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ポーカースマイル  作者: 城井龍馬
第十五章
30/40

出世払い

眉間の皺が、疼くように熱い。


白浜の執務室を出た後も、頭の奥で鈍い痛みが続いていた。


俺は重い足取りで検察庁を後にした。


夕闇が迫る空は、澱んだ紫色をしている。


このまま警視庁に戻る気にはなれなかった。


寮に帰れば同僚と鉢合わせになるかもしれない。


今の俺には、平常心を装って誰かと会話をする自信など微塵も残っていなかった。


一度に色んなことが起こりすぎた。


情報を整理し高ぶった神経を鎮めるため、独りの時間が欲しかった。


駅前のビジネスホテルに部屋を取る。


カードキーを受け取り、狭いシングルルームに入った。


ドアを閉めると、ようやく街の喧騒が遮断される。


俺はジャケットを脱いでベッドに放り投げ、ネクタイを緩めた。


深く息を吐き出し、デスクの椅子に重く腰を下ろす。


懐から、証拠品袋に入ったスマートフォンを取り出した。


皆原誠の遺品。


そして、瀬戸が俺に託した『動機』。


証拠品の持ち出し、バレれば懲戒処分は免れないだろう。


それでも、一刻も早く中を確認したいという衝動を抑えられなかった。


震える指で電源を入れる。


画面が明るくなり、未送信メールのフォルダを開く。


そこには、一件の作成中のメールが残されていた。


宛先は入っていないが、文面を見れば誰に向けられたものかは明白だった。


俺は画面に食い入るように、その内容を読み進めた。


『……優司君の体には人とは違った特徴があることがわかった、それは染色体キメラというものだ』


染色体キメラ。


……医学用語と思われる聞き慣れない言葉に、眉をひそめる。


『あの日優司君と五十島謙のDNA鑑定、結果は親子関係は無いという結論だった。しかしそれは正しいとは言えない。なぜなら染色体キメラを持つ場合、正しいDNA鑑定結果を得られないからだ。』


どういうことだ?


俺は混乱する頭を必死に回転させる。


『五十島氏が同僚と遺伝子検査の話をしたことで、君は様子がおかしくなった。君と五十島氏の交際時期から考えると交際前の相手との子を妊娠する可能性はほとんど無い、ただ君はもしかしたらと考えてしまったんだね』


文面から、皆原の沈痛な声が聞こえてくるようだ。


『結果を知った五十島氏は離婚を切り出した。君は胸を張ってそんなはずはないと、そう主張することができなかったのだろう』


『妊娠時期、そして君が五十島氏以外の男性と関係を絶った時期から優司君が君と五十島氏以外の男性との子供である可能性は極めて低かった。にも関わらずあのようなDNA鑑定の結果が出ていたのはあまりに不可解だった。その理由が分かった今、私の願いはただ1つ。』


メールの最後は、短い一文で結ばれていた。


『沙良、君に会いたい』


俺はスマホをデスクに置き、天井を仰いだ。


しばらくの間、指一本動かすことができなかった。


染色体キメラ。


この事実が意味することは重すぎる。


五十島謙と須田優司。


二人は実の親子かもしれないし、そうではないかもしれない。


DNA鑑定という科学的な『絶対』が、このケースに限っては『絶対』ではなかったという可能性。


ただ、もし。


もし五十島謙と須田が実の親子だったのだとしたら、彼らの人生とは一体何だったのだろうか。


五十島謙はDNA鑑定の結果に振り回され、愛する妻と息子を信じ抜くことができなかった。


須田沙良は自らの過去の行いに対する罪悪感から、自分自身を信じることができずに精神を病んでしまった。


そして須田優司は。


失われた家族の幸せと歪んだ愛情の中で、未来を信じられなくなってしまったのだろうか。


たった一つの生物学的な特異性が、一つの家族を粉々に破壊し数多の悲劇を生み出したのだとしたら。


運命の悪戯と呼ぶには、あまりにも残酷すぎる。


それと同時に、俺の中でどす黒い感情が湧き上がるのを感じた。


瀬戸のことだ。


このメールには沙良への想いと、優司への言及しかない。


皆原誠は最期の瞬間まで、実の娘である瀬戸のことなどこれっぽっちも考えていなかったのか。


自分の身勝手な愛のために家族を捨て、その果てに死ぬ間際になってなお彼が見ていたのは亡き恋人の幻影だけだった。


「……本当に、胸糞悪いな」


俺は吐き捨てるように呟いた。


皆原への怒りと、瀬戸へのやるせない憐憫が胸の中で渦を巻く。


スマホをデスクの端に押しやり、椅子に深く体を沈める。


目を閉じると、瀬戸の顔が浮かんだ。


彼女は皆原誠という父親から愛されることなく育ち、その影響で自分自身の人生に深い傷を負っていた。


そして今。


この事件によってその傷はさらに深くなり、彼女自身もまたその傷に飲み込まれてしまった。


俺は今まで、彼女の何を見ていたのだろうか。


スマホを机の上に置き、椅子に深く腰掛ける。


ホテルの薄暗い部屋で一人彼女のことを考えていると、記憶は自然と数年前へと遡っていった。


彼女と初めて顔を合わせた日――それは彼女が捜査一課へ配属された時のことだ。


あの日、俺は課長から突然呼び出された。


「十河、お前に頼みたいことがある」


課長はいつものように厳しい表情で切り出した。


「瀬戸清香という新人が捜査一課へ配属されてくる、キャリア組だ。お前には彼女の教育係を任せたい」


その言葉には驚きよりも苛立ちが先に立った。


現場主義の俺にとって、『教育係』なんて面倒な役割はごめんだと思った。


「課長、私が新人教育なんてできると本当にお考えですか?」


断ろうとしたその瞬間、課長は苦笑しながら言った。


「副総監から直接指示されたんだよ、お前に任せたいんだとさ」


その言葉には驚きもあったが、それ以上に不満だった。


しかし『副総監直々の指示』という言葉には逆らえず、渋々受け入れるしかなかった。


「……わかりました」


そう答えながらも心中では、足手纏いなんて邪魔なだけだと毒づいていた。


初めて瀬戸と顔を合わせた時、その印象は『子供だな』と頭に浮かんだくらいだ。


小柄でスレンダーな体型。


俺を見あげるその様子は刑事というよりは迷子のようで、不安すら感じさせる有様だった。


「十河警視、お世話になります」


真っ直ぐこちらを見つめながら挨拶してきたその姿にも、まあ礼儀くらいはちゃんとしていると思う程度だった。


「こちらこそ」


短く返しながらも、こんな小娘に何ができるんだと内心では冷ややかだった。


しかし、その評価が変わるのに時間はかからなかった。


ある日、聞き込み調査への同行を許可した日のことだった。


聞き込み相手は事件当日の目撃者として重要な情報を持つ可能性がある人物。


現場近くに住む中年男性で、少し気難しい性格で知られているという情報があった。


車内で瀬戸に説明する。


「まず俺が話す、お前はしっかり見ていろ」


瀬戸は少し緊張した面持ちで頷いた。


「わかりました」


短く答えるその声には、期待感と不安が混じっているようだった。


聞き込み終了後、車内へ戻る途中で俺は試すように尋ねた。


「これまで得た情報から何かわかったことは?」


瀬戸は少し考え込んだ後、静かに口を開いた。


「曖昧な表現が多くありましたが、所々で何かを話しかける瞬間が見られました。気になるのは過去に警察関係者とのトラブルがあったのか、こちら側に不信感を持っていると見られる点です。そのため、まずはこちら側への警戒心を解く必要があります」


発言の表面だけではなく、相手の心理的要素まで考慮している。


「まあ悪くない」


と軽く返す。


さらに続けて問う。


「この後どうするべきだと思う?」


すると瀬戸は、迷うことなく明確な回答を返してきた。


「次回以降、この人物との信頼関係を構築する必要があります。その上でさらに詳細な証言を引き出すためには、昨日話を聞いた友人の女性に再度話を聞くのも効果的かもしれません」


「……そうだな」


顎に手を当て頷きながらも、内心では少し見直していた。


それまで侮っていた小娘が、自分でも気づかないうちに信頼できる存在になりつつあることを感じ始めた瞬間だった。


瀬戸との関係性は次第に変化していった。


最初こそ面倒な役割だと思っていたものの、今では冗談を言い合えるほど信頼できる存在となっていた。


ある日、夜遅くまで続いた捜査会議後。


二人で軽口を叩き合いながら帰路についた時、その変化を実感した。


繁華街を歩いていると、スーツの裾が引っかかったのか後ろに引かれる感覚があった。


目を遣ると俺のスーツの裾を掴んだ瀬戸が、上目遣いで俺を見あげている。


「……何の真似だ?」


「いい匂いがしませんか?」


おずおずと控えめに尋ねてくる。


言われてみれば、甘い香りが漂っている。


近くのクレープ屋からのようだ。


個人的には甘いものは苦手なので、いい匂いとは思えないのだが。


「……食いたいのか?」


嘆息しつつ尋ねると、


「お腹が空いちゃって、ダメですか?」


と首を傾げる。


全く、仕方のない奴だ。


「……一つだけだぞ」


途端に、彼女の顔に光が差したような満面の笑顔が広がる。


「奢りですね! ありがとうございます!」


飛び跳ねるように喜ぶ瀬戸に、俺は慌てて釘を刺す。


「馬鹿を言え」


えーと不満げに唇を尖らせる瀬戸に、俺は告げる。


「奢るわけないだろ、出世払いだ」


すると彼女は、またパッと笑顔になった。


忙しないやつだ。


「はいっ!」


その元気な返事が、夜の街に響いた。


懐かしいな。


もう二年、いや……二年半も前か。


現実に戻ってくると、瀬戸の異変に気づけなかったという無力感が重く心を覆っていた。


あんなに近くにいたのに。


あんなに笑い合っていたのに。


俺は彼女の心の奥底にあった闇に、何一つ気づいてやれなかった。


ホテルの安っぽい椅子に座りながらその日々を振り返ると、胸中には後悔と自己嫌悪が渦巻いていた。


窓から差し込む街灯りをぼんやりと眺める。


スマホを机の上に置いて椅子に深く腰掛け、ネクタイを緩めた。


スーツの上着は既に脱ぎシャツの袖はまくり上げられていたが、それでも暑苦しさは消えない。


静寂に耐えきれず机の上に置かれたリモコンに手を伸ばし、テレビのスイッチを入れた。


画面が明るくなり、ニュースキャスターの深刻な声が流れてくる。


「……前幹事長事務所に東京地検特捜部が家宅捜索に踏み切りました。今回の大規模贈収賄事件の中心人物と見られており……」


大物議員の大スキャンダルだ。


年貢の納め時という奴だろう。


自分だけでなく家族の犯罪すら揉み消した、その報いだ。


画面が切り替わり、次のニュースが読み上げられる。


「本日午後、先日発生した被告人射殺事案に関連して警視庁の女性警部が任意で事情聴取を受けていることが分かりました」


手が止まる。


「この警部は、被告人が起こしたとされる別の事件の捜査にも関わっていたとのことです。警視庁は捜査の詳細については明らかにしていませんが、関連する全ての事案について慎重に調査を進めているとしています」


アナウンサーの声は淡々としていた。


「現時点では、この警部に対する逮捕等の強制捜査は行われていないとのことです」


俺はテレビを見つめたまま、動けなかった。


画面の向こう側の出来事が、ひどく遠く感じられる。


一度くらい、一緒に食べておけば良かったな。


クレープ。


……そう言えば。


あの出世払いが返って来ることは、もうないんだな。


そんなくだらないことを考えていた。


部屋の隅で、冷蔵庫のコンプレッサーが低く唸りを上げた。

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