拾ったカード
赤縁メガネのレンズを、クロスで執拗に磨く。
指先に力が入りすぎて、フレームが軋む音が静寂に響いた。
あれから僕は、ただ時間を浪費するだけの無為な日々を過ごしていた。
心に穿たれた巨大な風穴。
そこから冷たい風が吹き込み、僕という人間の中身を少しずつ削り取っていくような感覚。
須田優司を護送中に逃走させ、結果死なせてしまった。
その責任を問われ、現在は懲戒停職中の身だ。
本来なら、大人しく謹慎していなければならない。
だが、どうしても確かめたいことがあった。
あの日僕は震える手でスマートフォンを握りしめ、知りうる限りの関係者に連絡を取っていた。
今日、この場所に彼らが集まる。
『高津法律事務所』
僕の考えに賛同した高津弁護士が、事務所を使わせてくれたのだ。
雑居ビルの一室にあるそのドアが開く。
「……宇野、お前が呼び出すとはな」
最初に入ってきたのは、捜査一課の十河警視だった。
その表情は能面のように硬く、眉間の皺は深く刻まれている。
「すみません警視、停職中の身で……でもどうしても皆さんと話がしたくて」
僕は小さくなって頭を下げる。
続いて、ノックとともに小柄な男性が現れた。
「失礼します……」
検察事務官の三木さんだ。
本当は、全ての元凶とも言える白浜検事にも声をかけた。
しかし彼女は『今更語る資格等私にはない』と静かに、だが頑なに拒絶した。
代わりに、彼女は『彼』を行かせると言った。
三木さんは沈痛な面持ちで、十河警視の姿を見ると気まずそうに目を伏せた。
「遠いところありがとうございます、三木さん」
僕が席を勧めると、家主である高津弁護士がお茶を運んできた。
「狭いところで申し訳ないです……それで宇野さん、私の方で声をかけた件ですが」
高津弁護士が言いかけた時、ドアが勢いよく開かれた。
「入るわよ」
キャップを目深に被り、不躾にガムを噛んでいる女性。
彼女は遠慮など微塵もなく、ズカズカと入ってくる。
「こちらは?」
そう尋ねる僕に重ねるように十河警視が、
「お前は!あの時の!」
と声を荒らげた。
女性は冷ややかな目で十河を見て、
「どーもー、探偵のくーちゃんでーす」
と淡々と名乗った。
その態度に、十河警視のこめかみに青筋が浮かぶが見えた。
そんなやり取りを気にもとめない高津さん。
そしてあっけらかんとした雰囲気で、
「元嫁の久美子です、須田沙良さん紗季さん姉妹と古くから知り合いだったり深く関わっているので連れてきました。いきなりですみません」
と説明した。
その言葉に、僕は思わず目を見開いた。
久美子さんは高津さんを鋭く睨みつけ、
「何勝手に喋ってんの?」
と低い声で言った。
その目には怒りの色が浮かんでいた。
「どうせすぐにバレるよ」
と言う高津さんに、久美子さんはさらに冷たい視線を送った。
十河警視は深いため息をつき、
「後で話を聞かせてもらおう」
と言った。
そして久美子さんの背後から、白衣姿の男性がのっそりと現れた。
「久美子君に呼ばれてね……私も参加させてもらうよ」
ボサボサ頭を掻きながら入ってきたのは、かつて須田の主治医だった青木修二先生だ。
これで、役者は揃った。
十河警視が眉をひそめる。
「……おい宇野、どういう人選だ」
「この事件の……須田優司の真実を知る人を、全員集めたかったんです」
僕は覚悟を決めて言った。
「さっさと始めなさいよ、時間の無駄だわ」
久美子さんが席にドカッと座り、ふてぶてしく足を組む。
互いの腹を探り合うような時間が始まった。
十河警視が淡々と進める。
「皆原は……司法解剖の結果自殺と判明した、頸部の躊躇い傷が見落とされていた」
久美子さんが、冷ややかに口を挟む。
「見落とし? 科捜研に圧力をかけた検察と、それに追従した警察の組織的な隠蔽でしょう?」
その言葉に、三木さんが静かに口を開いた。
「……おっしゃる通りです」
三木さんの声は震えていたが、はっきりとしていた。
「あの時、我々はためらい傷の存在を認識していました。ですがそれを科捜研に圧力を掛け封殺して起訴を急いだ。……私もそれに異を唱えなかった、共犯です」
室内が静まり返る。
「白浜検事は責任を取り辞職しました、私も今月末で事務官を辞します」
「はぁ!?」
久美子さんが素っ頓狂な声を上げた。
「辞職って……懲戒免職じゃないの? 自分から辞めるってことは、退職金もしっかり受け取るつもり!? あれだけのことをしておいて!」
「いえ、白浜検事は退職金の受け取りを拒否されました。……私もそのつもりです」
その言葉に久美子さんは振り上げた拳のやり場を失ったように、ふんと鼻を鳴らした。
「……ま、当然ね。それくらいしてもらわないと、死んだ優司も浮かばれないわ」
久美子さんが握った拳が小刻みに震えている。
「次に皆原誠の遺体が滅多刺しになってる件だけど」
久美子さんの目が鋭く光る。
「あれ、本当に優司がやったの? 死後損壊、優司に死体をあそこまで傷つける動機があるとは思えないんだけど」
十河警視は表情一つ変えずに答えた。
「状況証拠は須田の犯行を示している」
そこで、青木先生が口を開いた。
「医学的な見地から言わせてもらえば、致命傷以外これらの傷は死後相当時間が経過してから付けられたものです。つまり殺害後相当時間経過後に滅多刺しにした……明らかに不自然です」
「そうよ!」
久美子さんがバンと机を叩く。
「第一発見者は誰? 家宅捜索の時だから警察官よね? まさか身内の不始末を隠してるんじゃないでしょうね」
十河警視の眉間の皺が深くなる。
「……現在鋭意調査中だ。確たる証拠がない以上、憶測で語ることはできない」
「調査中ねぇ……随分と便利な言葉だこと」
久美子さんは鼻で笑ったが、それ以上は追及しなかった。
「じゃあ、優司を撃ち殺した件はどう言い訳するの? あれは処刑だったわよ」
「言葉を選べ」
十河警視の声がドスを利かせる。
「瀬戸警部の発砲は、警察官職務執行法第七条に基づく正当な武器使用だ。被疑者は凶器を所持し、人質である高津弁護士の生命に明白な危険が迫っていた。躊躇すれば被害者が出ていた」
「……へえ、随分と都合のいい解釈ね。殺せば口封じもできるし、一石二鳥ってわけ?」
「法と規定に則った判断だ、現場にいた人間ならわかるはずだが?」
十河警視の眼光が鋭くなる。
「……まあいいわ、死人に口なしだものね」
ギスギスとした空気が、僕の胃をキリキリと締め上げる。
警察としての建前を崩さない十河警視と、それを冷めた目で見つめる久美子さん。
そこには真実を追求する熱意よりも、互いの立場を守るための冷徹な計算が見え隠れしていた。
「それに、汚職の件はどうなのよ」
久美子さんが畳み掛ける。
「久留島みたいなクズを野放しにしてきたのは、バックにいる政治家への忖度があったからじゃないの?」
「……」
十河警視は黙り込む。
「通報の録音、裁判で流れたわよね。『俺の親父は国会議員だぞ』って、久留島本人が喚いてたじゃない」
久美子さんは、十河警視の目を覗き込むようにして続けた。
「それに殺害現場……あそこが元々どういう建物か、まさか警察が把握していないとは言わせないわよ?」
「……」
十河警視は口を真一文字に結び、何も答えなかった。
「否定しないのね」
「……我々は法に基づいて捜査を行っている、それ以上でも以下でもない」
十河警視の反論は弱々しく、部屋の空気をさらに重くした。
そんな重い空気を払うように、高津弁護士が話題を変えた。
「……結局、須田さんは何がしたかったんでしょうか。動機も目的も、何もかもが霧の中です」
「それは……優司は絶望していたんでしょう、自分が染色体キメラだったんだから」
久美子さんが言った。
「キメラ?」
ファンタジーみたいな響きに思わず首を傾げる。
「そう、DNA鑑定で親子関係が出ないの。だから五十島謙と優司は、生物学的には親子だった可能性がある」
久美子さんは勝ち誇ったように言った。
「そう言う事か!」
僕はふとある記憶が蘇り、手を打った。
突然の僕の声に、全員の視線が集まる。
「えっと……護送中に須田と話していた時に、なんか不思議なこと言ってたんですよ」
僕は記憶を手繰り寄せる。
「これはあくまで知人の話だって前置きして……『義父から、一つの真実と一つの可能性を告げられて、全ての前提がひっくり返った』とか何とか。即興にしてはよくできているだろうとか言ってたけど絶対本当の事ですよ」
僕がそう言った瞬間、十河警視が椅子を蹴り倒す勢いで立ち上がった。
「……宇野」
「は、はい?」
「お前、それを聞いていたのか?」
十河警視の目が血走っている。
「え? あ、はい。今の染色体キメラの話を聞いてようやく意味が繋がりましたよ! やっぱりあれは『知人』じゃなくて自分のことだったんですね」
「き、貴様……ッ!」
十河警視がわなわなと震えながら詰め寄ってくる。
「な、なんですか?」
「なぜそれを! 早く報告しなかった!!」
「ええっ!? しましたよ!」
僕は慌てて弁解する。
「留置管理課長にちゃんと報告書出しましたって! でも課長が『こんな話、上にあげられるか』って却下しちゃって」
「大曽根か……!!」
十河警視が顔を歪め、頭を抱えた。
「……俺の同期だ、事勿れ主義の腰抜けが……! 腐りきってやがる!」
「まあまあ、十河さん」
高津弁護士がなだめるように言う。
「結果論です、宇野さんも悪気があって隠していたわけじゃないんですから」
「そうですよ、僕だって停職中でどうしようもなかったんですから」
そんなやり取りを眺めていた青木先生が、やれやれといった顔でコーヒーを啜った。
「少し話を戻すぞ久美子君。君、私の説明をちゃんと聞いてなかったのか?」
「え? 何か間違ってました?」
「確かに優司君『も』キメラだとは言ったが、それだけじゃ意味がないんだ」
先生は呆れたように説明を始めた。
「もし優司君だけがキメラで二つの遺伝子を持っていたとしても、その両方は両親から受け継いだものだ。通常の遺伝なら、どちらのDNAが出てきても『親子』という結果は変わらない」
「あ……」
久美子さんが口を開けたまま固まる。
「そう、問題は『親の遺伝子と一致しなかった』という点だ。つまり、キメラなのは優司君だけじゃない」
青木先生は人差し指を立てた。
「五十島謙さん、彼の方もなんだよ」
その言葉に思わず息を飲む。
「……なんと」
三木さんが、信じられないといった様子で目を見開く。
「そうだ、彼もまた二つの遺伝子セットを持っていたんだ。だから『不一致』が出た」
「……なんですかそれ、聞いてないですよ!」
久美子さんが叫んだ。
「先生、『優司がキメラだった』って言ったじゃない!」
「いやいや! 私は『二人を詳しく検査してわかった』と伝えたはずだ!」
青木先生もムッとして言い返す。
「優司君だけがキメラなら、通常の検査でも父親との親子関係は出る。二人がキメラだからこそ、不一致になったんだと……私はそう説明したつもりだ!」
「……まあ医学知識が無ければ理解するのは難しいから、正直あまり影響は無いのだが」
青木先生はバツが悪そうに視線を逸らし、独り言のように呟いた。
その言葉を聞いた瞬間。
十河警視が、弾かれたように顔を上げた。
「……宇野」
「は、はい?」
突然名前を呼ばれ、僕は背筋を伸ばした。
十河警視は、探るような目で僕を見据えていた。
「宇野……須田はお前に話したのは即興だと言ったんだな?」
「ええ、そうです」
僕はそうだと頷く。
「須田は久留島を『クズ野郎』と罵り『道連れにしてやる』と言っていた……だが、それだけか?」
十河警視はブツブツと独り言のように呟き始めた。
「須田沙良の異性関係に久留島の年齢、そして『目』が似ているという事実……」
十河警視の視線が宙を彷徨う。
「須田は……大学を辞めていたんだったな?」
唐突な質問に僕は、ちょっと戸惑いながらも頷いた。
「え、ええ。母親の治療費を稼ぐために中退したと聞いています、それが何か?」
「……あいつは勘違いしたのか、自分の……」
「十河警視?」
「いや……まだ人に話せるほど纏まっていない」
十河警視は呟くと、何かを噛み締めるように口元を結んだ。
その目には、絶望的な色が宿っていた。
そして不意に立ち上がり書類を乱暴に掴むと、逃げるようにドアを開けて出て行った。
残された部屋には、重苦しい沈黙だけが漂う。
「あらら…じゃあ私はこの辺で、あの人が戻って来たら色々と面倒なので」
久美子さんが立ち上がり、伸びをする。
「そうですね、長居もご迷惑でしょう」
ずっと黙っていた三木さんも、静かに席を立った。
「宇野さん、今日はありがとうございました。あんまり気を落とさないでくださいね」
高津さんも見送ろうと席を立つ。
「あ、いえ。こちらこそお忙しい中ありがとうございました」
「宇野さん」
三木さんが、僕に向かって深々と頭を下げた。
「貴重な場をありがとうございました、……白浜検事にも私から伝えておきます」
「あ、はい。……三木さんも、お元気で」
皆でぞろぞろと出入り口へ向かう。
高津さんが申し訳無さそうに頭を下げて見送ってくれた。
ビルの外に出ると、夜風が火照った頬に心地よい。
さて、停職中の身だ。
これ以上長居をして誰かに見られるのもまずい。
大人しく帰ろうとした矢先、ポケットの中でスマホが短く震えた。
画面を見ると、PINEの通知が表示されている。
あっ、僕の天使からだ。
そこには『今朝言った通りキッチン借りてシチュー作ってるから、帰って来たら一緒に食べよう』と書かれていた。
『そっこーで帰ります!』と打った。
…それを消して『もうちょっとかかりそうです、すみません!』と打ち直した。
帰り道を引き返し、僕は一人夜道を歩いていた。
十河警視はもう庁舎に戻っただろうか。
ふと、見覚えのある背中を見つけた。
「……十河警視?」
庁舎の裏口付近、街灯の光を避けるように立っている男。
やっぱり十河警視だ。
「警視!」
僕が声を掛けると警視は弾かれたように振り返り、鬼のような形相で僕に駆け寄ってきた。
「うわっ!?」
ぐいっと腕を掴まれ、強引に物陰へと引きずり込まれる。
「ば、馬鹿野郎!」
警視が声を殺して怒鳴った。
「お前は今停職中だろうが! こんな堂々と警視庁の近くをうろつくな!」
「す、すみません……」
十河警視は周囲を警戒しながら、深い溜息をついた。
その顔は以前よりもさらに老け込み、苦悩の色が濃くなっていた。
十河警視と並びながら夜道を歩く。
「お前は停職中だ、早く家に帰ったほうがいい」
そう言う十河警視の手には書類の束があった。
先程の久美子さんについて書かれているもののようだ。
この短時間で調べ上げた?
それとも元々調べはついていた?
副総監の懐刀とも呼ばれるこの人の存在が、空恐ろしかった。
僕は恐る恐る見上げ、勇気を出す。
「十河警視!」
十河警視がこちらを見る。
「あの時十河警視がお考えだったのは、もしかして……あっ!」
僕はスマホを見せようとしたが、慌てていたこともあって床に落としてしまった。
「す、すみません!」
あたふたする僕を気にせず十河警視がスマホを拾う。
僕にはその姿がなぜか、道路に落ちたトランプを拾っているように見えた。
十河警視が画面を見つめる。
「い……いかがでしょうか? 警視がお考えだったのはこの事に関連しているのでは?」
そこには『巨額収賄で緊急逮捕の七條前幹事長、親族の犯罪隠蔽のため司法へ圧力か』というネットニュースが踊っていた。
十河警視がスマホを差し出す。
「良かったな、傷一つないぞ」
「あ、ありがとうございます」
スマホを受け取り、僕は十河警視の顔色を窺う。
「二課がやってくれたな」
そう言った十河警視の口角が上がる。
僕はこの人の笑った顔を初めて見たなと思った。




