断罪を求めて
キャップのつばを指先で掴み、深く被り直す。
視界を狭めることで、周囲の視線から自分を遮断しようとする。
それは私の昔からの悪癖であり、防衛本能だった。
病院の廊下は、不気味なほど静かだった。
ツンと鼻をつく消毒液の匂い。
どこまでも続く無機質な白い壁。
すれ違う看護師たちの足音だけが、コツコツと規則正しく響いている。
私は無意識のうちに、ポケットの中で手を強く握りしめていた。
爪が掌に食い込む痛みだけが、浮き足立つ心を現実に繋ぎ止めている。
どうして、ここに来てしまったんだろう。
自問する。
面識もない相手に、アポもなしに会いに行くなんて。
探偵としての流儀にも、私個人の主義にも反する行為だ。
でも、そうせずにはいられなかった。
足が勝手に、この場所へと向かっていた。
ある病室の前で足を止める。
ドアプレートには『里村久恵』という文字。
その名前をじっと見つめ、大きく深呼吸をする。
肺の中の空気を入れ替え、覚悟を決める。
乾いた音を立ててノックをした。
「……どうぞ」
中から聞こえてきたのは弱々しく、しかし芯のある女性の声だった。
ドアを開ける。
窓際のベッドに、一人の女性が体を起こしていた。
里村久恵。
元高校教師であり、優司の恩師。
顔色は蒼白で、病衣から覗く腕は枯れ木のように細い。
けれどその瞳には、理知的な光が宿っていた。
彼女は私を見て、不思議そうに首を傾げた。
「初めまして」
私の声は、自分が思っていたよりも震えていた。
「須田優司君の件で、お会いしたくて参りました」
ポケットから名刺を取り出し、差し出す。
「探偵をしています、樋口久美子です」
里村先生は名刺を受け取り、目を丸くした。
「探偵さんが、私に何のご用ですか?」
警戒心と、純粋な疑問が入り混じった声。
私はベッドの脇に立ち、深く頭を下げた。
「……謝罪したくて、参りました」
「謝罪?」
「はい」
顔を上げられないまま、私は言葉を紡いだ。
「かつて須田優司君が一時保護施設に入った際……母親の沙良さんに彼の居場所を教えたのは、私です」
その言葉を口にした瞬間、胸が締め付けられるような痛みに襲われた。
部屋の空気が凍りつくのがわかる。
里村先生の息を呑む気配。
虐待から逃れるために保護された子供の居場所を、加害者である親に教える。
それは探偵としての仕事だったとはいえ、人として許されることではない。
ましてやその結果として、優司は再び母の元へ引き戻されたのだ。
里村先生の声色が、鋭くなった。
「……なぜ、そんなことを?」
当然の問いだ。
彼女は生徒を守ろうとした教師。
その努力を無にした張本人が、目の前にいるのだから。
沙良さんの依頼。
彼女の日記。
そこに記された真実と後悔。
そしてDNA鑑定の疑惑。
それらを話せば、あるいは理解してもらえるかもしれない。
だが、それは守秘義務に反する。
何より、言い訳がましく自分の正当性を主張するためにここに来たわけではない。
「……すみません」
私はただ、それだけしか言えなかった。
唇を噛みしめる。
沈黙が落ちる。
罵倒されるだろうか。
出て行けと言われるだろうか。
覚悟をして目を閉じた私に届いたのは、意外にも穏やかな声だった。
「……顔を上げてください」
恐る恐る顔を上げると、里村先生は悲しげに微笑んでいた。
その表情には怒りよりも、深い憐憫のようなものが浮かんでいた。
「理由があれば、虐待してもいいなんてことにはなりませんよ」
「はい……」
反論の余地などない。
「理由は言えない、けれどただ謝罪だけしたい……」
里村先生は私の目を見つめる。
そして静かに、しかし核心を突く言葉を投げかけた。
「もしかしてあなたは……私に罵声を浴びせられ、責め立てられたかったのかしら?」
心臓が跳ねた。
図星だった。
「自分自身を罵ることができないから……私の口を使って、あなた自身を断罪したかったのではないですか?」
私は言葉を失った。
自分でも気づいていなかった、行動の動機。
心の奥底に沈殿していた罪悪感。
それを自分で処理しきれず、誰かに『お前は悪だ』と判定してもらうことで楽になりたかったのだ。
なんて身勝手な。
なんて卑怯な。
「……ここには、もう来ない方がいいでしょう」
里村先生の声には静かな拒絶と、そして優しさがあった。
「理由も話せないのでは、私はあなたを一方的に責めることしかできません。それでは私も、あなたも……前に進めません」
彼女は窓の外に視線を移した。
「それはあなたも……わかっているのでしょう?」
その言葉に胸のつかえが取れると同時に、鋭い痛みが走った。
甘えを見透かされた恥ずかしさと、理解されたことへの安堵。
私は涙がこぼれそうになるのを堪え、もう一度深く頭を下げた。
「……ありがとうございました」
逃げるように病室を出る。
「どうぞ、お元気で」
背中に投げかけられた最後の言葉はあまりにも温かく、そして重かった。
病室を出て、廊下を早足で歩く。
視界が滲んでいる。
感情が整理できないまま、角を曲がろうとしたその時だった。
ドンッ!
前方から歩いてきた男と、正面からぶつかってしまった。
「あっ、失礼しました」
若い男の声。
私はよろめきながら顔を上げた。
「……すみません」
言いかけて、言葉が喉に詰まった。
目の前にいたのは、五十島信護だった。
須田優司の、異父弟。
……なぜここに?
いや、彼もまた兄の事件の真相を求めて動いているのだろう。
私の顔を見て、彼が一瞬固まるのがわかった。
不審がられたかもしれない。
あるいは、何かを感じ取ったかもしれない。
私は顔を伏せ、
「すみません」
と短く詫びると、逃げるようにその場を立ち去った。
心臓が早鐘を打っている。
迂闊だった。
五十島信護が、関係者である里村先生に接触を図るのは自然なことだ。
そこまで考えが至らなかった自分の甘さに、舌打ちをしたくなる。
私は病院の出口へと急いだ。
背中に確かな視線を感じながら。




