第六章前編
胸元の弁護士バッジを磨く、私は高津秀人。
東京地方裁判所の第一法廷には、重苦しい空気が満ちていた。
午前中から続いた冒頭手続きと冒頭陳述、そして証拠調べが終わり、東雲裁判長の声が法廷に響く。
東雲正和裁判長は小柄だが、威厳のある雰囲気を醸し出していた。
白髪が目立つ短髪と立派な髭を蓄えている。
厳格な表情だが、優しさも感じさせる50代後半の男性である。
「午前中の審理はここまでとします。午後の審理は13時から再開します。」
東雲裁判長が昼休憩を宣言した。
私は須田さんとの面会を申し出て許可された。
面会室で私は須田さんを見つめる。
蛍光灯の下で彼は、いつも通りの穏やかな笑顔を浮かべていた。
私は椅子に深く腰掛け、須田さんの目をまっすぐ見つめた。
「須田さん、午後からは論告と求刑が始まります。その前にあなたから事件の真相について直接聞きたいのです。」
静かに須田さんに告げる。
「私はあなたの過去について調べました。あなたの複雑な家庭環境、母親との確執、そしてあなたを引き取ってくれた叔母さんとの絆…。」
須田さんは変わらぬ笑顔で私を見つめていた。
その表情からは何も読み取ることができない。
「そしてあなたの周りの人々からも話を聞きました。バイト先の同僚や、昔の担任の先生…。」
私は言葉を選びながら続けた。
「みんな口を揃えてあなたの優しさや思いやりを語っていました。困っている人を見かけると必ず声をかける。いつも笑顔で接する。そんなあなたの姿が浮かび上がってきたんです。」
須田さんは黙って聞いていたが、その笑顔は少しも崩れなかった。
私は深呼吸をし、最後の質問を投げかけた。
「須田さん、どうしてこんな事件を起こしてしまったのですか?あなたのような人が…。」
須田さんは相変わらずの笑顔で答えた。
「今更何も話す気はありません、判決が出れば全て終わりです。」
私は真剣な表情で言い返した。
「私が死刑になんてさせません。」
須田さんは小さく首を振った。
「無理ですね。あなたがどう弁護しようとも、反省の弁どころか罪を認めるだけで他には何も語らない、そんな被告人に待つのは死刑以外にないでしょう?」
私は前のめりになって言った。
「あなたは罪を犯した、確かにそうでしょう。だが私は調べれば調べるほどあなたは死刑になるべき人ではないと確信しているのです。そもそも私は弁護人ですよ?量刑弁論では減刑を求めます、死刑になんてさせません。」
須田さんは少し興味深そうに私を見た。
「これはおかしなことを仰いますね。弁護人とは被告人の利益を第一に考える被告人の代弁者であるはず、私がそれでいいと言っているものを、あなたが自分の意思で勝手に捻じ曲げるおつもりですか?」
少し痛いところを突かれたが、譲るつもりはない。
にしてもこんな知識どこで?
事前に調べていたというのか?
「私は弁護士です、『刑事弁護に関する基本原則』では「弁護人は、いかなる場合でも、死刑を求刑してはならない」と定められています。」
『刑事裁判に関する基本原則』なんて、我ながらよく咄嗟に出たな。
「おや、わが国では被告人が死刑を求め、弁護側も『被告の希望はできるだけかなえたい』とした事例もあったかと思いますが、その時の弁護人は弁護士として相応しくないと?」
なんでそんなこと知ってるんだよ。
「関係ありませんね、人の事をとやかく言えるような高尚な人間ではないので。ただあなたがそういう事例を挙げるなら、被告人が死刑を望んでも弁護人が減刑を求めた事例もあります。」
私は須田さんをまっすぐ見つめた。
室内に長い沈黙が訪れる。
するとふっと須田さんの笑顔が柔らかくなった。
「物好きですね、好きにするといい。ただ無駄でしょうがね。」
そのふとした笑顔こそ素顔だと信じたい。
私は自信に満ちた声で言った。
「私には勝算があるのです。ただ死刑に決まっているとそこまでいうのなら、もし死刑にならなかったら、本当のことを全て教えてくれませんか?」
勝算。
気持ちでは負けていない、それが全てだ。
相手は『法廷の死神』とか呼ばれていると受け取った資料にあった。
やだ怖い。
でも!気持ちでは負けない!
そんな私を見て、須田さんは一瞬考え込むような表情を見せた。
「…もしそんなことになれば私を生かしたことを後悔しますよ?」
私は即座に答えた。
こういう時は間を置いてはいけない。
「それは無いと確信しています。」
私はもう、自分の勘を疑わないことにしたのだ。
信頼に足る依頼人だと私が、そう感じたこと。
それで充分だった。
須田さんはわずかに肩をすくめる。
「まぁ話してもいいですよ、そんなことはありえませんけどね。」
面会時間が終わりに近づき、私は立ち上がった。
「午後の審理に戻ります。最後まで諦めませんから。」
と言って、須田さんに深々と頭を下げた。
部屋を出ると、須田さんの言葉が胸に重くのしかかる。
面会室を出て、冷たい廊下を歩きながら、私は午後の審理に備えた
昼休憩が終わる。
法廷に足を踏み入れた瞬間、ひんやりとした空気が肌を刺した。
張り詰めた静寂の中、東雲裁判長が重々しく腰を下ろす。
小柄な体躯からは想像もつかない威圧感が、傍聴席まで押し寄せてくるようだった。
傍聴席は埋め尽くされ、窓際には報道陣が群がっている。
白浜検事は分厚い資料に目を落としたまま、固く口を結んでいた。
東雲裁判長が午後の審理の開始を宣言した。
証人尋問が始まる。
最初に検察側の証人として、佐藤香菜さんが呼ばれた。
佐藤さんは35歳の警部補で、通信指令本部の指令第三係に所属していた。
白浜検事は立ち上がり、東雲裁判長に向かって言った。
「裁判長、被告人の110番通報の録音、証拠番号甲第7号証の再生を申請いたします。この録音には被告人の声だけでなく、被害者久留島秀一さんの声や断末魔とも取れる叫び声も含まれています。被告人の犯行時の心理状態と、犯行の残虐性を示す重要な証拠となります。再生の許可をお願いいたします。」
東雲裁判長は眉をひそめ、
「弁護人、よろしいですか?」
と私に尋ねた。
私は立ち上がり、少し躊躇した後で答えた。
「私としては、事件の真相を明らかにするという観点から、録音の再生自体には異議はありません。ただし事前協議で合意したように被害者の尊厳を考慮し、特に残虐な部分については配慮をお願いいたします。」
この言葉を聞いた直後、
「裁判長。」
法廷内が凍りつく、須田さんだ。
白浜検事は目を見開いている、私は恐る恐る須田さんに目を向けた。傍聴席からはざわめきが起こっている。
東雲裁判長は一瞬の動揺を見せたが、すぐに厳しい口調で諭した。
「被告人、発言の許可は出していません。」
しかし、須田さんは構わず続けた。
「これは重要です。弁護人は本当に被害者に配慮しているのでしょうか?被害者は自分の断末魔を聞かれたくないというより、自分を殺した者を断罪してほしいと思っているのではないでしょうか?」
騒然とする法廷の中、東雲裁判長は声を張り上げた。
「被告人、これ以上の発言は控えてください。」
私は須田さんの腕を掴み小声で、
「何をしているんですか、邪魔するとは聞いていませんよ!」
と詰め寄った。
須田さんは私に向かって微笑み、一瞬裁判長を見つめた後、黙り込んだ。
その顔には、いつもの穏やかな笑みが浮かんでいた。
この時、白浜検事が立ち上がった。
「裁判長、当職としても被告人の発言に一理あると考えます。」
うわ!あの女乗っかりやがった!
東雲裁判長は眉をひそめ、
「検察官、どういう意味でしょうか?」
「被害者の尊厳を守ることは重要です。しかし、それは真実を隠蔽することではありません。被害者の苦しみや恐怖を直視することこそが、この事件の重大性を理解する上で不可欠だと考えます。」
咄嗟にそれっぽいこと言いやがって、事前協議ではあの女も一部再生で合意したのに。
「幸い当職の手元には修正前の録音テープがございます。裁判長、よろしくお願いいたします。」
おいマジかよふざけんな、なんで修正前のテープあんだよ。
東雲裁判長は深く考え込んだ様子でしばらく沈黙する、頼むぞおっさん変なこと言い出さないでくれよ。
東雲裁判長は深く考え込んだ後、ゆっくりと口を開いた。
「検察官の意見を踏まえ、また被告人の意向も考慮し、録音の全てを再生することとします。ただし、これから流れる音声に強い衝撃を受ける可能性があることをあらかじめお伝えします。心臓の弱い方や、気分が悪くなった方は一時退席していただいて構いません。」
裁判長は一息置いてから続けた。
「また、この録音の内容は、法廷外での公開や共有を厳に慎んでいただくようお願いします。」
白浜検事が頷き、再生の準備を始める。
私は歯を食いしばりながら笑顔を作った。
しかし、もはや異議を唱えることはできない。
深いため息をつき、録音の再生に備えた。
「では証拠番号甲第7号証の再生を始めてください。」
東雲裁判長が告げた。
法廷内に緊張が走る中、110番通報の録音が再生され始めた。
「110番、警察です。事件ですか?事故ですか?」
資料によるとオペレーター宇野さんの声だろう。
「事件です。」
須田さんの声は、いつも通り落ち着いている。
「詳しい状況を教えてください。」
「場所は麹町区霞見町の旧七條ビルです。状況についてですが…。」
須田さんの声は驚くほど平静だった。
背景で微かな物音が聞こえる。
何かが床を引きずるような音だ。
「須田さん、そちらで何か…。」
「パトカーは何分くらいで来られますか?」
「20分から30分くらいだと思います。ただ、今夜は市内で複数の事件が発生しているようで、パトカーの到着が遅れる可能性もあります。」
「わかりました。」
須田さんはあまりに当たり前のように続ける。
「今から目の前の男を殺しますので、急いであげたほうがいいですよ。」
突然男性の悲鳴が響き渡る。
「や、やめろ!もう殴らないでくれ!」
恐怖に満ちた声が響く。
鈍い音が聞こえ、続いて苦しそうなうめき声が漏れる。
「おい須田!お前知ってんだろ!俺の親父は国会議員だぞ!お前なんか…。」
「ぐおおおぉっ!」
苦痛に満ちた叫び声が響き、その後急に途切れる。
重いものが床に倒れる音が鮮明に聞こえる。
「待ってください!何を…。」
通話が切れる音。
その後、無機質な通話終了音が響く。
分かってはいたがいざ耳にするとさすがに堪えるものがある。
背筋を冷たいものが伝う。
録音が終わると、法廷内は重苦しい沈黙に包まれた。
傍聴席からはすすり泣く音が聞こえ、何人かは顔を背けていた。
東雲裁判長は深呼吸をして、
「これで証拠番号甲第7号証の再生を終わります。」
と告げた。
白浜検事はしばらくの間、呆然とした表情で机の一点を見つめていた。
彼女の目は動かず、眉間にはわずかなしわが寄っていた。
どうした?
編集前後の録音の違いは被害者の声の有無くらいだ。
初めて聞いたわけでも無いだろうに。
普段の鋭い眼差しは失われ、何か遠くを見ているようだった。
「検察官。」
東雲裁判長の声に白浜検事はハッとして顔を上げた。
一瞬の混乱の後、彼女は急いで姿勢を正した。
「はい、裁判長。」
白浜検事の声には、まだ少し戸惑いが残っていた。
「証人への尋問を続けてください。」
裁判長は静かに促した。
白浜検事は深く息を吐き、意識を取り戻すように小さく首を振った。
彼女は立ち上がり、声を整えてから話し始めた。
「佐藤さん、この録音について、あなたの印象を聞かせてください。」
佐藤さんは深呼吸をして答えた。
「はい。この通報は私が聞いた中でも、非常に特異なものです。」
「どのような点が特異だったのでしょうか?」
「まず、須田さんの声のトーンが異常なほど冷静だったことです。通常、このような重大な犯罪の通報では、通報者の声に動揺や焦りが感じられます。しかし、須田さんの声にはそういった感情が全く感じられませんでした。」
白浜検事が大袈裟に頷き、
「通報を受けた時、宇野さんはどのように対応ていましたか?」
「最初は落ち着いて対応していましたが、途中から慌てて大きな声を出したので、即座に事態の深刻さを理解しました。すぐに皆で車両の手配をして、それから宇野さんに詳細を聞こうとしましたが落ち着くのに少し時間が掛かりました。」
「被告人が自ら110番通報をしたことについて、どのようにお考えですか?」
「非常に珍しいケースです。通常犯罪者が自ら通報することはあまりありません。」
白浜検事が席に戻ると、法廷内にはまだ重苦しい空気が漂っていた。
東雲裁判長は咳払いをして、場の雰囲気を変えようとした。
「弁護人、反対尋問はありますか?」
私はゆっくりと立ち上がった。
胸には録音を聞いた後の動揺が残っていたが、そんなこと言ってられない。
「本日宇野さんは出廷されなかったんですね。」
ヤバい、動揺して変なこと聞いちゃったよ。
「宇野さんは現在別部署に異動になりました。勤務の都合上出廷できませんでしたので、通報時隣にいた私が参りました。」
佐藤さんは淡々と答えた。
「勤務の都合というのはどういった内容ですか?」
「裁判長、今の質問が本件に関係あるとは思えないのですが。」
すかさず佐藤さんが裁判長に声をかける。
「弁護人、本件に関係のある質問をしてください。」
佐藤さんは笑顔で私を見る。
冷静な判断力と的確な指摘。
うん、手強いな。
「それでは、須田さんは自ら110番通報をしていますね?」
「はい、そうです。」
「これは須田さんに罪の意識があったことを示唆しているのではないでしょうか?」
「裁判長、弁護人の質問は証人に推測を求めるものです。」
白浜検事がすかさず異議を挟む、さすがに露骨だったか。
「弁護人、事実に基づいた質問をしてください。」
「失礼しました。佐藤さん、須田さんの通報内容は正確でしたか?」
「はい、須田さんは犯行の場所と内容を明確に伝えていました。」
「裁判長、補足質問をよろしいでしょうか。」
この女またかよ。
「どうぞ。」
裁判長が促す。
「佐藤さん、被告人は通報後、現場に留まっていましたか?」
「いいえ、通報後に須田さんは現場から立ち去っていました。」
まぁそう来るよな。
「裁判長、反対尋問の機会をいただけますでしょうか。」
「どうぞ。」
「佐藤さん、須田さんはその後、自首したと聞いています。これは事実ですか?」
「はい、私も後からそのように聞いています。ただ、自首の詳細については私の担当外でしたので、詳しいことは分かりません。」
「ありがとうございます。以上です。」
東雲裁判長は両者を見渡してから言った。
「他に質問はありませんか?」
白浜検事と私が共に首を横に振ったのを確認すると、裁判長は佐藤さんに、
「証人、退廷してください。」
と告げた。
次の証人は須田さんの部屋の大家、田中さんだった。
白浜検事は静かに立ち上がり、田中さんに向き直った。
法廷内に緊張感が漂う。
「田中忠男さん、被告人について、どのような印象をお持ちでしたか?」
田中さんは少し考え込んでから答えた。
「須田さんは、いつも笑顔の礼儀正しい青年でした。」
白浜検事は頷く、いきなり印象を問う質問?と私は訝ったが、須田さんに取って悪い証言でも無いのでそのまま聞くことにした。
白浜検事は次の質問に移る。
「田中さん、事件当日の被告人の様子はいかがでしたか?」
「普段と変わらず、バイトに出かけていきました。」
田中さんは答えた。
「変わらない、とおっしゃいましたが、具体的にはどういった様子でしたか?」
田中さんは眉をひそめながら答えた。
「笑顔で『いってきます』と挨拶をして出て行きました。」
白浜検事は次の質問をした。
「田中さん、被告人がその日バイトに行ったことを不自然だと感じませんでしたか?」
「正直、その時は気にも留めませんでした。でも後から考えると...。」
田中さんは言葉を選びながら続けた。
「あんな事をした後に、いつも通りの顔でバイトに行くなんて...普通じゃないですよね。」
私は即座に立ち上がった。
「裁判長、この質問と回答は証人の個人的な意見を求めるものです。」
東雲裁判長が、
「異議を認め...。」
と言いかけたところで、白浜検事が割って入った。
「裁判長、反論させていただきます。」
私は息を呑んだ、白浜検事は私を見据えながら続けた。
「確かにこの質問は証人の意見を含みますが、一般的な社会通念に基づいた印象は、被告人の行動の異常性を示す重要な証拠となります。」
東雲裁判長は少し考え込んだ後、
「検察官、質問の仕方を変えて、より客観的な事実に基づいた回答を得るようにしてください。」
白浜検事は頷き、田中さんに向き直った。
「では田中さん、あなたの知る限り被告人は事件当日、普段と同じように行動していましたか?それとも、何か違いはありましたか?」
田中さんは少し考えてから答えた。
「特に変わったところはありません、いつも通りでした。」
白浜検事は満足げに頷いたが、さらに一歩踏み込んだ。
「田中さん、最後にもう一つ質問させてください。人を殺した後にいつも通り笑顔で挨拶をして、アルバイトに行くという行動は一般的にどのような印象を持たれるでしょうか?」
私は即座に立ち上がり、冷静を装って言葉を選ぶ。
「裁判長、この質問は証人の個人的な意見を求めるものであり、また須田さんに対して不当に偏見を与える可能性があります。」
白浜検事はすかさず反論した。
「裁判長、この質問は被告人の行動の異常性を示すために必要不可欠です。被告人が殺人を認めている以上、その後の行動を評価することは重要な証言となります。更に今回の質問では個人的にではなく一般論でどう評価されるかを問うていますので、弁護人の指摘は当てはまらないと当職は考えます。」
東雲裁判長は両者の主張を聞いた後、しばらく考え込んだ。
私は内心で焦りを感じながらも、表情を変えずに裁判長の判断を待つ。
「弁護人の異議を却下します。」
東雲裁判長の声が響く。
「検察官、質問を続けてください。」
私は歯がゆさを感じながらも、席に戻った。
やはりこの女、一筋縄ではいかない。
田中さんは少し戸惑った表情を浮かべながら答えた。
「それは...普通ではないと評価されると思います。何か感情が欠けているような印象でしょうか。」
法廷内にざわめきが広がる。白浜検事はその反応を確認しながら、
「ありがとうございます。以上です。」
と告げて席に戻った。
東雲裁判長が私に向かって、
「弁護人、反対尋問はありますか?」
と尋ねた。
私は立ち上がり、田中さんに向き直った。
この不利な証言の影響をどう最小限に抑えるか、頭の中で必死に戦略を練る。
「田中さん、須田さんの日頃の態度についてお伺いします。須田さんは普段から礼儀正しく、周囲に気を遣う性格だったということは間違いありませんか?」
「はい、それは間違いありません。」
田中さんは即答した。
しかしここから続かない。
「…ありがとうございます。以上です。」
と告げて席に戻った。
法廷は完全にアウェーの空気だった。
まぁそんな状況には慣れきっている、なんなら今日は罵声を浴びないだけマシだ。
報道では好き放題言われているし、言いたい奴には言わせておけばいい。
田中さんが退廷すると、裁判長は次の証人を呼ぶ前に小休憩を宣言した。
「15分間の休憩とします。」
なんとか検察側の証人尋問が終わった。
まさしく防戦一方、このあと司法解剖の担当医が残虐性を強調したりしたら最悪だった。
日程調整が上手くいかなかったのか、出廷しなかったのがせめてもの救いだ。
法廷内の人々がざわめき始める中、須田さんはいつもの穏やかな笑みを浮かべたまま、じっと前を見つめていた。
彼の表情からは、たった今聞いた自身の犯行の生々しい記録に対する反応を読み取ることはできなかった。
私は未だ彼の真意を知るに至らないもどかしさと共に、諦めることのできない自分を目の当たりにした。
15分間の休憩が終わり、法廷に再び緊張感が漂い始めた。