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ポーカースマイル  作者: 城井龍馬
第十七章
33/40

煙に巻く秘密

息を切らして事務所に戻り、鍵をかける。


背中をドアに預け、ずるずると座り込んだ。


心臓の鼓動が、まだ耳の奥で鳴っている。


病院での五十島信護との遭遇。


あの真っ直ぐな眼差しが、脳裏に焼き付いて離れない。


彼は兄の死と事件の真相を求めている。


その純粋な渇望が薄汚れた大人の私には眩しくて、そして痛かった。


私は立ち上がり、いつもの革張りの椅子に深く身を沈めた。


机の上には、一冊の古びた大学ノートが置かれている。


沙良さんの日記。


全ての始まりであり、悲劇の記録。


ページを捲る。


そこにあるのは愛と絶望、そして狂気が入り混じった一人の女性の叫びだ。


読み返すたびに、胸が苦しくなる。


この日記を、私はどうすべきなのか。


考え込んでいた、その時だった。


コン、コン。


控えめな、しかし意志の強さを感じさせるノックの音がした。


ビクリと肩が跳ねる。


嫌な予感がした。


居留守を使おうかとも思ったが、相手が誰なのか直感が告げている。


私は観念して立ち上がり、ドアを開けた。


「失礼します!」


予感は的中していた。


そこに立っていたのは、五十島信護だった。


病院で見た時よりも、さらに強い決意を秘めた目をしている。


「先程の方ですね?」


私は努めて冷徹な『探偵』の仮面を被り、事務的に尋ねた。


「どういったご要件でしょうか?」


彼が到着した時間を考えると、尾行されていた訳では無いだろう。


里村先生に名刺を渡した迂闊な己を呪いながら、彼を牽制する。


信護は一歩も引かなかった。


「突然すみません、里村先生から母……須田沙良から依頼を受けていた探偵さんだと伺ったもので」


彼は真っ直ぐに私を見据えた。


「ネットで調べたら樋口探偵事務所が出てきたので、来てしまいました」


里村先生には口止めをしていなかった。


責めることはできない。


情報の糸を手繰り寄せる彼の執念に、血の繋がりを感じずにはいられない。


「大変申し訳ありませんが」


私はドアノブに手をかけたまま、拒絶の言葉を紡ぐ。


「他の方のご依頼についてお話しすることはできません、守秘義務がありますので」


面倒なことになった。


さっさとお引き取り願おう。


しかし、信護は食い下がった。


彼はドアの隙間に足をねじ込む勢いで、私に問いかけた。


「ではなぜ里村先生には『母の依頼を受けた』と伝えたのですか?」


鋭い。


「虐待している母親の元に、子を返す手伝いをしたのは……なぜですか?」


その言葉は、鋭利なナイフのように私の急所を突いた。


「あなたも……兄が苦しむ原因を作った一人なんですか?」


返す言葉がなかった。


事実だ。


私が沙良さんに優司の居場所を教えたことで彼は再びあの家に戻り、望まぬ日々を送ることになった。


たとえその裏に沙良さんの更生の誓いやDNA鑑定の疑惑という事情があったとしても、結果だけを見れば私は虐待の加担者だ。


顔が一瞬、苦渋に歪むのを止められなかった。


「……お引き取りください」


私は声を荒らげ、無理やりドアを閉めようとした。


これ以上、彼の問いに答えることはできない。


真実を話せば、彼はもっと傷つくことになる。


「待ってください! 俺はただ……!」


「帰って!」


バンッ!


強引にドアを閉め、鍵をかける。


ドアの向こうで彼が何かを叫び、やがて諦めたように足音が遠ざかっていくのが聞こえた。


私はドアに額を押し付け、深いため息をついた。


ごめんなさい。


心の中で謝る。


私にはあなたに真実を告げる資格も、勇気もない。


その場で一息ついていると、再びノックの音が響いた。


またか。


しつこい。


私は苛立ちを隠さずに、ドアに向かって叫んだ。


「お話できることはありません! 帰ってください!」


「……え? 久美子?」


返ってきたのは予想していた少年の声ではなく、聞き慣れた間の抜けた男の声だった。


私は拍子抜けして鍵を開けた。


ドアの向こうに立っていたのは、高津秀人だった。


両手にスーパーの袋を提げ、きょとんとした顔で立っている。


「なによ、あんたか」


「『あんたか』はないだろ、……何かあったのか?」


心配そうに覗き込む彼に、私は先ほどの出来事を手短に説明した。


信護が来たこと。過去を追及されたこと。


高津は神妙な顔で頷いた。


「そうか……、彼も必死なんだな」


「で、そっちはどうしたの?」


私は話題を変えるように、彼の荷物を指差した。


高津の顔には、隠しきれないそわそわした雰囲気が漂っている。


「ああ、これ?」


彼は少し照れくさそうに、袋を持ち上げた。


「以前担当した依頼人が、お礼に高い骨付き肉をくれたんだ。ここにはバーベキューセットがあるだろ? 庭で焼いて、一緒に食べようと思って」


嘘だ。


断言してもいい。


この貧乏弁護士に、そんな高級肉をくれるような羽振りの良い依頼人などいない。


きっとなけなしの財布をはたいて、スーパーで買ってきたに違いない。


差し詰めこの間の――私が彼を平手打ちして出て行ったこと――への詫びと、私を元気づけるための不器用な気遣いなのだろう。


こいつは私が肉が好きだと、未だに勘違いしている。


いや好きだと言ったのは私だが、それはもう何年も前の話だ。


「……馬鹿ね」


私は呆れたように言ったが、口元が緩むのを止められなかった。


「本当に、馬鹿の一つ覚えなんだから」


事務所の裏庭。


小さな七輪に炭をおこし、肉を焼く。


香ばしい匂いと脂が炭に落ちて爆ぜる音が、静かな夜に響く。


「わ、本当に美味しい」


焼き上がった肉を頬張り、高津が目を細める。


その顔には子供のような純粋な喜びが浮かんでいた。


「なら良かったわね」


「うん……あ、久美子も食べなよ」


「はいはい」


私も一切れ口に運ぶ。


確かに、良い肉だ。


無理しやがって。


「高かったでしょ、これ」


「いやまぁ……って、あれ?」


高津が肉を噛みながら、動きを止めた。


「……気づいてたの?」


「誰だと思ってんのよ、元妻よ?」


マヌケな質問に、私は鼻で笑った。


「ほら、冷める前に食べなさいよ」


「うん……」


高津はポリポリと頭を掻きながら、再び肉を頬張り始めた。


幸せそうに口をもごもごさせている。


まるで小動物だ。


昔からこうだった。


美味しいものを食べている時の彼は、見ていて飽きない。


私はビールを飲みながら、そんな彼の姿を眺めていた。


不思議と、心が凪いでいくのを感じる。


肉を食べ終わり、炭火が小さくなってきた頃。


高津が火を消そうと立ち上がった。


「ごちそうさま、片付けるよ」


「ちょっと待って」


私は彼を制し、事務所に戻った。


机の上にあった、あの日記を持ってくる。


庭に戻り、私は躊躇なくそれを七輪の残り火の上に放り込んだ。


「えっ!?」


高津が驚きの声を上げる。


「何それ? 本?」


「沙良さんの日記よ」


「なんで!? それは……!」


彼は止めようとしたが、紙は瞬く間に火を吸い黒く縮れていく。


「いいのよ」


私は静かに告げた。


「今となっては真実は酷すぎるからね、私が墓場まで持っていくしかないでしょ」


日記に記された、沙良さんの懺悔。


DNA鑑定の疑惑。


それらはもう、誰も幸せにしない。


「……私は、腹を括ったよ」


炎の中で、文字が灰になっていく。


『優司、ごめんね』という最後の一文が、赤く燃え上がって消えた。


高津は少し考え込むような表情になり、やがて力を抜いた。


「……そうか」


その声には、諦めにも似た深い理解があった。


「きっとこれは、優司と紗季さんに見せるべきだったんだよ。今となっては、この世で読むべき人はもう居なくなってしまった」


私は燃えカスを見つめながら呟いた。


「私が勝手に、そう思うだけなんだけどね」


高津が心配そうに私を見つめている。


その視線が痛くて、温かい。


「沙良さんが私に委ねてくれたんだもの、私が正しいと思うようにさせてもらうわ」


その言葉は誰かへの言い訳のようで、自分への誓いのようでもあった。


そして、私にはもう一つ。


墓場に持っていくべき秘密がある。


私は横目で高津を見た。


彼が知らない、そして一生知るべきではない秘密。


私たちが離婚した、本当の理由。


『子供が欲しい』


そう言っていた私。


なかなか授からないことに焦ったある日、高津が寝静まった後にこっそりと検体を採取し郵送の精液検査を申し込んだ。


結果は、無精子症。


彼は、子供を作ることができない体だった。


その事実を知った時、私は彼に真実を告げることなく離婚を切り出した。


「他に好きな人ができたの」


そんなありきたりな嘘をついて。


彼は信じず、本当の理由を知りたがった。


何度も話し合おうとした。


けれど私は、頑として口を割らなかった。


彼のプライドを傷つけたくなかった?


それとも欠陥があるのは彼の方だと告げることで、自分が傷つくのが怖かった?


わからない。


ただ、私は逃げたのだ。


『子供が欲しい』という自分のエゴを優先し、彼を捨てた。


だけど。


離婚して一人になって、私は気づいてしまった。


誰の子でも良いわけではなかったのだと。


私は、高津秀人という男の子供が欲しかったのだ。


彼との未来が欲しかったのだ。


それを失って初めて私は自分の愚かさと、彼への愛の深さを知った。


これで、墓場に持っていく秘密が二つに増えた。


まあいい。


一つも二つも、大して変わりはしない。


背負っていく覚悟は、とうにできている。


私は顔を上げ、夜空を見上げた。


都会の空は明るすぎて、星はほとんど見えない。


けれどその向こう側に、彼らがいるような気がした。


「何してるんだ?」


高津が不思議そうに尋ねる。


私は小さく手を振っていた。


「優司と沙良さん、紗季さんが……見てるかもしれないじゃない」


ガラにもないセンチメンタル。


笑われるかと思ったが、高津もつられるように空を見上げた。


「……そうだな」


彼は隣に並び、一緒に空に向かって手を振った。


「おーい」


彼の声が、夜空に吸い込まれていく。


炭火がパチリと爆ぜ、最後の光を放って消えた。

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