声の肖像
青木診療所の待合室は、時間が止まったかのように静かだった。
壁掛け時計の秒針が進む音だけがカチ、カチと規則正しく響いている。
俺は膝の上で拳を握りしめ、名前を呼ばれるのを待つ。
他の患者は数人いた。
だが皆沈んだ顔で雑誌を読んだり、虚空を見つめたりしている。
ここにいる人間は皆、心のどこかが壊れかけているのかもしれない。
そう思うと自分もその一部になったような気がして、居心地が悪かった。
「五十島信護さん」
受付の女性の声に、弾かれたように立ち上がる。
「どうぞ、診察室へ」
案内されたドアの前で、一瞬ためらった。
このドアを開ければ、もう後戻りはできない。
俺は大きく息を吸い込み、ノックをした。
「失礼します」
診察室に入ると、裁判で見かけた白衣の医師――青木修二が座っていた。
法廷で見た時よりも少し痩せたように見える。
ボサボサの頭を無造作に掻きながら、彼は俺を見た。
「どうぞ、お掛けください」
促されて椅子に座る。
対面すると、彼の眼差しの深さに気圧されそうになる。
精神科医特有の、人の心を見透かすような目だ。
「それで五十島信護さん、須田優司さんの件で私にどのようなご用件でしょうか?」
先生は静かに切り出した。
俺は喉を鳴らして唾を飲み込み、単刀直入に本題に入った。
「先生、先日の裁判傍聴していました」
先生は眉一つ動かさず、頷く。
「法廷でのやり取りを聞いて……どうしても納得できないことがあって、今日伺いました」
俺は身を乗り出した。
「兄……須田優司は、本当に父……五十島謙と血が繋がっていなかったんでしょうか? あの時の鑑定結果は、本当に間違いなかったんでしょうか?」
単刀直入に、話の本丸を攻めた。
青木医師の表情が、わずかに硬くなったのがわかった。
彼はゆっくりと口を開く。
「裁判でも申し上げましたが患者さんのプライバシーに関わることはできません」
予想通りの拒絶。
守秘義務という壁。
だが、ここで引き下がるわけにはいかない。
「……わかっています」
俺は鞄に手を伸ばし、用意していた『切り札』を取り出した。
二つの小さなチャック付きのビニール袋。
それを、診察机の上に置く。
中に入っているのは、数本の毛髪だ。
「先生、俺は本気なんです」
俺は先生の目を見据えて言った。
「これは兄の……須田優司の毛髪です。父さんが遺体を引き取って、荼毘に付す前に……俺が貰いました」
あの日。
冷たくなった兄の遺体と対面した時の、あの凍てつくような感覚が蘇る。
震える手でハサミを入れ、兄の髪を切った。
それは、死者への冒涜だったかもしれない。
だがそうまでしてでも、真実を知りたかった。
「こちらは、父のものです」
もう一つの袋を指差す。
「俺はもう一度調べてほしいんです、本当のことを知りたい」
先生は机の上に置かれた二つの袋と、俺の顔を交互に見つめた。
その顔から、感情が読み取れなくなる。
驚きとも困惑とも違う、もっと重く深い沈黙。
診察室の空気が張り詰める。
俺の心臓の音が、うるさいほどに鳴り響く。
やがて、先生は深く息を吐いた。
「……わかりました、五十島さん」
沈黙が破られた。
「あなたの、真実を知りたいという強い意志は理解しました」
先生の声には、どこか諦めにも似た響きがあった。
「ですが、これは非常にデリケートな問題です。それでも、というのであれば……」
彼は淡々と告げた。
「この診療所で手配するDNA鑑定では、一から二週間程度お時間を頂くことになります。それでもよろしいですか?」
「……!」
己の顔が、ぱっと熱くなるのがわかった。
通じた。
「はい、お願いします! ありがとうございます、先生!」
俺は椅子から立ち上がり、深々と頭を下げた。
「結果が出るまで少し時間がかかります、また連絡しますので……今日はこれでお帰りください」
先生は事務的にそう言ったが、その目には微かな温かみがあったような気がした。
診療所を出て、家路につく。
足取りは軽かった。
まだ何もわかっていない。
結果がどう出るかもわからない。
それでも、停滞していた時間が動き出した感覚があった。
この手で、真実を掴み取るんだ。
そんな高揚感を抱いたまま、自宅の玄関ドアを開けた。
「ただいま」
靴を脱ぎ捨てリビングへ向かおうとしたところで、ソファに座っていた父さんと目が合った。
父さんは読みかけの新聞を膝に置き、心配そうな顔で俺を見た。
「信護、どこへ行っていたんだ?」
その声には、覇気がない。
ただ怯えているような、弱々しい響き。
俺の中の高揚感が、一気に冷めていくのを感じた。
「……別に、どこでもいいだろ」
苛立ちを隠さずに吐き捨て、そのまま自分の部屋へ向かおうとする。
「時期が時期だし、大学受験も近いんだから……あまり出歩かないほうがいいよ」
背後から投げかけられたその言葉に、俺の中で何かがプツリと切れた。
受験?
兄さんが死んで家の中がこんな状態なのに、世間体を気にしろって言うのか?
俺は振り返り、父さんを睨みつけた。
「……受験か」
冷たい声が出た。
「そう言えば父さんが母さんと離婚したのって、兄さんが高校受験の年だったよね」
言ってはいけない言葉だった。
一番触れられたくない痛いところを、意図的に抉るような言葉。
父さんの顔色が、さっと青ざめるのが見えた。
その表情を見て、ほんの少しだけ罪悪感が胸をよぎる。
だが、すぐにそれを振り払った。
今の父さんを見ていると、無性に腹が立つのだ。
あの頃の、自信に満ちていた父さんはどこへ行った?
あの強かった父さんは。
「……」
俺は父さんに背を向け、逃げるように階段を駆け上がった。
自室に入り、ドアを乱暴に閉める。
ベッドに鞄を投げ出し、ドサリと腰を下ろした。
自己嫌悪で胸が苦しい。
父さんを傷つけたいわけじゃない。
ただ。
今の父さんを見ていると、未来の自分を見ているようで怖くなるのだ。
信じていたものが崩れ去った時、人はあんなにも脆く壊れてしまうのかと。
「……くそっ」
無意識に親指を口に運ぶ。
ガリッ。
爪を噛む音が、静かな部屋に響く。
コン、コン。
控えめなノックの音。
「……なに」
不機嫌に応じるとドアが開き、姉の真知が顔を覗かせた。
「信護……大丈夫?」
姉さんの声には、心配の色が滲んでいる。
「……もしかしてまた、DNA鑑定のこと調べに行ってたの?」
俺は黙って俯いた。
それが肯定の代わりだ。
真知は部屋に入ってきて、俺の隣に静かに座った。
ベッドが沈む。
「どうしてそんなに拘るの? もう終わったことなのに……」
「終わってない!」
思わず声が大きくなる。
「終わらせてたまるかよ!」
俺は姉さんに向き直った。
「姉さんだって、おかしいと思わなかったのかよ!」
「何が……?」
「兄さんの声だよ! 声が変わってたんだ!」
俺はあの墓地での記憶を必死に言葉にした。
「母さんと父さんが離婚した頃の兄さんはまだ声変わりしてなかった、声高かっただろ? でもこの前母さんの墓で会った時……父さんと話してる兄さんの声を聞いただろ?」
耳に残っている、あの低く落ち着いた声。
「低くて落ち着いた……父さんと瓜二つだったじゃないか!」
顔は似ていない。
でも声の高さや響き、声質。
それらは、父さんのコピーのように似ていた。
DNA鑑定という科学的根拠よりもっと原始的な、感覚的な確信。
「姉さんも聞いてただろ? なんで知らないふりするんだよ!」
俺が問い詰めると、姉さんは黙り込んだ。
俯いたまま、膝の上で手を握りしめている。
その沈黙が彼女もまた、俺と同じ違和感に気づいていたことを物語っていた。
部屋に、重苦しい沈黙が流れる。
長い沈黙の後、姉さんがポツリと言った。
「……ねぇ、信護」
「……なんだよ」
「もう少しだけ、お父さんに優しくしてあげてくれないかな」
姉さんの声は震えていた。
「お兄ちゃんがあんなことになって……もし、お父さんや信護にまで何かあったら……」
彼女が顔を上げる。その瞳には涙が溜まっていた。
「私もう、生きていけないよ……」
その言葉には深い悲しみと、崩壊寸前の恐怖が込められていた。
俺はハッとした。
姉さんもまたこの状況に深く傷つき、怯えていたのだ。
気丈に振る舞っていたけれど、内心では家族がバラバラになることを誰よりも恐れていたのだ。
姉さんはそれだけ言うと涙を拭い、静かに立ち上がって部屋を出て行った。
バタン、とドアが閉まる。
俺は一人、部屋に取り残された。
「……悪かったよ」
誰に言うでもなく、聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声で呟いた。
それは姉さんに対してか、父さんに対してかあるいは自分自身に対してなのか。
窓の外を見る。
空はもう暗くなっていた。
俺たちは、どこへ向かっているのだろうか。
答えの出ない問いを抱え、俺はまた爪を噛んだ。




