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第二章

私は里村久恵、少し曲がった腰をさする。


外を見やると夏の陽射しが容赦なく肌を焦がす。


窓を開けても、生ぬるい風が部屋の中を循環するだけ。


冷房の効いた部屋で、私は冷めた緑茶を飲みながらテレビのニュースを見つめていた。


私は高校教師だったが、数年前に最後の卒業生を送り出し、定年退職を迎えていたのだ。


今テレビには私の元教え子須田優司君の事件について報道が流れていた。


退職から数年が経ち、穏やかな日々を送っていた。


しかし、この事件のニュースは私の心に重くのしかかり、日々の平穏を揺るがしていた。


私はリモコンでテレビの電源を切った。


静寂が部屋に広がる。


うまく寝られないせいか頭が痛む。


こめかみを指で押さえ軽くマッサージした。


寝不足だけではない、あのニュースが、問い合わせの声が、まるで鈍い棘のように頭の中に突き刺さっている。


ここ数日、警察やマスコミからの問い合わせが相次ぎ胸を痛めていた。


優司君の笑顔が浮かぶたび、あの子が本当に…という思いが私の中で渦巻く。


突然電話が鳴り響き、驚いて立ち上がった。


受話器を取ると、若い男性の声が聞こえてきた。


「私弁護士の高津こうづと申します。里村さんのお電話でお間違いないでしょうか?」


「はい、里村です。」


「お忙しい所恐れ入ります、私須田優司さんの弁護を担当しております。もしよろしければ須田さんの事についてお話を伺いたいのですがいかがでしょうか?」


私は一瞬言葉を失った。


事件のことはもう考えたくない。


反面、どうしても優司君が人を殺したという事実を受け入れられない気持ちが私の中で膨らんでいた。


「ええ、構いませんが…。」


少し悩んだ末に答えた。


「実は今お宅の近くにおります。直接お会いしてお話しできればと思うのですが、よろしいでしょうか?」


「わかりました。お待ちしています。」


約15分後、チャイムが鳴った。


私がドアを開けると、きちんとしたスーツ姿の若い男性が立っていた。


やや細身の体型で清潔感がある。


短めの黒髪で控えめな印象を受ける。真面目そうな雰囲気の30代前半の男性だった。


真摯な表情で、少し緊張した様子も見せている。


「お待たせしました。高津です。お時間をいただき、ありがとうございます。」


私は少し間を置いて、


「中へどうぞ。」


と言った。


高津さんを居間に案内しながら、心の中で言葉を選んでいた。


テーブルの上には、須田君たちの卒業アルバムが開かれたままだった。


私は慌ててそれを閉じ、脇に寄せた。


「お茶お持ちしますね。」


と伝え持っていくと、高津さんは丁寧にお礼を仰ってくださった。


二人がソファに座ると、重苦しい沈黙が流れた。


窓の外に広がる夏の景色を一瞬見やり、気持ちを落ち着かせた。


「高津さん。」


静かに口を開く。


「本当にあの子があのようなことをしたとお考えですか?」


高津さんは真摯な表情で答えた。


「残念ですが、自分で通報した上で最終的に自首しているので、それはは間違いないと思います。ただ、どうしてそうなってしまったのかは知りたいと考えています。」


胸の違和感を吐き出すように質問を重ねる。


「本人は何と言っているのですか?」


「ほぼ黙秘しているような状態です。」


高津さんの声には、申し訳なさそうな雰囲気が感じられた。


私は首を傾げた。


「須田君はあなたに弁護を依頼したのでしょう?」


高津さんは少し気まずそうに答えた。


「実は須田さんは弁護士を雇いませんでした。私は国選弁護人です。」


私ははっとして驚きの声を上げた。


「つまり高津さんは国選弁護人で須田君もまともに事件について話していないのに、こんなところまで足を運んで調べてくださっているのですか?」


高津さんは謙遜しながら答えた。


「いえ、なんだかどうしても腑に落ちなくて。それに私以外と顔が広いので、色んな方にご協力いただきながらなんとかやれています。」


目頭が熱くなるのを感じる。


国選弁護人なのに、ここまで…諦めずに須田君を知ろうとしてくれる人がいる。


その事実に、張り詰めていた心の糸がふっと緩むのを感じた。


この弁護士先生の誠実さが胸に染みる。


深呼吸をして気持ちを落ち着かせ、ようやく決意を固めた。


「須田優司君のことですね。」


私は少し躊躇いながら言葉を選んだ。


「7,8年経っていますから、細かいことは思い出せないかもしれません。」


高津さんは頷きながら、


「印象に残っていることだけで構いません。」


と促した。


目を閉じ、記憶を呼び起こすように深呼吸をした。


「あの頃教室はいつも生徒たちの話し声と笑い声で溢れていました。休み時間になると、グラウンドでボールを追いかける生徒、教室で漫画を読む生徒、それぞれが思い思いに過ごしていました。やんちゃな子も多くて、時には手を焼くこともありましたが…。」


自嘲気味に笑いながら、私は高津さんを見た。


「あら、いけない。優司君の事でしたね。」


我に返り話を戻した。


「優司君は、智成君と清香ちゃんとよく一緒にいました。3人で過ごす時間が多かったように思います。他の生徒との関係も、特に問題はなかったように思います。」


高津さんは静かに耳を傾けながら、時折メモを取っていた。言葉が途切れると、彼は慎重に質問を投げかけた。


「須田さんの家庭環境について、何か印象に残っていることはありますか?」


記憶のアルバムを開いていく、


「そうですね、優司君の家庭環境は少し複雑で、詳しいことは次第にわかってきたのですが…。」


深呼吸をし、記憶を整理するように少し間を置いた。


「私があの子達の担任になったのは、8年前のことです。高校2年と3年の時。優司君は最初、叔母さんと二人暮らしをしていたんです。その頃のあの子は穏やかで、クラスでも落ち着いた様子が印象的でしたね。」


高津さんは興味深そうに頷きながら聞き入っていた。


「ところが、彼が高校2年生の終わり頃だったでしょうか、あの震災が起こり、その叔母様を突然亡くされたんです。それから優司君はお母様と暮らすようになりました。」


思わず表情が曇る。


「その後、あの子の様子が少しずつ変わっていったように思います。」


高津さんが、


「母親との関係が影響したのでしょうか?」


と尋ねてくると、少し考え頷いた。


「はい。お母様との関係はあまり良くなかったのです。」


慎重に言葉を選びながら続けた。


「ある日、智成君が私に相談してきたんです、優司君の体にアザがあると。」


表情が硬くなるのを感じる。


「その後、清香ちゃんも私に話してくれました。放課後にプリントを届けた時、家の中からお母さんの怒鳴り声と叩く音が聞こえたと。」


高津さんは訝しげに尋ねた。


「それで、どう対応されたのですか?」


「すぐに児童相談所と警察に相談しました。警察にも協力してもらい、一時保護施設へ入れることになったんです。」


あの時感じた苦みを思い出す。


「でも、その一時保護施設も長くは続きませんでした。優司君のお母様が執念で居場所を突き止めてしまったんです。」


高津さんは驚きの表情を浮かべた。


「それで?」


「児童相談所も人手不足で対応が追いつかず、結局在宅支援という形で家に戻されることになりました。」


私は悔しさを隠せなかった。


「私はその決定に納得できませんでした。そこで学校を巻き込んで、須田君を学校の寮に入れることを提案したんです。」


高津さんは感心した様子で頷いた。


「学校の寮ですか。それなら安全ですね。」


「そう思ったんですが。」


苦笑いを浮かべる。


「お母様が大反対しました。児童相談所も難色を示して話し合いは難航しました。でも最終的には、お母様の内縁のご主人が説得してくれたんです。」


高津さんは興味深げに尋ねてきた。


「そのご主人はどんな理由で説得されたのでしょう?」


「彼が言うには『優司君と沙良さんのためにも、今は少し距離を置いたほうがいい』と言っていました。お母様もわかってはいたようで、渋々ですが納得したようでした。」


高津さんは静かにメモを取りながら、


「ご主人には冷静な判断力があったようですね。」


と感想を述べた。


「この時のことで須田君はかなり私を信頼してくれるようになったと思います…。」


しかし、すぐに暗い色が浮かんだ。


「今にして思うと、それも良くなかったのかもしれません。」


「そんな中、智成君が体調不良で休みがちになってね。」


私は話題を変えた。


「優司君も清香ちゃんも2人で心配そうにしていたわ。」


先を話すのが躊躇われる。


「ある日、智成君のお母様からお電話を頂いてね、『智成は御校を辞めさせて頂きます』と。」


高津さんは驚いた様子で


「え!?なんでですか!?」


と声を上げた。


「私も驚きました。でもね、続きを聞いて唖然としたわ。」


一瞬言葉を詰まらせる。


「智成君が病院で白血病って診断されたと言われました。」


高津さんの表情が凍りついた。


私は静かに、感情を抑えながら続けた。


「それでね、お見舞いに来てどんどんやつれていく自分を見せるのは嫌だから、家庭の都合で引っ越す事になったと伝えて欲しいって。ただ、さすがに学校と先生には伝えないといけないとお母様が智成君を説得してくださったの。」


高津さんが、


「でもそれだと生徒に嘘をつく事になりませんか?」


と聞いてくる。


答えにくい質問だった。


「そうですね。でも職員会議でそのお願いを聞き入れる事に決まりました。それが智成君の最後の願いだからと。」


思わず声が低くなった。


「そして智成君は亡くなった。学校は取り決め通り知らないふりを決め込んだ。」


深いため息をつく。


「でも智成君の死を知ってしまった子が2人だけ、優司君と清香ちゃん。」


「智成君は清香ちゃんだけには伝えていたみたい。優司君には…地元が一緒で伝わってしまったみたい。」


目に涙が浮かんだ。


「葬儀の日に優司君が私のところに来たのを今でも覚えているわ。なんで教えてくれなかったのかって。」


声が震えた。


「私はそれが智成君の望みだったの、彼が望んだように、病気でやつれた智成君じゃなく元気な頃の智成君を忘れないであげてと言ったんです。でも、それを聞いた優司君は…。」


言葉を絞り出す。


「僕の望みは?僕はやつれていようがなんだろうが最後まで一緒にいたかった、話したい事もたくさんあったと言われて、私は何も返せなかった。」


私は深く息を吐いた。


「元々普段から笑顔でいる子だったけど、あれから優司君は前にもまして笑顔が増えた。でも私は以前には無かった距離を確かに感じました。」


高津さんは静かに耳を傾けていた。


遠くを見つめ小さな声で、


「あの時私は…もっと何かできたんじゃないかって思うことがあります。」


高津さんがそれに反応し慎重に尋ねた。


「何か気がかりなことがあったのでしょうか?」


深いため息をつき、続きを話す。


「あれからも何度か話をしました。智成君の事もお詫びして、あなたの気持ちも考えるべきだったと。」


「須田さんは何と?」


高津さんが促すように尋ねた。


「でもその度に優司君は『大丈夫、気にしていませんよ。生徒の最後の希望を叶えてあげたくなる気持ちは理解できますし、学校の方針や先生のお立場もあったでしょう?寧ろ僕の方こそ深く考えず感情をぶつけてしまってすみません』とお詫びされたわ。」


以前のように気軽に話しかけてはくれる。


でもふとした瞬間に見せる笑顔が、まるで薄いガラス一枚隔てた向こう側にあるように感じられた。


心のなかに様々な色が滲んで黒みを帯びていく。


「やっぱりできてしまった距離は埋まらなかった。そのまま卒業を迎えて、私は優司君とはそれっきりです。」


目を閉じて過去の記憶が鮮明によみがえるのを感じた。あの子の笑顔、智成君の病気、そして今回の事件。全てが絡み合い、私の心を重く押さえつけていた。


「優司君…。」


私はつぶやいた。


「あの時、あの子をお母様から助けたことで、智成君の件であの子に大きな失望を与えてしまったのかもしれない。」


高津さんは慎重に言葉を選びながら尋ねた。


「里村先生は、当時の対応について悔いておられるのですか?」


私は首を横に振った。


「後悔しているわけではないのよ。ただあの後だったからこそ、私は優司君の信頼を大きく損なってしまったと思うんです。」


高津さんがでもそれは…と割って入ろうとするも、それを制して、


「順番が悪かった…抗いようがないのだから…巡り合わせね。」


私は居住まいを正し、


「最後にもう一度質問させてください、高津さんは本当にあの子があのような恐ろしいことをしたとお考えですか?須田君は人の命の大切さを知る優しい子です。私にはとても信じられないのです。」


高津さんが困っているのが見て取れる、こんな事を聞いた所でどうにもならないのだ。


「埒もないことを申しました、優司君をよろしくお願いします。」


と頭を下げた。高津さんも丁寧に礼を返した。


「はい、貴重なお話ありがとうございました。」


高津さんが去った後、窓際に立ち、遠くを見つめた。


胸に残る感情は複雑だった。


「優司君…。」


深いため息をつき、静かに目を閉じた。


記憶の中で、優司君の笑顔と智成君の笑顔が蘇る。


「先生!」


昼休みにグラウンドで皆と遊んでいた優司君が私に手を振っている、袖まくりをしていた腕からは以前あったアザの跡が消えかかっていた。


そんなあの子の姿に口元がほころぶのを感じる。


優司君の明るい笑顔には、幸せが溢れていた。


しかしその記憶を黒い雨が無機質に塗り潰す。


灰色の空から小雨が降り注ぐ中、智成君の葬儀が行われていた。


土と雨の匂いに混じって、線香の香りが鼻をついた


参列者の黒い傘が、まるで墨絵のように並んでいる。


私は少し離れた場所から、優司君と清香ちゃんの姿を見つめていた。


二人は雨に濡れながら、じっと火葬場に送られる棺を見つめている。


清香ちゃんは静かに涙を流し、優司君は拳を強く握りしめていた。


そして参列者たちが帰り始めた頃、優司君がゆっくりと私の方へ歩いてきた。


その足取りには迷いと怒りが入り混じっているようだった。


「先生…。」


優司君は低い声で問いかけてくる。


「どうして教えてくれなかったんですか?」


その静かな声には、深い悲しみと確かな怒りが込められていた。


私はその問いに一瞬言葉を失った。


私は必死に気持ちを落ち着けようとしながら答えた。


「智成君の最期のお願いだったの…。病気でやつれた姿ではなく、元気な頃の自分を覚えていてほしいって…。」


その瞬間優司君の表情が崩れ、彼は拳を握り直し大きな声で叫び始めた。


「僕の気持ちはどうなるんだよ!?僕は最後まで一緒にいたかったんだ!やつれていようがなんだろうが関係ない!智成と話したいことだっていっぱいあったんだよ!なんでそれを奪ったんだよ!」


その叫び声は雨音を越えて響き渡った。清香ちゃんが慌てて優司君の腕を掴もうとしたが、あの子は振り払った。


「清香も先生も知ってたのに!なんで僕にだけ言わないんだよ!智成!」


優司君は泣き叫びながら地面に膝をついた。


子供のように声を上げて泣く、私はそんな優司君を見るのは初めてだった。


雨音を引き裂くような嗚咽が、私の鼓膜だけでなく心臓まで直接揺さぶる。


普段穏やかで笑顔を絶やさない彼が、ここまで感情を爆発させる姿に驚きを隠せなかった。


そして、その痛みがどれほど深いものなのかを思い知らされた。


忘れてはいけなかった、彼もまた強い思いを抱いていたのだと。


清香ちゃんも泣きながら優司君の背中に手を置いた。


「須田君…ごめんね、黙っていてごめんね。」


しかし優司君は顔を上げず、その場で崩れるように泣き続けた。


私も涙が止まらなかった。


ただ立ち尽くしながら、その場で何もできない自分自身への無力感に苛まれていた。


私は目を開け現実に戻った。


窓の外では夏の日差しがまぶしく輝いている。


しかし、その光景とは裏腹に、あの日の雨音と優司君の叫び声だけが耳元で響いているようだった。


胸には今なお消えない悲しい色だけが残っていた。

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― 新着の感想 ―
かつての教え子が事件を起こしたという衝撃と、自らの過去の選択への葛藤が重なり、読者の心に深く突き刺さる章でした。教師としての誇りと無力感、そして優司君への複雑な想いが、丁寧な心理描写で描かれています。…
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