込んだ後、
「弁護人、この件について意見がありますか?」
と問いかけた。
私は一瞬躊躇した、白浜検事にうまく利用されたな。
「異議ありません。」
と答えた。
鑑定で須田さんの精神状態がより深くわかるかもしれない、それは私も興味がある。
「被告人の状態を正確に把握するためにも精神鑑定は必要だと考えます。」
「わかりました。」
東雲裁判長は深くため息をつきながら決断した。
「では、被告人について精神鑑定を実施し、その間留置所へ移送することとします。」
法廷内に緊張が走る中、警備員によって押さえ込まれた須田さんは無表情になっていた。
その顔には先ほどまで見せていた激昂も穏やかな微笑みも消え失せていた。
ただ、その目には何か深い闇が宿っているようだった。
白浜検事はわずかに満足げな表情を浮かべながら席へ戻った。
法廷の重苦しい空気を吸い込みながら、私は面会室へと向かった。
須田さんに直接話を聞く最後のチャンスかもしれない。
判決言い渡し後、私は須田さんと裁判所の面会室で向き合った。
「須田さん、もう大丈夫ですか?」
慎重に言葉を選んだ。
須田さんはいつもの穏やかな笑みを浮かべた。
「高津さん、お疲れ様でした。」
その声には以前と変わらぬ冷静さがあった。
「先ほどの…。」
私が言いかけると、須田さんが遮った。
「控訴します。」
須田さんは静かに言った。
「全てをお話しするのは判決が確定してからです。」
私は静かに頷いた。
須田さんならそう言うだろうことはどこかでわかりきっていた。
「どのみち検察も控訴するでしょう。…とは言え弁論通りの減刑の判決が出たのに控訴とは、控訴事由はどうしたものか。」
ため息混じりに呟く。
「ご苦労をお掛けします。」
須田さんは変わらず笑顔を向ける。
「本当に思ってますか?」
笑顔で応じると須田さんは思わず吹き出した、釣られて吹き出し2人でひとしきり笑った。
ここにきて壁が一枚除かれたようだ。
奇妙な連帯感を感じる。
そして面会室を後にする私の背後で、重い扉がゆっくりと閉まっていった。
廊下を歩いていると声が聞こえる、
「白浜検事、一つ伺ってもよろしいでしょうか。」
白浜検事ともう一人のようだ。
「何でしょうか、十河警視。」
その声は、いつも通り冷静だった。
「もし精神鑑定で須田に責任能力なしの鑑定が出た場合、死刑どころか有罪も厳しくなります。なぜあのタイミングで異議を唱えたのですか?」
白浜検事は薄く笑みを浮かべた。
その表情には、何かを企んでいるような色が見えた。
「確かに責任能力無しならそうなりますね。でも、あの男は絶対に全て理解した上でわかってやっています。だから精神鑑定で責任能力は必ず認められるはずです。」
彼女は一呼吸置いて続けた。
「それに、留置所であれば我々としても色々と動きやすい。そうでしょ?」
男は白浜検事の言葉の意味を瞬時に理解したようで、
「なるほど。」
と返した。
二人の思惑は図らずも一致したらしい。
こんな所で不用心な、とはいえラッキーだなと思いながら出口に向かうと、
「捜査報告書には目を通されましたか?」
十河警視が白浜検事に声を掛ける。
白浜検事は答えなかった。やはりちゃんと読んでなかったかと妙に納得した。
「なるべく早く目を通すことをお勧めします。」
やっぱり控訴するよな、須田さんの運命を決める新たな局面が静かに幕を開けようとしていた。
廊下の向こうでは警備隊に連れられた須田さんの姿が見えた。
彼の顔には再びあの特徴的な微笑みが浮かんでいた。