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ポーカースマイル  作者: 城井龍馬
第十八章
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欠けた爪

気づくと、また親指の爪を噛んでいた。


ガリッという硬い感触と、微かな痛みが神経を逆撫でする。


最近、この癖が頻繁に出る。


焦燥感と苛立ち、そして得体の知れない不安。


それらが胸の中で渦を巻き、出口を求めて指先へと伝わってくるようだ。


俺は五十島信護。


病院の長い廊下を、一人で歩いていた。


里村久恵先生の見舞いに行くためだ。


兄さん――須田優司の恩師であり、裁判で証言台に立った女性。


この病院を訪れるのは初めてだった。


消毒液の匂いが不快だ。


無機質な白壁に囲まれた空間は、俺の気分をさらに滅入らせた。


廊下の角を曲がり目的の病室を探そうとした、その時だった。


ドンッ!


前方から歩いてきた小柄な人物と、正面からぶつかってしまった。


「あっ、失礼しました」


キャップを目深に被った女性だった。


彼女は顔を上げて俺の顔を見ると、一瞬石のように固まった。


その目は、まるで幽霊でも見たかのように見開かれている。


「……すみません」


彼女は短く早口で詫びると、逃げるようにそそくさと立ち去っていった。


その後ろ姿を見送りながら、俺は首を傾げた。


「なんだ……?」


スマホのインカメを起動し、自分の顔を確認する。


別に何かついているわけでもない。


ただ彼女の驚き方は、尋常ではなかった。


俺の顔に、誰かの面影でも見たのだろうか。


気を取り直し、部屋番号を確認する。


ここだ。


大きく深呼吸をして、ノックをした。


「どうぞ」


中から、穏やかで上品な女性の声が聞こえた。


ドアを開ける。


窓際のベッドに、一人の女性が座っていた。


「こんにちは」


俺は少し緊張しながら声をかけた。


「こんにちは、今日はお客様がたくさんいらして下さるのね」


彼女は柔らかい笑顔で迎えてくれた。


やつれてはいるが、その表情には教師特有の包容力があった。


「五十島信護と申します、須田優司を……血の繋がった実の兄だと思って暮らしていました」


自己紹介の言葉に、少し詰まる。


実の兄だと思って。


その過去形が、今の俺たちの歪な関係を表しているようで苦しい。


「そうなんですね。須田優司君の担任をしておりました、里村久恵です」


里村先生はそう言って、目を細めた。


「どうして、こちらへ?」


「お見舞いです、……お加減は大丈夫ですか?」


里村先生は少し俯き、寂しげに笑った。


「優司君が亡くなってから食事や睡眠がうまくできなくてね、少しずつ良くなってはいるんだけど……」


その弱々しい笑顔を見て、胸が締め付けられるような思いがした。


兄さんの死は、多くの人を傷つけた。


「それと……」


俺は言葉を選びながら、今日ここに来た一番の理由を口にした。


「裁判を傍聴していました。兄に……優司兄さんに良くして下さって、ありがとうございました」


深々と頭を下げる。


里村先生は少し驚いたような声を上げた。


「わざわざ、それを言いに?」


「はい」


彼女は俺の顔をじっと見つめた。


「お父様にはお会いしたことは無いけれど、素敵な方なのでしょうね」


父さん。


その言葉を聞いた瞬間、今の父さんの姿が脳裏をよぎり胃の底が重くなった。


素敵、か。


昔はそうだったかもしれない。


だが、俺はそこで里村先生の言葉の裏にある意図に気づいた。


俺の礼儀正しさを褒めているのではない。


「母が……ご迷惑をお掛けしたようで、申し訳ありません」


俺は再び頭を下げた。


母・沙良が学校や先生に無理を言ったり迷惑をかけたりしていたことは、裁判の証言や周囲の話から薄々勘づいていた。


里村先生は慌てて手を振った。


「ごめんなさい! そんなつもりじゃなかったの!」


彼女の声には、心からの恐縮が滲んでいた。


しばらくの沈黙の後、彼女は遠くを見るような目をして言った。


「お母様は……意志の強い方でしたね」


その言葉はオブラートに包まれていたが、その裏に数多の苦労があったことは想像に難くない。


やはり母は、相当なことをしたのだろう。


だが病床の彼女にそれ以上詳しく聞くのは酷だと思った。


話題を変えることにした。


「そう言えば廊下ですれ違ったんですが……先程の女性は、お知り合いなんですか?」


里村先生は頷いた。


「実は今日初めてお会いしたの、以前お母様がご依頼された探偵さんなんですって。樋口さんと仰ったかしら」


「母が?」


思わず大きな声が出た。


母が探偵を雇っていた?


初耳だ。


「優司君とお母様の間に距離を置く為に一時的に優司君が別の場所で暮らしていたんだけど……その時お母様の依頼で優司君を探したそうなの、それをお詫びしたいと」


里村先生は言葉を選びながら説明してくれた。


俺の中で、疑問符が渦巻く。


虐待していた母が、逃げた兄さんを探すために探偵を雇った?


そしてその探偵が、今更になって謝罪に来た?


「そうでしたか……」


「今日はありがとうございました、お加減が悪いところ突然押しかけてしまい申し訳ありませんでした」


俺は立ち上がり、礼を言った。


「またいつでもおいでなさい」


里村先生の温かい言葉を背に、病室を出た。


病院の玄関を出るなり、俺はスマホを取り出した。


指先が震える。


『樋口』『探偵』


検索窓にキーワードを打ち込む。


トップに『樋口探偵事務所』という名前が表示された。


住所を確認する。


そう遠くない。


迷いはなかった。


確かめなければならない。


母さんが何をしていたのか、そしてあの探偵が何を知っているのか。


タクシーを飛ばして、その事務所の前へ辿り着いた。


古びた雑居ビル。


扉には『樋口探偵事務所』と書かれた質素な看板がかかっている。


ノックもそこそこにドアを開ける。


「失礼します!」


中に入ると、奥から先ほどのキャップの女性が顔を出した。


俺の顔を見た瞬間、彼女の表情が凍りついた。


「先程の方ですね? どういったご要件でしょうか?」


警戒心丸出しの声。


「突然すみません、里村先生から母……須田沙良から依頼を受けていた探偵さんだと伺ったもので」


俺は一歩踏み込んだ。


「ネットで調べたら樋口探偵事務所が出てきたので、来てしまいました」


彼女は一瞬目を見開いたが、すぐ無表情になった。


「大変申し訳ありませんが、他の方のご依頼についてお話することはできません」


にべもなく断られた。


予想通り、だがここで引き下がるわけにはいかない。


「ではなぜ、里村先生には『母の依頼を受けた』と伝えたのですか?」


俺は食い下がった。


「虐待している母親の元に、子を返す手伝いをしたのはなぜですか? あなたも……兄さんが苦しむ原因を作った一人なんですか?」


直球の質問。


彼女の顔に、一瞬だけ苦渋の色が浮かんだ。


図星か。


「……お引き取りください」


「待ってください! 俺はただ……!」


「帰って!」


彼女はそれ以上の問答を拒絶するように、強い口調で言った。


そして、俺の背中を押して事務所の外へと追い出した。


バタン!


目の前でドアが閉められ、鍵がかかる音がした。


「くそっ……!」


何度かドアを叩いて声を掛けたが反応は無い、俺は歯を食いしばりながら事務所を後にした。


何も聞けなかった、だが彼女のあの反応。


ただの仕事で探しただけじゃない。


もっと深い、何か後ろめたい事情があるはずだ。


街を歩きながら、空を見上げる。


鉛色の雲が垂れ込めている。


無意識に、親指を口元へ運ぶ。


爪を噛む。


ギザギザになった爪は、噛みすぎて血が滲んでいる。


焦りと苛立ちが、波のように押し寄せてくる。


「……次は」


まだ、終われない。


むしろここからが本番だ。


俺はスマホを取り出し、次の目的地へのルートを検索した。


『青木診療所』。


あの裁判で証言していた精神科医。


彼ならきっと、何か知っているはずだ。


DNA鑑定の、本当の意味を。

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