医師のカルテ
電子カルテの画面を閉じ、私は深く息を吐きながらボサボサになった頭をガシガシと掻きむしった。
青木修二、それが私の名前だ。
しがない町医者――精神科医として、この診療所を構えて長い。
午前の診療が終わる。
待合室から患者の気配が消えた静寂の中、私はデスクに置かれた冷めたコーヒーを啜った。
苦い。
その苦味は、私の胸の奥に沈殿している後悔の味に似ていた。
ここ数日。
いや……あの日からずっと、私の思考はあの裁判のことを反芻している。
法廷で私が語ったこと。
そして、語らなかったこと。
数年前の記憶が蘇る。
全ての始まりは旧知の仲である探偵、樋口久美子君がこの診察室を訪ねてきたことからだった。
「先生、お願いがあるんです」
いつもの快活さの裏に、深刻な色を浮かべて彼女は言った。
「……ある親子を見ていただきたくて、須田沙良さんとその息子の優司君です」
彼女は声を潜めた。
「沙良さんは今、精神的に非常に不安定で……優司君への虐待の恐れがあります」
私は眉をひそめた。
虐待。
精神科医として最も神経を使うケースだ。
「詳しい事情を伺っても?」
久美子君は頷き、重い口を開いた。
「優司君と沙良さんの元夫である五十島謙さんのDNA鑑定が行われ、親子関係がないという結果が出たそうです。それが引き金で離婚し、沙良さんは精神のバランスを崩してしまったようで……」
よくある悲劇だ、と片付けることもできた。
だが、彼女の目は真剣だった。
「でも先生、私は沙良さんの日記を読みました。妊娠時期や当時の状況を考えると……私にはどうしても、優司君が五十島さんの子ではないとは信じられないんです」
彼女の言葉には、強い確信がこもっていた。
その真剣な眼差しに私はただならぬものを感じ、依頼を引き受けることにした。
そして始まった、地獄のような日々。
診察室のソファに座る須田沙良さんは美しく、そして壊れていた。
「先生……私は優司を愛しているはずなんです、あの子は私の全てだったのに……!」
彼女はハンカチを握りしめ、涙ながらに訴えた。
「でも抑えられないんです! あの鑑定結果を見た時から……! あの結果のせいで、私は謙さんと別れなければならなくなったんだって、そう思ってしまう! あんな結果さえ出なければ……! ああでもあの子は、優司は何も悪くないのに……!」
彼女の混乱と苦悩は深い。
母親としての愛情と裏切られたと感じている現実への怒り、そして息子への罪悪感がぐちゃぐちゃに絡み合っていた。
私は傾聴して薬を処方し、少しでも彼女の嵐を鎮めようと努めた。
だがそれ以上に私の心を痛めたのは、息子の優司君だった。
彼は、静かだった。
制服姿で、背筋を伸ばして座る少年。
「優司君、最近高校ではどうですか?」
問いかけると、彼は少し考えてから答えた。
「楽しいです、友達も担任の里村先生も優しくしてくれます」
言葉だけを聞けば、何の問題もない。
だがその笑顔が母親の感情の嵐から身を守るための鎧であることは、私には痛いほどわかっていた。
カルテに『解離性障害の兆候』『慢性的なストレス』と記入しながら、私は深い無力感を覚えていた。
身体的な所見も記録に残した。
痩せた背中には、痛々しい虐待の痕跡がいくつもあった。
その中に混じって背中から脇腹にかけて、色素が抜けたような奇妙な流線型の模様が走っていたのを覚えている。
聞けば彼は、生まれつきのものだとだけ答えた。
その時は単なる特異な母斑の一種だろうと判断し、それ以上深くは追求しなかった。
特に優司君とのカウンセリングで、忘れられないやり取りがいくつかある。
彼のあの『笑顔』の理由を、一度だけ垣間見た気がした時のことだ。
「優司君、最近お母さんとはどうかな?」
そう尋ねると彼はいつもの笑顔で答える。
「特に問題ありませんよ? 僕が笑っていれば、母さんは昔の優しい母さんのままですから」
僕が笑っていれば。
まるでそれが、彼が見つけ出した唯一の生存戦略であるかのように淡々と。
その言葉に彼の笑顔がどれほど重く、そして悲しい鎧であるかを改めて思い知らされた。
また別の時には、彼を唯一引き取ってくれた叔母の紗季さんのことを尋ねた。
「叔母さんは、優司君にとってどんな人でしたか?」
すると彼はその時だけいつもの貼り付けたような笑顔とは違うどこか照れたような温かい、本物の笑顔を見せたのだ。
「紗季さんですか? うーん……知識が豊富で、色んなことを教えてくれるんですけど、ちょっとお節介です。以外とおっちょこちょいだし。あと結構人の話、聞かないんですよね」
彼はくすくすと、本当に楽しそうに笑いながらそう言った。
紗季さんのことを語るその僅かな時間にだけ彼が心を許し、偽りのない親愛の情のようなものを見せることに私は一縷の望みを感じたものだ。
しかしその紗季さんの最期について話が及んだ時、彼の表情は再び読み取れなくなった。
「……震災の時、僕を庇って崩れてきた壁の下敷きになって。僕なんかのために死ぬなんて、本当に馬鹿な人ですよ」
その声は感情が押し殺されていた。
だがその奥にある深い悲しみと、自責の念が透けて見えるようだった。
私は思わず、
「優司君、泣かせてしまってごめんね。無理はしないで」
そう声をかけた。
だが彼が顔を上げた時、そこには涙はなくただいつものあの笑顔だけがあった。
「え? 泣いてませんよ?」
そう彼は不思議そうに首を傾げた。
――ああ本当に、根が深い。
その時私は彼の心の傷の想像以上の深さに、医師として戦慄したのを覚えている。
沙良さんが亡くなった後、再び久美子君と話す機会があった。
彼女は憔悴しきっていたが、その目にはまだ探偵としての光が宿っていた。
「生前沙良さんから頂いたんです、沙良さんの日記。先生も一度ご覧になりませんか? 何か分かることがあるかもしれません」
彼女がそう言って差し出したのは、使い古された一冊のノートだった。
私は頷き、それを受け取った。
その夜。
私は一人、この診察室で日記を読み進めた。
そこには久美子君が言った通り、沙良さんの奔放だった若い頃の記述があった。
しかし五十島謙氏と出会い、彼女は変わった。
彼を深く愛し、過去の関係を清算したこと。
そして、徹底して避妊をしていたこと。
やがて双子を妊娠し、謙氏と二人で涙して喜んだこと。
しかしあの地震で転倒しお腹を打ち、双子の片割れを失ってしまった悲しみ……。
……そこまで読んで、私は思わず手を止めた。
沙良さんの潔白を信じるなら、DNA鑑定の結果は科学的にあり得ない。
思考の泥沼の中でふと、ある記憶が蘇った。
かつて診察した優司君の背中にあった、あの奇妙な流線型の模様。
「あれは……ブラシュコ線ではないか?」
医学書を紐解くまでもない。
あれは染色体キメラ特有の皮膚症状だ。
優司君は、胎内で双子の片割れを吸収したキメラだったのだ。
謎は解けた、と一瞬思った。
だが、すぐに私は首を横に振った。
「いや待て、それだけでは説明がつかない」
冷静に考えろ。
たとえ優司君がキメラでも父親が謙氏なら、必ず遺伝子は一致するはずだからだ。
「振り出しか……」
私は深いため息をつき、再び沙良さんの日記に目を落とした。
何か見落としはないか。
何か、この矛盾を解く鍵は。
そして、その記述を見つけた。
『謙さんの背中には、不思議な色ムラがある。まるで刷毛で掃いたような、流れるような模様が』
雷に打たれたような衝撃が走った。
私は記憶の中にある、優司君の背中の模様と照らし合わせた。
同じだ。
遺伝するはずのないブラシュコ線が、親子に現れている。
まさか。
「五十島謙も……キメラだったのか?」
謙氏もまた、胎内で双子を吸収して生まれてきた。
「……あり得るのか? 親子二代で双子を吸収し、キメラとして生まれたというのか」
全ての辻褄が合った。
鑑定結果の不一致は、この二重の奇跡が引き起こしたエラーだったのだ。
確かめなければ……!
私の内側で医師として、科学者としての探求心が燃え上がった。
私は震える手で久美子君に連絡を取った。




