木枯らしを抱いて
指先でハンドクリームを丁寧に塗り込む。
乾燥した指の腹が、強張った皮膚の上を滑っていく。
休日の午前。
リモコンの単三電池を切らしてしまい、量販店に向かう。
駅前の大型量販店は、暴力的なまでの喧騒に満ちていた。
四方八方から浴びせられる呼び込みの声に極彩色のディスプレイ、そして安っぽい電子音のBGM。
そのすべてが渾然一体となって鼓膜を叩き、今の私には耐え難いノイズとなって神経を削っていく。
この胸の奥底で燻り続ける疼きはもう既に一時的な痛みではなく、私の一部として同化してしまったのかもしれない。
逃げるように電池コーナーへ足を踏み入れた。
するとすぐ隣がオーディオコーナーだった。
骨伝導イヤホンの試聴機が並ぶその場所で、私は足を止める。
そういえば、高津弁護士が気に入っていると言っていたな。
最近ささくれ立った心が唯一平穏を取り戻せるのは、クラシック音楽に浸っている時だけだ。
しかし、今の家には真知や信護がいる。
家族の前で独り音楽の世界に没入することは、何か後ろめたいことのように感じられてできなかった。
これなら、あるいは。
「何かお探しですか?」
マニュアル通りに口角を上げた若い男性店員が、音もなく近づいてきた。
「あ、いや……骨伝導イヤホンを、少し興味があって」
「左様でございますか! こちらのモデルは最新のものでして」
店員は水を得た魚のように説明を始めた。
「音質も非常にクリアです。骨を通して直接聴覚神経に音を伝えるので耳を塞がずに音楽を楽しめますし、周囲の音も聞こえるので安全です」
その流暢な説明を聞きながら、ふと素朴な疑問が口をついて出た。
「すみません、骨伝導の仕組みについてもう少し詳しく聞いても?」
「はい、もちろんです」
店員は嬉々として語りだした。
「我々が自分の声を聞く時というのは、口から出た音が空気を通して耳に入る『気導音』と声帯の振動が頭蓋骨を伝わって直接内耳に届く『骨導音』の両方を聞いているんです。ですから録音した自分の声を聞くと、普段聞いている骨導音が無いので違って聞こえるんですね。骨伝導イヤホンはその骨導の仕組みを利用して、振動で音を伝えるんですよ」
「なるほど……」
初めて知る事実に、私は小さく頷いた。
自分の声と、他人が聞く自分の声の違い。
骨を伝う振動。
その単純な物理現象が、奇妙なほど今の私の境遇と重なって思えた。
私が信じて発していたはずの『父親としての声』は、家族には全く違う響きを持って届いていたのかもしれない。
逆に彼らが発していた『声』を、私は自分の都合の良いように歪めて聞いてしまっていたのかもしれない。
考えても詮無いことだ。
私は礼を言って一番装飾の少ない、シンプルなデザインのものを購入した。
自宅に戻ると、家の中はしんと静まり返っていた。
真知と信護は出かけているのだろう。
リビングのソファに深く身体を沈め、パッケージを開ける。
早速イヤホンをこめかみのあたりに装着した。
スマートフォンと接続し、再生リストからパガニーニの『鐘のロンド』を選ぶ。
冒頭からヴァイオリンによる高音のきらめきが、まるで教会の鐘の音のように空間に響き渡る。
その特徴的な旋律は一度聴いたら忘れられないほど印象的だ。
リストの『ラ・カンパネッラ』も好きだ。
だがヴァイオリンもよく聞く私は『ラ・カンパネッラ』の原曲になった『鐘のロンド』を聞くことも多い。
耳を塞いでいないのに、音が頭の中に直接響いてくる。
クリアで、それでいてどこか柔らかい。
目を閉じると騒がしい外界から切り離され、音楽だけが満ちていく。
ただ音楽を聴いているこの短い時間だけが、唯一そんな自分から逃れられる瞬間だった。
心が、さざ波が収まるように凪いでいく。
――そして、音楽は意図せず記憶の扉を押し開ける。
沙良。
初めて彼女を見た時の衝撃は、今でも昨日のことのように鮮明だ。
取引先のパーティー会場。
彼女が現れた瞬間、会場の照明が一段明るくなったかのような錯覚を覚えた。
艶やかに流れる黒髪、知的でいて情熱を秘めた瞳。
彼女は、私の人生に欠けていた最後のピースのように思えた。
一目惚れだった。
何もかもを顧みず、猛烈にアプローチした。
食事に誘い贈り物をし、ありったけの言葉を尽くした。
そして彼女が頷いてくれた日の、天にも昇るような高揚感。
結婚し、優司が生まれた。
初めてこの腕に抱いた時の信じられないほどの軽さと、命の重み。
そして指先に伝わる確かな温もり。
沙良のお腹で亡くなってしまったもう一人の子の分まで、この子を愛そう。
そう天に誓った。
それから真知と信護が生まれ、家族はさらに賑やかになった。
仕事も順調で、支店長代理への昇進も決まった。
念願のマイホームも建てた。
人生で、あれほど満たされた時間はなかった。
自分は万能で、この幸福は永遠に続くと信じて疑わなかった。
――あの日までは。
職場のデスクに飾っていた家族写真。
何気なく通りがかった部下が、本当に悪気のない様子で声をかけてきた。
「五十島代理、いい家族写真ですね。この子たちは双子ですか? 五十島代理にそっくり。……でも上のお子さんは、五十島代理にはあまり似てらっしゃらない……かな?」
世間話のつもりだったのだろう。
だがその些細な言葉は私の心の最も脆い部分に突き刺さり、抜けなくなった。
似ていない?
なんだ、馬鹿にされているのか?
私だけじゃなく優司も、そして沙良までも。
私の知らないところで、皆が陰で笑っているのか?
一度芽生えた疑念は黒いインクを水に落としたように、瞬く間に心全体を黒く染め上げていった。
許せなかった。
私が、私たちが道化のように笑いものにされている気がして。
証明しなければならなかった。
沙良は私を裏切らないし、優司は私の自慢の息子なのだと。
誰あろう自分自身に証明したかった。
そして、DNA鑑定に踏み切った。
結果は無情にも、『父性確率0%』。
あの日。
あの紙切れ一枚で、私の世界は音を立てて崩れ去った。
『鐘のロンド』の華やかな旋律が静かに終わりを告げる。
現実へと引き戻された私は、肺に残った空気をすべて吐き出すように大きく息をついた。
あの鑑定結果を、心のどこかでまだ受け入れきれていない自分がいる。
だから、前に進めない。
後ろを振り返ることしかできない。
今度はイヤホンからショパンの『木枯らし』が流れ出した。
順番が違うと思ったが、前回気まぐれでランダム再生にしていたのを思い出す。
吹き荒れる風のような激しい旋律。
皮肉な選曲だなと、口元だけで笑った。
私は立ち上がり、近くの棚から白い壺を手に取った。
再びソファに腰掛け、膝の上にその滑らかな陶器を置く。
両手でそっと、壊れ物を扱うようにそれを抱えた。
「……小さくなってしまったな」
思わず、震える声が漏れた。
あの火葬場の光景が、髪が燃える焦げた煙の匂いと共に蘇る。
全てが燃え尽き形を変えて、この小さな骨壺に収まってしまった。
初めて優司を腕に抱いた日。
あの時の、産着越しに伝わってきた柔らかさと温もり。
今指先に伝わってくるのは、陶器の硬質で無機質な冷たさだけだ。
骨伝導イヤホンから響くショパンの『木枯らし』が、私の鼓動と重なる。
吹き荒れる風のような旋律の中で私はただ、白い壺を撫で続けていた。
ガチャリ。
不意に、リビングのドアが開いた。
私は弾かれたように顔を上げた。
そこに立っていたのは、信護だった。
外出していたはずの彼が、いつの間にか帰ってきていたのだ。
しまった、と思った。
骨壺を抱きしめ、呆けたように座っている無様な父親の姿。
また失望されるだろうか。
女々しいと、軽蔑されるだろうか。
私は慌てて骨壺をテーブルに戻そうとしたが、指先が強張ってうまくいかない。
信護は、部屋に入ろうとした足を止めていた。
その視線は私の顔と、腕の中にある白い骨壺を行き来している。
彼は制服のまま、肩で息をしていた。
その右手には、A4サイズほどの白い封筒が強く握りしめられている。
音楽が流れていても、彼の息遣いや衣擦れの音はクリアに聞こえる。
会話するのにも便利だな、これ。
そんな場の空気にそぐわない呑気な感想が頭をよぎる。
ふと、彼が握りしめる白い封筒の表面に印字された文字が目に入った。
『青木……』
そこから下の文字は、彼の手のひらに隠れていて見えない。
青木?
新しい塾か何かだろうか。
私が訝しむ視線を向けると信護はハッとしたように、その封筒を自身の背後に隠した。
そして悔しそうに唇を噛み締め、私を真っ直ぐに見据えた。
「……父さん」
「ん……?」
彼の目は赤く充血していた。
だがそこに宿っているのは悲しみではなく、燃えるような闘志だった。
「俺は……絶対諦めない」
「は……?」
私は目を瞬いた。
「諦めない? 何の話だ?」
受験のことか?
それとも部活のことか?
突然の宣言に思考が追いつかない。
だが信護は、私の疑問になど答えるつもりはないようだった。
彼は隠した封筒を背中で強く握り直し、一歩踏み出して言った。
「父さんは……どうなんだよ」
「え……」
「……いや、なんでもない」
彼はそれだけ言うと踵を返し、足早に自室へと向かっていった。
バタン
ドアが閉まる音が、静寂を取り戻した部屋に響く。
私は呆然と、閉ざされたドアを見つめていた。
あいつは一体、何を言いに来たんだ。
白い封筒を持って。
要領を得ない言葉。
だがその声の響きだけが、妙に熱を持って耳に残っている。
視線を落とす。
腕の中には、沈黙を守る骨壺がある。
「……そうか」
理由はわからない。
何の話かもわからない。
骨壺を抱いてメソメソしている情けない父親を見て、あの子は何を言いかけたのだろうか。
「……情けないな」
本当に、私はなんて情けない父親なんだ。
息子に気を遣わせ、死んだ息子に縋り付くだけの空っぽな男。
「信護……真知……ごめんな……」
耳の奥では、相変わらずショパンの『木枯らし』が激しく吹き荒れている。
その旋律に身を委ねるように、私は骨壺に額を押し付けた。
「すまない……すまない、優司……」
陶器の冷たさが、熱を持った額に痛いほど染みる。
小さく……そして木枯らしのように冷たくなってしまった優司を抱きしめながら、今日まで枯れていたはずの涙。
それが堰を切ったように溢れ出し、頬を濡らしていた。




